28話目
「……ミーシャ。」
静かに呼ばれたその名に、ミシェリアは息を呑んだ。
王太子ミリスクレベン。
金色の髪を持つ彼は、神殿の入口に立ち、鋭い碧眼でこちらを見据えている。
だが――その瞳に浮かぶ感情は、怒りとも焦燥ともつかぬ、奇妙な熱を孕んでいた。
「……ミーシャ。」
もう一度、名を呼ばれる。
その声には、焦りとも狂気ともとれる激情が滲んでいた。
一方――。
ミシェリアを抱き寄せたままのヴィヴィアンは、チラリとミリスクレベンを一瞥し、無造作にミシェリアの髪を撫でた。
その仕草には、まるで挑発するかのような余裕すら感じられる。
「来たか、王太子殿下。」
皮肉げに目を細めるヴィヴィアン。
低く、甘く、そして底知れぬ闇を孕んだ声だった。
「だけど、遅かったな。」
そう言うと、ミシェリアを抱き寄せる腕の力がさらに強まる。
(苦しい……)
それでも、決して離す気はない――。
まるで、「誰にも渡さない」と言わんばかりに。
「ミーシャ……いけない!!」
ミリスクレベンの叫びが、神殿に響き渡る。
「今すぐ、その男を殺すんだ!!」
「……え?」
ミシェリアの思考が、一瞬、停止した。
何を言っているの?
戸惑い、混乱しながらも、ミシェリアは必死に理解しようとする。
(どうなってるの? ヴィヴィアンは様子が変だし……)
(ミリスクレベンもまるで未来の記憶があるかのような口ぶりで、私を呼ぶし……)
「ミーシャ!!」
再び、王太子の声が響く。
「その男――ヴィヴィアン・ラヴェルノワは、回帰前に……俺に聖女をあてがい、お前を奪ったんだ!!」
衝撃が、ミシェリアの全身を貫いた。
「ヴィ……ヴィ……アン?」
震える声で名前を呼ぶ。
だが、次の瞬間――。
「奪った? クックック……」
ヴィヴィアンは喉の奥で低く笑った。
それは、今まで聞いたこともないほど、冷たく、そして悪意に満ちた笑い声だった。
「殺したではないか。」
その言葉に、ミシェリアの体が凍りつく。
「その手で……毒を飲めと……言ったんだろう?」
「……あぁ、言ったさ。」
ミリスクレベンは唇を噛みしめる。
「だが、あれは……聖女に騙されていたんだ!!」
「騙された?」
ヴィヴィアンは面白そうに目を細めた。
「あれほど愛し合っておいてか?」
「お前が連れてきたんだろう!!」
ミリスクレベンの拳が震える。
「ミーシャ!!信じてくれ!!」
彼は、まるで必死に自分にすがるような目を向けてくる。
「俺が本当に聖女を愛していたのなら、回帰しても聖女を愛するはずだろう!? だけど、俺は今、ミーシャを愛している!!」
彼の声は、必死だった。
だが――。
「黙れ。」
ヴィヴィアンが、静かに、だがはっきりと告げる。
「ミーシャと呼んでいいのは……夫になった俺だけだ。」
「ヴィヴィ……アン?」
ミシェリアは震える声で問いかけた。
「あなた……何をしたの?」
彼の顔をじっと見つめる。
彼の瞳には、闇が揺らめいていた。
「俺を疑うのですか?」
次の瞬間、ヴィヴィアンの腕がミシェリアをさらに強く抱きしめる。
そして――。
唇が、彼女の首筋に触れた。
「――ッ!!」
ミシェリアの体が、ビクリと跳ねる。
「離れろ!!」
ミリスクレベンが、怒りの声を上げた。
「俺の、俺のミーシャだ!!」
「……それは過ぎ去った過去の話だ。」
ヴィヴィアンが囁く。
その声は、静かで、どこまでも深く、そして――冷たい。
ミシェリアは、ただ恐怖に震えていた。
筆談で話していた、あの優しいヴィヴィアン。
そして、今目の前にいる、喋るヴィヴィアン。
あまりにも別人すぎて。
(私は……何かを……間違えたのだろうか……?)
ミリスクレベンの手が、腰に携えた剣の柄を強く握る。
シュッ……!
剣が鞘から抜かれる音が、神殿の静寂を破った。
「ヴィヴィアン・ラヴェルノワ……貴様をここで討つ!!」
王太子の目には、明確な敵意と執着が宿っている。
だが――。
「ふっ……」
ヴィヴィアンは、まるでおかしな冗談でも聞いたかのように小さく笑うと、
スラリと自身の剣を抜いた。
それはただ、自然な動作だった。
ミシェリアの体を、彼の背中が隠すように庇いながら――。
「俺と決闘する気か?」
低く、甘く、そして……圧倒的な余裕を孕んだ声だった。
まるで、王太子の宣戦布告を子供の戯言のように聞き流すかのような態度。
「レヴィ!!ダメよ!!ヴィヴィアンはソードマスターよ!!」
ミシェリアが思わず叫ぶ。
(勝てるはずがない!!)
王国内でも数少ない"剣の極みに到達した者"――それがソードマスター。
ヴィヴィアンは、ただの貴族ではない。
王室直属の騎士団を率いた過去を持つ、戦場において無双の剣士だった。
そんな相手に、いくら王太子といえども勝てるはずがないのだ。
だが――。
「黙っていろ、ミーシャ!!!」
ミリスクレベンの目が怒りに燃え上がる。
「貴様を斬るのに、そんな称号など関係ない!!」
叫ぶと同時に、地を蹴った。
――瞬間。
銀の軌跡が走る。
王太子の剣が、寸分の迷いもなくヴィヴィアンを狙い、鋭い一撃を繰り出した。
キィィン――ッ!!
金属音が響き渡った。
王太子ミリスクレベンの剣は、無造作に振るわれたヴィヴィアンの剣に容易く弾かれた。
カンッ――!!
弾かれた剣が宙を舞い、床に叩きつけられる。
そして――。
スッ……。
ヴィヴィアンの剣先が、王太子の首元にそっと添えられた。
それはまるで、慈しむような優雅さで。
しかし、彼の紫紺の瞳は、まるで氷のように冷たい。
「こんなこと……無意味だ。」
その一言に、王太子は息を呑む。
「貴様……ッ!!」
歯を食いしばるも、もはや彼にできることなど何もない。
ヴィヴィアンは冷ややかに微笑んだ。
「諦めろ。もう婚姻は成立した。」
その言葉に、王太子の顔が歪む。
「ミーシャ……!! すまない……!! すまないミーシャ!!!」
彼は、血を滲ませながらミシェリアを見つめる。
その目には、絶望と懇願が宿っていた。
「ヴィヴィアン、あなた……私を騙してるの?」
ミシェリアの声が震えた。
すると、ヴィヴィアンはゆっくりと首を傾げた。
「騙す?」
クスクス……。
小さく喉を震わせ、笑いを堪えるような声を漏らす。
「……俺より、この男を信じるのですか?」
その言葉に、ミシェリアの手がギュッと握りしめられる。
「だって……あなたが、聖女を連れてきたって……。」
ヴィヴィアンは少しだけ目を細めると、ゆっくりと答えた。
「王太子殿下への謁見に、お連れしただけだ。」
――その声は、限りなく優雅で、限りなく冷たい。
「嘘だ!!!」
王太子が叫んだ。
だが、ヴィヴィアンは鼻で笑っただけだった。
「嘘ではない。どこまでも無知で……無能な王子だな。」
彼は剣を軽く動かし、王太子の頬を浅く切る。
ツ――ッ……。
薄紅の一筋が、白い肌に刻まれる。
「貴様……ッ!!!」
怒りに震える王太子を見下ろしながら、ヴィヴィアンはふっと息を吐いた。
「ああ……ちょうどいい。」
紫紺の瞳が、神官へと向けられる。
「神官。リーサを連れてこい。」
神官は無言で頷くと、奥の部屋へと消えていった。
その瞬間。
「待て!! やめろ!!」
王太子の顔が青ざめる。
「嫌だ!! やめるんだ!! 俺は……俺は、そんな未来を認めない!!」
しかし、ヴィヴィアンは笑みを深めるばかりだった。
ゆっくりと、まるで子供を宥めるように。
「言っただろう。」
耳元で囁くような甘い声で。
「諦めろ、と。お前の運命は決まっていたんだよ。」
――その言葉に、王太子の目が絶望で染まる。
「嫌だ!! ミーシャ!!」
必死に手を伸ばす王太子。
「助けてくれ!! ミーシャ!!!!」
その叫びが神殿に響き渡る中、ヴィヴィアンは微笑んだまま、ミシェリアの肩を抱いた。
優しく、しかし逃がさぬように――まるで檻の中に閉じ込めるかのように。
そして、彼女の耳元で囁く。
「さあ、観劇の時間だ。ミーシャ。」
その言葉は、酷く甘美で、酷く残酷だった。




