25話目
ヴィヴィアンの腕の中は、驚くほど暖かかった。
彼はミシェリアの体を包み込むように、ぎゅっと強く抱きしめたまま――震えていた。
(……震えてる?)
彼の腕は、どこまでもしっかりしているのに、ほんの少しだけ指先がわずかに揺れているのがわかった。
それほどまでに、彼は不安だったのだろうか。
「ヴィ…ヴィヴィ……?」
そっと彼の名を呼ぶと、ヴィヴィアンはハッとしたように息をのんだ。
そして、慌てたように少し身を引き、ミシェリアを解放する。
彼の紫色の瞳が揺らぎながら、自分を見つめていた。
そのまま視線を落とし、ヴィヴィアンは近くにいたヴィーネストと同じ目線になり、口をゆっくりと動かした。
「ありがとう。」
声のない言葉だったけれど、はっきりと伝わった。
ヴィーネストは一瞬驚いたように瞬きをしたが、すぐに「んっふふん」と得意げな表情を浮かべ、軽く肩をすくめた。
しかし――。
「……あっ。」
ヴィーネストの顔色が変わった。
そう、彼はここでようやく 「シェリルアを置き去りにした」 ということに気づいたのだ。
(あっ……絶対忘れてたわね、今。)
そんなヴィーネストの顔色の変化を見て、ミシェリアは冷静に思った。
「シェリーお姉さーーーーん!!!」
ヴィーネストは勢いよく叫ぶと、慌てて駆け出していった。
ミシェリアもその方向を見遣ると――そこには、男たちに囲まれて困惑する姉の姿が。
(……うん、完全に囲まれてる。)
しっかりと着飾った姉は、貴族の紳士たちに囲まれ、どうやら話しかけられているらしい。
シェリルアは落ち着いた様子だったが、なんとも言えない気まずそうな雰囲気が漂っていた。
(あれは……ヴィーネストが助けに行ったほうがいいわね。)
ミシェリアがそんなことを考えていると、ヴィヴィアンがそっと指先を動かす。
「行こうか。」
声はないけれど、その唇の動きだけでしっかり伝わってくる。
「行きましょう。」
彼に手を引かれ、ミシェリアはヴィヴィアンとともに馬車へと向かった。
◇◆◇◆◇
馬車の中は、静かだった。
ヴィヴィアンは座るなり、すっと手袋を外す。
彼の指が空をなぞると、淡い光のオーラが浮かび上がる。
『どうして…こちらに戻ってきてくれたのですか?』
その問いに、ミシェリアは軽く息を吸い込む。
「……当たり前じゃない。王太子なんて好きじゃないからよ。」
その答えに、ヴィヴィアンは目を細めた。
だが、その表情がどこか切なげだったことに、ミシェリアはすぐに気づいた。
(……あっ。)
それが 「王太子が好きじゃない理由」 に話が及ぶと、回帰のことに繋がってしまう。
そして、またヴィヴィアンの体に負担をかけることになるかもしれない――。
「待って、これ以上この話は禁止。また体を悪くするわ。」
そう言いながら、彼の手をそっと握る。
するとヴィヴィアンは、ふわりと微笑んだ。
どこか儚げで、けれど、どこか嬉しそうでもあるような。
その笑顔が、ミシェリアの心を強く締め付けた。
(こんな表情をする彼に、もう余計な負担はかけたくない。)
「でも、ミリスクレベンはきっと、また何かしてくる。それに備えないといけない。」
ミシェリアが真剣な表情で言うと、ヴィヴィアンはゆっくりと頷いた。
ただ、その目には、ほんのわずかに笑みが浮かんでいた。
「……もう、何事も起こらなければいいけど。」
小さくつぶやいたミシェリアの言葉は、まるで願いのようだった。
―――――――――――
―――――――――
―【王宮・王太子の私室】―
重厚な扉が音もなく開かれ、静寂の中に一人の男が姿を現した。
「エイギルはいるか。」
その声は深く低く、冷たい刃のように研ぎ澄まされていた。
「はい、こちらに。」
応じたのは、ミストリア侯爵家の嫡男であり、王太子の補佐官である エイギル・ミストリア。
彼は一礼すると、王太子の傍へと歩み寄る。
ミリスクレベンはゆっくりと彼を見据えた。
「――どうやら、強行突破に出ねばならんようだ。」
まるで何の感情もないかのように、ただ静かに告げられた言葉。
しかし、それを聞いたエイギルの背筋が、ほんのわずかに粟立った。
「……かしこまりました。」
エイギルは即座に頭を下げ、指示を受ける姿勢をとった。
これまで、王太子は慎重に事を進めていた。
しかし、今のその声音――
(限界……なのですね。)
そう、王太子は とうに限界を超えていたのだ。
狂気にも似た執着。
それを噛み殺し、じっと耐えていたのは、もはや時間の問題だった。
エイギルが部屋を出るのを待たずして、ミリスクレベンは深く息を吐き、ソファへと沈み込む。
指先をこめかみに当て、ぐっと力を込める。
耐えろ。今すぐにでも暴れ出したい衝動を、抑えろ。
「……ミーシャ……」
微かに漏れたその声は、まるで呪いのようだった。
その名を呼ぶだけで、喉の奥が焼けつくような感覚に襲われる。
それほどに、彼女への執着は激しさを増していた。
なぜだ。
どうして俺の腕の中にいない。
どうして、俺以外の男を愛している。
ありえない。
彼女は俺のものだった。
誰よりも可愛がり、誰よりも愛した。
どれほど甘やかしたと思っている。
……なのに。
今、あの女は 俺ではない男の隣にいる。
あの、忌々しい ヴィヴィアン・ラヴェルノワ。
ミリスクレベンは、激しく奥歯を噛み締めた。
――俺は、回帰している。
この記憶が戻ったのは、四年前。
学園の視察に行ったあの日。
唐突に、頭を貫くような痛みとともに、全てが蘇った。
愚かな自分の記憶。
取り返しのつかない過去。
愛するミーシャを――この手で殺した記憶。
「……くそっ……!!」
ミリスクレベンは拳を握り締め、爪が食い込んだ手のひらから、じわりと血が滲む。
それでも、痛みなどどうでもよかった。
俺は、ミーシャを愛していた。
それなのに、偽りの聖女に騙され、
くだらぬ運命に流され、
愚かにも彼女を見捨てた。
そして――殺した。
その瞬間、すべてが終わったはずだった。
だが、俺の人生は続いた。
俺は 聖女を深く愛し、子をなし、王としての責務を果たしながら、穏やかに歳を重ねた。
そう、表向きは。
国は平穏そのものだった。
聖女との結婚は 王国の繁栄に繋がった。
俺は 正しい選択をしたはずだった。
……いや、そうでなくてはならなかった。
けれど。
「間違いでしかなかった……。」
俺の意識が戻ったのは、聖女が老衰で息を引き取った後だった。
その時、俺は しわくちゃの老人になっていた。
光を失った眼で王都を見下ろしながら、
ふと、己の人生を振り返った。
何もかもが順調だった。
民のために尽くし、王としての役割を果たし、
聖女と共に生き、子を育てた。
……だが。
胸の内に吹き荒れるこの嵐は何だ?
心が痛い。
軋むように、冷たい手で締め付けられるように、
焼け爛れるように痛い。
「……なんだ、この気持ち悪さは。」
俺の最愛の息子――シェルク。
彼は、俺が選んだ王室騎士ヴィヴィアン・ラヴェルノワと共に、
ミシェリアを殺して すぐの時期に、謎の死を遂げていた。
「……なぜだ。」
思わず震える手で、震える声で、震える心で問いかける。
何が起きた。
どうして 息子が死んでいる。
どうして ヴィヴィアンが死んでいる。
記録を漁るほどに、彼らの死の 不自然さ ばかりが浮かび上がった。
その頃の俺は 幸せな日々に溺れていた。
都合の悪いことには 目を背けた。
聖女さえいれば、それで良かった。
俺は。
「……俺は、何をしていた?」
頭が痛い。
気持ちが悪い。
俺は間違ってなどいなかったはずだ。
ミシェリアを殺したのは 正しい選択 だったはずだ。
だが、なぜ。
俺は、聖女と過ごしたはずの年月よりも、
あの数年の記憶の方が、遥かに鮮明に蘇るのか。
なぜ、記憶の中のミシェリアは 泣いているのか。
なぜ、息子の最後の顔を、俺は見ていないのか。
なぜ、ヴィヴィアンの死を 知ったのは数年後だったのか。
すべてが。
すべてが、気持ち悪い。
「なんだ……これは……。」
眩暈がする。
足元がぐらつく。
俺は何をしていた?
何を選び、何を愛し、何を守っていた?
「気持ち悪い……気持ち悪い……気持ち悪い……気持ち悪い……!!!」
何もかもが歪んでいる。
全てが狂っている。
――俺は何も知らなかった。
本当に、何も。
「違う……こんなはずじゃなかった……!」
息を荒げ、壁に爪を立てる。
「こんなはずじゃなかったんだ……!!!」
ミシェリアを愛した記憶と、
聖女と過ごした記憶が、
混ざり合い、軋み、崩れていく。
過去を悔やんだところで、もう何も戻らない。
いや。
「戻せる。」
禁書がある。
失われた時間を取り戻す術が、俺にはある。
その事実に気づいた瞬間、俺の中の理性は音を立てて崩壊した。
王の権力を駆使し、禁書の封印を解かせ、儀式の準備を進めた。
必要な供物――いや、犠牲 は、ほんの数人で済んだ。
「……ミーシャ、お前が俺の隣にいないと――」
俺は血の滴る手を見下ろしながら、淡々と続ける。
「犠牲になった者たちが、報われないだろう?」
俺は 何も間違っていない。
何一つとして、誤ってなどいない。
「……そうだろう?」
そう、全ては 最愛の彼女を取り戻すために。




