32話目
朝の光が、大きな窓から心地よく差し込んでくる。
ローベルク伯爵家の食堂では、白いテーブルクロスの上に並べられた色とりどりの料理が、湯気を立てていた。
銀の食器が触れ合う微かな音と、柔らかな談笑が、穏やかな朝の時間を彩っている。
ミシェリアは、目の前のプレートに乗せられたオムレツにフォークを入れながら、ふと口を開いた。
「今日のランチは外で食べるわ。夜も帰れないかも。」
その言葉に、シェリルアがぱっと顔を輝かせる。
「まぁ! デートね!」
にこりと微笑む姉の言葉に、ミシェリアは一瞬動きを止めたが、すぐに肩をすくめた。
「まぁ……そんなところかしら。」
言葉を濁しながらも、ヴィヴィアンと過ごす一日を想像すると、自然と頬が熱くなるのを感じる。
その様子を見ていた父、シェトランドは、椅子の背に寄りかかりながら低く笑った。
「もう一緒に住んだらどうだ?」
「結婚披露宴が終わってからって決めてるの。」
さらりと答えるミシェリアに、姉は「まあ、羨ましいわね。」と優雅に微笑む。
そんな姉の横で、ヴィーネストが、スプーンを持ったまま小首をかしげた。
「シェリーお姉様も僕とデートしよ?」
「あら、素敵ね。喜んで。」
シェリルアはくすくすと笑いながら、ヴィーネストのふわふわとした銀髪を撫でる。
(……お姉様、本当にヴィーネストのこと、ただの可愛い弟だと思ってるのね。)
ミシェリアは内心でため息をついたが、平和な食卓の雰囲気を壊すのも気が引けるので、黙ってパンを口に運ぶ。
けれど、ふと気づいた。
(……なんだか、料理がどんどん豪華になっていってない?)
普段の朝食も十分に贅沢ではあるが、今日は特に食材が豪華だ。
焼きたてのクロワッサンに、上質なバターとジャム。
ふわふわのオムレツにはトリュフの香りが漂い、ハムやチーズの盛り合わせも、王宮で出されるようなものばかりだ。
思わず、父に視線を向けると、彼は朗らかに笑いながら斜め隣に座るヴィーネストの頭をわしゃわしゃと撫でた。
「はっはっはっ。うちには稼ぎ頭がいるからな。」
「……。」
ミシェリアは目を細める。
(……ヴィーネストったら、また何かしてるわね。)
朝から平然と贅沢な料理を味わっているヴィーネストは、きょとんとした顔で「ん?」とこちらを見てくる。
(何でもないわよ……。)
ミシェリアは心の中でそう呟きながら、コーヒーカップを口元に運んだ。
すると、侍女のキャリーがすっと彼女の横に近づいてきた。
「お嬢様、そろそろご準備を。」
「……あら、もうそんな時間?」
ゆっくりと椅子から立ち上がると、姉がにっこりと微笑みながら「楽しんできてね。」と囁く。
「えぇ。行ってきます。」
ミシェリアは軽く微笑み返し、朝食を終えると、専属侍女のキャリーとともに自室へ向かった。
◇◆◇◆◇
自室のドレッシングルームに入ると、目の前には繊細な刺繍が施されたドレスが広げられていた。
その美しい生地に目を奪われながら、ミシェリアはそっと指先で触れる。
「キャリー、このドレス……?」
戸惑いながら尋ねると、侍女のキャリーはにこりと微笑んだ。
「今朝、届きましたよ。ちゃんとランブルリアのドレスですから、間違いなくラヴェルノワ公爵様からのプレゼントですよ! 直筆のカードもついておりますし。」
そう言って、彼女はドレスの横に添えられていた封筒を手に取る。
「直筆の……?」
ミシェリアは驚きながら、封を開ける。
美しい筆跡が、柔らかな紙の上に躍る。
『愛する妻へ』
一瞬、息が止まる。
(……愛する、妻へ。)
まだ慣れないその響きに、胸の奥がくすぐったくなるような、落ち着かない気持ちになる。
「お嬢様、素敵ですねぇ。愛情たっぷりですわ!」
キャリーが無邪気に微笑むのを横目に、ミシェリアはそっとカードを閉じた。
「……こんなことで喜ぶなんて、私もまだまだね。」
苦笑しながら、再びドレスに視線を落とす。
鮮やかな青の生地に、所々淡い桃色のレースが巧みにあしらわれ、金糸の刺繍が華やかに輝いている。
ヴィヴィアンらしい――端正で、どこか気品に満ちた贈り物。
(本当に……私のことを、愛してくれているのね。)
自然と胸の奥が、じんわりと温かくなる。
「お嬢様、さぁ、早くお召しくださいませ!」
キャリーがウキウキとした様子でドレスを手に取る。
「……えぇ。」
ゆっくりと微笑みながら、ミシェリアは袖を通した。
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――――――――
ローベルク伯爵家の客室に足を踏み入れたヴィヴィアンは、静かに息を整えた。
彼が身に纏っているのは、鮮やかな青の生地に淡い桃色のリボンがあしらわれ、金糸の刺繍が上品に煌めく衣装。
(……似合っているだろうか。)
普段は機能性を重視した服装が多い彼にとって、こうした華やかな装いは少し落ち着かないものだったが――。
「兄上、いつになく着飾ってるね。」
対面のソファに腰掛けていたヴィーネストが、じっとヴィヴィアンを見ながらにやりと笑った。
「……あぁ。」
淡々と返すヴィヴィアン。
ヴィーネストは小さく首を傾げながら、思い出したように言う。
「兄上ってさ、ランブルリアの衣装、好きだよね? でも、僕はサロエローズの方が好きなんだけど。」
ヴィヴィアンは一瞬、眉をひそめた。
「お前のせいでデザイナーがぶつかり合っていた。もう少し考えてくれ。」
呆れたようにため息をつくが、ヴィーネストはどこ吹く風。
「やだよ。お堅いランブルリアより、華やかで軽やかなサロエローズこそシェリーお姉様にはぴったりだもん。」
彼は得意げに胸を張る。
ヴィヴィアンは何も言わず、スッと手を伸ばすと――。
ぎゅむっ。
ヴィーネストの両頬を、容赦なくつねり上げた。
「~~~っ!! い、痛い、兄上っ!!!」
「少しは考えて発言しろ。」
「やだってば!! ちょっ……ほら、顔が歪んじゃう!!」
「もとに戻るだろう。」
ぐいぐいと引っ張る兄の手を必死に振り払おうとするヴィーネスト。
そんなやりとりの最中――。
「もう、二人とも何してるの?」
呆れたような声が響いた。
二人が同時に振り向くと、そこには、ゆったりと歩いてくるミシェリアの姿があった。
鮮やかな青のドレスに、柔らかな桃色のレース。金の刺繍が繊細に輝くその装いは、彼女の優雅な佇まいをより一層引き立てていた。
一瞬、空気が止まる。
ヴィヴィアンの手が、ぱっとヴィーネストから離れた。
「……綺麗だ。」
彼は低く、けれどはっきりと呟く。
「衣装は気に入っているか? 華やかさが足りないとか、ないか?」
言葉は冷静を装っているが、その瞳はどこか緊張しているようにも見えた。
ミシェリアは微笑みながら、軽くドレスの裾を持ち上げる。
「大丈夫よ。とても素敵で上品で、すごく気に入ったわ。」
その瞬間。
ヴィヴィアンの瞳が満足げに細まり、ゆっくりとヴィーネストの方へ視線を移した。
『ほれみろ』
そんな無言の圧力を込めた、勝ち誇ったような眼差し。
「……ふーん。」
ヴィーネストは口を尖らせながらそっぽを向いたが、ヴィヴィアンはまるで相手にしていないかのように、静かに手を差し出した。
「行こう。」
「えぇ。」
ミシェリアは微笑みながら、その手を取る。
ヴィヴィアンにエスコートされながら外へ出ると、澄み切った青空が広がっていた。
「良い天気ね。」
柔らかな日差しが降り注ぎ、春の香りを含んだ風がそっとドレスの裾を揺らした。
「今日はどこへ行くの?」
「オペラ劇場へ。」
「……オペラ?」
ミシェリアは思わず聞き返す。
オペラ――。
貴族の社交の場としても重要な存在であり、多くの者が熱心に鑑賞する文化のひとつ。
けれど、ミシェリア自身はあまり興味がなかった。
(長いし、退屈なものが多いし……。)
どちらかと言えば、華やかな舞踏会や馬車での散策のほうが楽しい。
だが――。
「演目は『歌姫』だ。」
ヴィヴィアンの言葉に、ミシェリアの歩みがぴたりと止まる。
「『歌姫』……。」
それは、彼女が数少ないオペラの中で唯一、心を震わせた作品だった。
愛と別れ、そして再会を描いた壮大な物語。
歌姫と騎士が運命に翻弄されながらも、互いを求め合う切ない旋律。
(……まさか、それを選んでくるなんて。)
思わずヴィヴィアンを見つめると、彼は穏やかな微笑みを浮かべていた。
「いいのかしら?」
ミシェリアは、からかうように片眉を上げる。
「そんな手札を、ここで切ってしまって?」
彼が私の好みをしっかり理解していることがわかって、少しだけ気恥ずかしくなる。
しかし、ヴィヴィアンは余裕たっぷりに肩をすくめると、品のある笑みを浮かべて言った。
「望むところだ。
君の心を動かせるのなら、何度でも手を尽くそう。」
ミシェリアは驚きと共に、心が微かに揺れるのを感じた。
そして、ふいに彼の腕へとそっと手を添える。
「……だったら、せいぜい頑張って?」
冗談めかした口調の中に、ほんの少しだけ本音が混ざっていた。
ヴィヴィアンの目が、優しく細められる。
「もちろん。」
静かに返されたその言葉に、
ミシェリアの頬が、ほんのりと熱を帯びていくのだった。




