31話
ミシェリアは、庭園のガーデンチェアに腰を下ろし、そよ風に吹かれながら、ふうっと息をついた。
婚約式の騒動から数日が経ち、少しずつ気持ちを落ち着かせようとしていたが、心のどこかがまだざわついていた。
(ヴィヴィアンも、結婚式の話を勝手に進めるなんて……もう少し、相談してくれてもよかったのに……。)
ふと、背後に影が差し込んだ。
(……?)
誰かが立っている。
振り向いた瞬間、ミシェリアの体が固まる。
「……ミーシャ。」
穏やかではあるものの、どこか苦しげな声。
そこには、王太子ミリスクレベンがいた。
驚きに目を見開くミシェリアだったが、彼の顔を見た瞬間、あの狂気に満ちた表情ではないことに気がついた。
どこかやつれたような、痛みに耐えるような――そんな表情だった。
「話を……いいか。」
しばらく彼を見つめた後、ミシェリアは小さく息を吐き、向かいの椅子を指し示す。
「どうぞ。」
ミリスクレベンは静かに頷き、椅子に腰を下ろした。
「よく入れましたね。」
ミシェリアが軽く目を細めて問うと、彼は小さく笑い、肩をすくめる。
「少し圧力をかけさせてもらった。」
「……そうですか。」
特に驚きもせずに答えたが、それだけの影響力を持つ彼が、こうして直接会いに来たということが、ミシェリアには少し奇妙に思えた。
「その……すまなかった。」
ミリスクレベンの声が、微かに震えた。
「俺はまた……君を殺そうとしたようだ。」
ミシェリアの手が、膝の上で僅かにこわばる。
(……確かに、私が王太子と結婚すれば、未来には死しかなかった。)
彼の言葉は誇張ではない。
過去の記憶が、彼の口から事実として告げられたのだ。
「もう、終わったことです。」
ミシェリアは、淡々と告げた。
「……前の時間でも、俺は……日に日に悲し気な顔になっていくミーシャを見ていられなかったんだ。」
そう言った彼の目には、確かに後悔の色が滲んでいた。
「心は……確かに聖女に奪われていた。だが、君を愛していた日々を忘れてなどいなかった。」
「……。」
「だからせめて……自分の手でと。」
ミシェリアは、ふっと目を伏せた。
「……あなたは王太子として失格ですね。」
ピクリと、ミリスクレベンの肩が揺れる。
「……そうだ。俺は王太子になるべき人間じゃない。」
「でも、ならねばなりません。」
彼は一瞬だけ目を見開いたが、すぐに目を伏せ、乾いた笑みを浮かべた。
「……そうだ。」
「私との関係は……あなたが私に毒を飲ませた時点できれいさっぱり終わったんです。」
「……あぁ。本当に……すまなかった。」
今になって、どれほど後悔の言葉を並べても、決して過去は変わらない。
ミシェリアは静かにそう思いながらも、ミリスクレベンの沈んだ横顔を見つめた。
「私とレヴィは、最初から結ばれる運命じゃなかったのよ。」
「……あぁ。」
彼は小さく頷く。
だが、その顔には未だに諦めきれないような影があった。
「……だが、もし魅了が解除されれば、また俺は時を戻してしまうかもしれない。」
その呟きに、ミシェリアは少し考え込んだ。
「困った人ね。」
そう言って、彼の顔を見つめる。
「なら……こうしましょう。」
ミリスクレベンが、わずかに目を細める。
「もし、歳をとって、ヴィヴィアンもリーサも死んでしまっていて、私とレヴィが生き残ってしまったのなら……」
「もう一度……。」
その言葉が最後まで紡がれることはなかった。
――突然、視界が影に覆われた。
「……随分と遅かったのね。」
振り返ると、そこには、汗をかき、息を荒げたヴィヴィアンが立っていた。
彼はミシェリアの椅子の背もたれに手を置き、ギロリとミリスクレベンを睨みつける。
「ヴィヴィ……?」
ミシェリアが驚いた声を漏らすと、ミリスクレベンは両手を上げ、ゆっくりと立ち上がった。
「帰るとしよう。」
そう言い、ミシェリアの耳元で小さく囁く。
「約束だぞ。」
ミシェリアの心臓が、一瞬だけ跳ねる。
「何を……約束したんだ?」
鋭い目を向けてくるヴィヴィアンに、ミシェリアは軽く肩をすくめた。
「さぁ?」
「ミーシャ!」
ヴィヴィアンの声が、どこか焦りを帯びる。
「数日音信不通だった人には、教えませーん。」
「……っ!!……それは。」
彼は口を開きかけるが、すぐに言葉を詰まらせる。
「結婚式を早めるせいでしょ? 私になんの相談もなしに。」
「だが、もう結婚してしまっているから、早めてしまったほうが……。」
「私、18になるまでは、ここを出る気ないのだけど。」
ヴィヴィアンは言葉を詰まらせる。
しばらくの沈黙の後――。
「……わかった。」
少し苦々しげな表情を浮かべながら、彼は言った。
「予定通り、1年半後にする。」
ミシェリアは、満足げに微笑んだ。
◇◆◇◆◇
ヴィヴィアンは、机に向かい、ペンを走らせていた。
ローベルク伯爵家へ送る手紙に、「予定通り1年半後に式を執り行う」という内容を書き記している。
その表情は、ひどく真剣だった。
側近たちが周囲で忙しなく動き、彼の指示を待っている。
「手紙を書き終えたら、すぐにローベルク伯爵へ届けてくれ。」
「承知しました、公爵様。」
側近たちが深々と頭を下げるのを横目に、ヴィヴィアンはまた視線を手紙に戻す。
まるで、そこにすべての想いを込めるように、一字一字、丁寧に。
そんな彼の姿を見つめながら、ミシェリアは小さく息を吐いた。
「確かに、三ヶ月後に式をあげれば、ヴィヴィの不安な気持ちは解消されるかもしれません。けれど、私の気持ちは解消されないわ。」
ヴィヴィアンの手が、一瞬止まる。
ミシェリアの言葉は穏やかだったが、決して突き放すものではなかった。
彼女は、彼を拒絶しているわけではない。
けれど――まだ完全に受け入れたわけでもない。
「せっかく……声が戻り……制約も解け……思いをいつでも伝えられるようになったというのに……俺は何もできていないな……。」
ヴィヴィアンは苦笑混じりに呟く。
「そうです。」
ミシェリアは少しだけ頬を膨らませ、腕を組んだ。
「言っておきますけど、今のあなたと私は王太子妃と騎士の関係から動けてないわ。」
「……そうか。」
「そうですよ。」
ヴィヴィアンはじっと彼女を見つめた。
その瞳に、言葉にできない感情が揺れているのが分かる。
やがて、彼は静かに誓うように言った。
「結婚までに挽回すると誓う。」
「そうしてください。」
ミシェリアはあっさりと頷いた。
「……相談……すればよかった。」
ヴィヴィアンがポツリと呟く。
「えぇ、そうですね。」
ミシェリアは小さくため息をついたが、その視線はまっすぐにヴィヴィアンの喉元へと向けられていた。
彼の喉仏のあたりには、神殿婚の証である刻印がくっきりと浮かんでいる。
それは、三日月の上に星が輝く特別な紋様――神に認められた夫婦だけに与えられる印。
彼女は指先でそっとその刻印をなぞりながら、言葉を紡ぐ。
「その刻印がある限り、私たちは神に認められた夫婦には違いないわ。もう、私が誰かに取られる心配はないでしょう?」
「……あぁ。」
ヴィヴィアンの瞳がわずかに揺れた。
「なら、結婚式は……互いに愛し合う、最高の式にしたいと思わない?」
しんとした沈黙が降りる。
ヴィヴィアンの表情が、微かに変わる。
それは、ずっと抱えていた何かがほどけるような、そんな変化だった。
やがて――。
「……わかった。」
彼は、小さく微笑んだ。
「そうする。」
その顔を見た瞬間、ミシェリアの胸が不思議と軽くなった。
「やっと笑ってくれたわね。」
ミシェリアは微笑みながら、そっと彼の手を取った。
ヴィヴィアンの手は、温かかった。




