27話目
婚約式の会場を後にしたミシェリアは、ふわりと柔らかな揺れを感じながら目を閉じていた。
(控室に運ばれるのかと思ってたけど……?)
馬車の車輪が静かに石畳を滑る音がする。
確信した。
――これは、神殿へ向かっている。
心臓が跳ねる。
気絶したふりを続けるべきかどうか、迷ったその瞬間――。
トン、トン。
優しく肩を叩かれる。
(……あ。)
抱き上げられていた体が、そっと下ろされる。
ゆっくりと瞼を開けると、ヴィヴィアンの紫紺の瞳がすぐそばにあった。
ミシェリアを抱えていた彼は、馬車の座席へと彼女を座らせ、自らも隣に腰を下ろした。
「……どこへ行くの?」
不安を隠しきれず、問いかける。
ヴィヴィアンは手袋を外し、細い指先でオーラを浮かべた。
――『神殿』
黄金の文字が、夜の闇の中で静かに輝く。
「まさか……結婚するの?」
彼はゆっくりと頷いた。
驚きと戸惑いが混ざる中、さらに指を動かす。
――『もう猶予がない。』
(猶予がない……。)
婚約式が王太子によって強制的に中断された今、彼の執着は確実に増す。
それは分かっていた。
「……でも、結婚したら、あなたの命が危ないわ。」
苦しげにそう告げると、ヴィヴィアンはふわりと微笑み、また頷いた。
(……どうして、そんなに穏やかに頷けるの?)
そんなこと、絶対に許せない。
「ダメよ……。」
彼はゆっくりと筆を動かし――
――『選んだのはミーシャ。』
「違うの。」
ミシェリアは慌てて首を振った。
「王太子がここまで執着してくるとは思ってなかったの。これは私だけの……」
そこで言葉を詰まらせる。
言ってはいけない。
この状況で、"回帰" という言葉を口にするのは絶対に。
(言ったら、彼はまた……。)
ヴィヴィアンはそんなミシェリアをじっと見つめ、再び筆を走らせる。
――『幸せにする。』
ミシェリアの瞳が揺れる。
彼の指が、そっと彼女の手を包んだ。
「ヴィヴィ……。」
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―――――――――
冷たい夜の風が、山肌を滑るように吹き抜ける。
長い道のりを経て、ようやく神殿へと続く山道に辿り着いた。
既に用意されていた一頭の馬が、静かに待機している。
ミシェリアは、かつてこの道を辿ったことを思い出していた。
王太子妃になるときも、こうしてこの道を進んだのだ。
(まさか、もう一度ここを訪れることになるなんて……。)
黙ったまま、ヴィヴィアンと共に馬に乗り、山頂へと向かう。
彼の腕が、しっかりとミシェリアの腰を支えていた。
どこまでも静かで、どこまでも確実なその手。
やがて、目の前に厳かな神殿が姿を現す。
かすかに灯された松明の火が、純白の石造りの神殿をぼんやりと照らしていた。
門の前には、一人の男が立っていた。
長く伸びた漆黒の髪。
赤い瞳が、夜の闇の中で妖しく光る。
白いローブを身にまとい、静かにこちらを見つめていた。
――神の使い。神官だ。
「……こないと、思っていたのだがな。」
静かにそう告げる神官の声は、どこか面白がるような響きを含んでいた。
ミシェリアは思わず、隣のヴィヴィアンを見上げる。
彼は何も言わず、ただ頷くだけだった。
「予約は受けている。どうぞ。」
(……ヴィヴィアンは、今日のことを想定して予約をしていたの?)
驚きとともに、彼の周到さに戦慄する。
まるで、すべてを予測していたかのような用意周到さだった。
――彼は、どこまで知っているの?
神殿の扉が静かに開かれる。
月の光が静かに差し込む中、二人は神殿の奥へと進んでいった。
高くそびえる白亜の柱が、そびえ立ち、神聖な雰囲気を漂わせている。
床には長い赤い絨毯が敷かれ、教壇へと続いている。
――この道を歩むことが、彼との運命を決定づける。
ミシェリアの心臓は、ゆっくりと高鳴り始めた。
ヴィヴィアンとともに、一歩ずつ教壇へと進む。
その足音だけが、広い神殿の中に響いていた。
近づくほどに、教壇に立つ神官の姿がはっきりと見えてくる。
黒髪に赤い瞳。
白のローブに身を包んだ神の使い――神官。
彼は無表情のまま、ゆっくりと口を開いた。
「では、儀式を執り行う。」
静かながらも、確かに響く声が堂内に満ちる。
(本当に……結婚するんだ。)
この瞬間から、私は正式に彼の妻となる。
その現実が、どこか夢のようで、どこか恐ろしかった。
だが、もう迷っている時間はない。
神官が、淡々とした口調で次の言葉を紡ぐ。
「口づけを。」
ミシェリアの心臓が、跳ねた。
――神殿の婚儀の儀式とは、長い間、口付けを交わしていなければならないもの。
これは、愛を誓うための神聖な儀式。
ふと、彼と過ごした日々が脳裏をよぎる。
彼の温かな手、静かな筆談、そして、時折見せる優しい微笑み。
ミシェリアは、そっと横目でヴィヴィアンを見る。
彼は、微かに躊躇していた。
(……ここまで来て、躊躇する理由は何?)
怖くなったの?
デメリットの大きさを感じたの?
いや、もしかすると――。
ミシェリアは気づいた。
彼の制約。
もしかして、これが関係しているのでは――?
ならば――。
ミシェリアは、そっと目を閉じる。
そして、震える指先でヴィヴィアンの頬に触れた。
彼の肌は、冷たい。
そう覚悟を決め、ゆっくりと彼の唇に口付けた。
「ここに、生涯を誓い合うツガイあり。」
「神は祝福し、今、一切の呪縛から解放し、新たに愛の呪縛を与えん。」
儀式の呪文が詠唱されると同時に、ミシェリアの体に異変が起こった。
――熱い。
(……え?)
不思議な熱が、じわじわと広がる。
ミシェリアの下腹部に、焼き付くような熱が広がった。
(ど、ど、どうしてこんな場所に――!?)
思わず目を見開く。
(見せられない場所!! なんでよりにもよってここなの!?ミリスクレベンと神殿婚をしたときは、薬指に刻まれたのに……!!)
体がびくりと震える。
だけど、唇を離すことはできない。
儀式が終わるまでは、決して。
――そんな時。
ヴィヴィアンの手が、そっとミシェリアの後頭部を支えた。
そして――。
さらに深く、唇を重ねてきた。
(……!?)
ミシェリアは驚き、彼の顔を見上げる。
(ヴィヴィ!?)
彼の熱が増していく。
決して離すつもりはない――そんな強い意志が伝わってくる。
混乱の中、神官が最後の言葉を告げる。
「――儀式をこれで終わります。」
その瞬間、ようやく唇が解かれた。
ミシェリアは、息を整えながら、すぐさまヴィヴィアンの顔を見上げる。
――そして。
息を呑んだ。
ヴィヴィアンの顔に浮かんでいたのは、これまでに見たことのない――
歪んだ、怪しい笑みだった。
「ヴィ……ヴィ……?」
言葉が震える。
彼はゆっくりと、口を開いた。
低く、確かに響く声で。
「……やっと、手に入れたぞ。」
ヴィヴィアンの低く響く声が、神殿の静寂を切り裂いた。
――その瞬間、空気が変わった。
冷たく、粘りつくような何かが、空間を満たしていく。
まるで、見えない鎖が張り巡らされているかのように。
ミシェリアは無意識に息を呑んだ。
彼の喉仏――。
そこには、神殿婚の証である刻印が浮かび上がっていた。
三日月の上に、輝く星の形。
それは、神に誓いを立てた夫婦にのみ与えられる、特別な刻印。
決して消えることのない、"絆" の証明――。
ミシェリアは、呆然とそれを見つめていた。
そんな彼女の前で、ヴィヴィアンは無造作に喉元へ指を這わせる。
指先で、刻印の感触を確かめるように。
「……呪いが解けた。」
ぼそりと呟いたその声が、妙に深く、耳に残った。
「そ、そうみたい……ね。」
ミシェリアは動揺しながらも、震える声で答える。
――確かに、これは喜ぶべきこと。
長年の呪いが、ようやく解けた。
ヴィヴィアンの声が戻り、彼の苦しみは終わったはずだった。
だけど、ミシェリアの心に広がるのは、安堵ではなかった。
(さっきの笑み……)
神官が儀式を終えたと告げたとき、ヴィヴィアンは笑っていた。
それは――。
今まで見たこともないほど、異様に歪んだ笑みだった。
(ヴィヴィ……あなた、なんでそんな顔を……?)
ミシェリアは恐る恐る、彼の顔を見上げた。
「ヴィヴィ……あなた……どうして回帰したの?」
震える声で問いかける。
――その瞬間。
ヴィヴィアンの腕が、するりと伸びてきた。
ミシェリアの肩を抱き寄せ、そのまま力強く抱きしめる。
「んー?」
彼は、低く喉を鳴らすように言った。
そのまま、頬をすり寄せてくる。
(……え?)
ミシェリアの背筋が、ぞくりと冷えた。
ヴィヴィアンの体温は、確かに暖かい。
けれど、その仕草には――どこか異質なものを感じた。
彼の抱擁は、優しさではなく、執着のようだった。
(何……この違和感……?)
ヴィヴィアンは、まるで捕えた獲物を逃がさぬように、腕に力を込める。
ミシェリアは、息が詰まりそうになるほどの拘束に、不安を覚えた。
「ヴィヴィ?」
囁くように問いかける。
すると――。
バンッ!!!!
神殿の扉が、勢いよく開かれた。
「――!!」
ミシェリアは反射的に顔を向ける。
そこに立っていたのは――ミリスクレベンだった。




