30話目
馬車の小さな窓から、淡い朝の光が差し込み始めていた。
夜の帳が薄れ、ゆっくりと朝焼けが広がっていく。
それはまるで、新しい未来の幕開けを告げるかのようだった。
ミシェリアは、その光景をぼんやりと眺めながら、静かに口を開く。
「ヴィヴィアン、ひとつ……聞いてもいい?」
ヴィヴィアンは、正面の席で静かに座っていた。
その紫の瞳が、ゆるやかに瞬き、ミシェリアへと向けられる。
「はい。」
「もし……あの舞踏会で、私がヴィヴィアンに声をかけていなかったら?」
彼は一瞬だけまばたきをして、何かを考えるように視線を落とした。
そして、静かに言葉を紡ぐ。
「ただ……あなたが幸せになれるなら、それでいいと。静観するつもりでした。」
ミシェリアは、その言葉に心臓をぎゅっと掴まれたような気がした。
胸の奥に、言葉にできない感情が込み上げる。
「……そう。」
もし、彼が本当にそうしていたなら――。
私は今、何をしていただろう?
「なら、もういいわ。」
彼は驚いたように目を瞬かせた。
ミシェリアは、小さく微笑む。
「普通に接して。」
ヴィヴィアンの表情が、かすかに揺れる。
「私たち、夫婦でしょ?」
その一言に、彼は小さく息を呑み、そしてすぐに瞳を伏せた。
「……はい。」
ミシェリアはそっと馬車の座席にもたれ、ふわりとした疲労感が身体を包むのを感じた。
「少し眠るわ。肩を借りていい?」
一拍の間があり――。
ヴィヴィアンは、静かに立ち上がり、正面の席から隣へと移動する。
慎重に、彼女の肩に自分の肩を差し出す。
ミシェリアは、その温もりに安心するように身を預けた。
「ありがとう……私を助けてくれて。」
ヴィヴィアンの手が、一瞬だけ小さく動いたように見えたが、彼はすぐに静かに答えた。
「……はい。」
窓の外では、朝の光がますます強くなり、ゆっくりと世界が目覚めていく。
ミシェリアは、うっすらと目を閉じながら、ぽつりと呟いた。
「でも……どうしても、神殿でのあなたは……まるで悪役みたいだったわ。」
彼の肩が、微かに揺れる。
しばらく沈黙が落ちた後、ヴィヴィアンは低い声で静かに答えた。
「それは……」
少し間を置いて、彼は穏やかに言葉を続けた。
「……憎悪が、溜まっていたんだ。何年も耐えてきたから。」
まるで、長い時をかけて堰き止められていた感情が、ふとこぼれたような声音だった。
ミシェリアは、そっと目を開ける。
ヴィヴィアンの横顔は、どこか儚く、どこか苦しげで――それでも、穏やかな色を帯びていた。
ふっと、小さく微笑む。
「ふふふ……そっか。」
ヴィヴィアンは、驚いたように彼女の顔を見下ろした。
朝焼けの光が、馬車の中をやわらかく包み込んでいた。
静かで、穏やかで、ただそこに互いの存在があるだけで――心が満たされていくような時間だった。
――――――――――
――――――――
数日後、王都の新聞がこぞって大見出しを掲げた。
ローベルク伯爵邸の朝食の席――。
「……な、なによこれ!!?」
ミシェリアは新聞を広げた瞬間、驚きのあまり声を上げた。
「ミーシャ、どうしたの?」
優雅に紅茶を口に運んでいた姉のシェリルアが、不思議そうに顔を上げる。
「これよ!これ!!」
震える手で新聞を突きつけると、姉も覗き込んだ。
そこには――。
《王太子、婚約式に突如乱入!? 王族の威厳、地に落ちる》
《前代未聞の混乱! ラヴェルノワ公爵が王太子を圧倒!!》
《ミシェリア嬢、婚約破棄どころか神殿結婚へ――急展開の裏側とは?》
《婚姻の誓いとともに、失声病が奇跡の回復! これは神の祝福か、それとも……?》
そんな刺激的な見出しが、新聞の一面を飾っていた。
ミシェリアは呆然としながらページをめくる。
そこには、詳細な記事が書かれていた。
◇◆◇◆◇
王太子ミリスクレベン殿下、婚約式を中断!?
ラヴェルノワ公爵家とローベルク伯爵家の婚約式の最中、王太子が突然現れ、花嫁であるミシェリア嬢に求婚。
騒然とする会場の中、ラヴェルノワ公爵が王太子を制し、結果的に婚約式は中断されることとなった。
目撃者の証言
「王太子殿下が、あのように感情的になられるのは前代未聞でした。」(貴族男性)
「まるで愛に狂った青年のようだった……。」(令嬢)
「ラヴェルノワ公爵様が、静かに立ちはだかり、王太子殿下を圧倒される姿は実に見事でした。」(某貴族)
◇◆◇◆◇
「……なんなの、これ。」
ミシェリアは新聞をぎゅっと握りしめ、深いため息をついた。
「いやまぁ、事実ではあるけど……。」
婚約式を滅茶苦茶にされ、逃げるように神殿に駆け込んで結婚を果たしたのだから、記事の内容に反論の余地はない。
しかし――。
「ご乱心って……どれだけ世間に驚かれてるのよ……。」
(まぁ、無理もないか。王族が、感情のままに貴族の婚約式を中断させるなんて、前代未聞よね……。)
すると、向かいに座っていた父、シェトランド伯爵が大きく咳払いをした。
「……とんでもないことになったな。」
「……ええ。」
シェリルアも新聞を手に取り、眉をひそめる。
「まぁ、確かに驚くわね……王太子殿下がミーシャをここまで求めているなんて。」
「ちょ、ちょっと、お姉様!? そんな言い方やめてよ!! 私はヴィヴィと結婚したのよ!?」
ミシェリアが必死に否定するも、姉は「そうねぇ」と言いながらもどこか納得していない表情だった。
――そんな会話をしていると、不意に新聞の一角に気になる記事を見つけた。
《神殿の結婚の儀にて、ラヴェルノワ公爵が奇跡の回復! 失声病を克服!》
「……はぁ。」
ミシェリアは肩を落とす。
「これ、ヴィヴィが見たら、どんな顔するかしら……。」
新聞には、『神の祝福を受けた愛の奇跡か!?』などとセンセーショナルな見出しが躍っている。
実際には、"呪いが解けた"だけなのだが……。
(あの儀式、どう考えてもロマンティックとは程遠かったのに……。)
無駄にドラマチックに書かれた記事を見つめながら、ミシェリアは頭を抱えた。
「……しばらく、社交界には顔を出したくないわ。」
ミシェリアは新聞を手にしたまま、深いため息をついた。
これほどまでに世間の話題になってしまった以上、どこへ行っても注目の的になるに違いない。
婚約式は滅茶苦茶にされ、強行突破の神殿婚、その上王太子の「ご乱心」とまで書かれる始末。
どこからどう見ても、波乱万丈すぎる結婚劇だった。
「何を言っているんだ。」
不意に、新聞を読んでいた父――シェトランド伯爵が、真面目な顔で口を開いた。
「お前たちが結婚してしまったから、公爵家のしきたりを無視して、三ヶ月後に正式な結婚式を開くと通達があったぞ。」
「えっ……!?」
ミシェリアは反射的に新聞を手から落とした。
「聞いてないんだけど!!」
驚きのあまり椅子から身を乗り出すと、父は溜息をつきながら手元の封書を示した。
「さっき届いたんだ。」
淡々としたその言葉に、ミシェリアの頭はさらに混乱する。
(結婚式……? なんでそんな話が勝手に進んでるの!?)
「……うそでしょ……。」
ミシェリアは呆然としながら、ぐったりと肩を落とした。
そもそも、神殿で結婚をしてから、ヴィヴィアンとは一度も会っていない。
結婚して、彼の妻になったというのに。
(本当に結婚したのよね……?)
連絡もなく、使いの者も来ない。
まるで、すべてが夢だったのではないかと思ってしまうほど、彼の存在が遠く感じた。
「ミーシャ、大丈夫?」
シェリルアが心配そうに覗き込んできたが、ミシェリアはもう何も考えたくなくて、その場を立ち上がった。
「……部屋に戻るわ。」
短くそう言い残し、新聞を置いて歩き出す。
頭の中が整理できない。
怒るべきなのか、不安になるべきなのか、自分の気持ちが追いつかない。
静かな廊下を抜け、部屋の扉を開くと、見慣れた空間が広がっていた。
「……はぁ。」
ベッドへ向かうと、そのまま力なく倒れ込んだ。
ボスンッ――。
ふかふかのシーツに顔を埋める。
(結婚してるのに、結婚式をするってどういうこと……?)
(そもそも、ヴィヴィアンは何を考えているの?)
すべてが急展開すぎて、頭がついていかない。
「……もう、どうにでもなれって感じよね……。」




