19話目
翌朝、ローベルク伯爵家の屋敷では、朝から深いため息が響き渡っていた。
「はぁ……」
食堂の椅子に座る父、シェトランドは頭を抱えたまま、手元にある分厚い書状をじっと睨んでいる。
それは――姉、シェリルアに届いた求婚状だった。
「こんなに早く正式な求婚状が届くとは……ヴィーネスト殿は相当本気のようだな……」
そう言いながらも、父の声にはどこか疲れがにじんでいる。
「そりゃあ、お持ち帰りされたんですもの」
私は紅茶を口にしながら、事もなげに言った。
そう、昨夜の晩餐の後、ヴィーネストは何の迷いもなく「シェリルアお姉様と一緒に帰る!」と言い張り、そのままローベルク伯爵家に一緒に戻ってきてしまったのだ。
そして今――。
「おはようございますっ! ローベルク伯爵様、お母様、お姉様!」
まるで小鳥のさえずりのように、元気な挨拶が食堂に響き渡る。
ぱっと顔を上げると、そこにはきらきらとした笑顔を浮かべたヴィーネストがいた。
ローベルク家の食堂にすっかり馴染んだ様子で、今日もまた姉の隣にぴったりとくっついている。
「今日からよろしくお願いします!」
そう言って小さくお辞儀をするヴィーネスト。
まるで愛らしい子猫のような仕草に、母はすっかりメロメロになってしまった。
「まあまあ! なんて可愛いのかしら! シェリルア、可愛いお婿さんができて良かったわねぇ!」
「お、お母様……」
姉は頬を赤らめながらも、膝の上のヴィーネストの髪をそっと撫でている。
「シェリルアお姉様、大好き!」
にっこりと笑いながら、ヴィーネストはぎゅっと姉の腕にしがみついた。
(……うん、もう完全に懐かれてるわね。)
「……はぁ……」
そんな様子を見て、父は再び深いため息をついた。
書類をじっと見つめ、指でそっとなぞりながら、重々しく口を開く。
「シェリー、お前は本当にそれでいいのか。」
その声には、最後の確認をしたいという父の想いが滲んでいた。
シェリルア姉様は、そんな父に微笑みを向ける。
「はい、お父さま。もともと6歳も年の離れたダーリルが婚約者でした。それが3歳差になったのですもの。むしろ、喜ばしいことではなくて?」
父は少し驚いたようにまばたきをし、なるほど……と頷いた。
「うむ、まぁ。確かに。」
父の目が少し和らいだのが分かる。
そんな父の様子を見ていたヴィーネストは、ふと顔を輝かせ、勢いよく手を挙げた。
「シェリー? 僕もシェリーって呼んでいい?」
その大きなエメラルドグリーンの瞳が、キラキラと期待に満ちて輝いている。
姉はくすっと微笑みながら、優しく頷いた。
「えぇ、良いわよ。ヴィニー。」
「わぁーい!」
ぱぁっと顔を輝かせて、姉の腕にぎゅっと抱きつくヴィーネスト。
本当に子犬のような愛らしさで、母はすっかり目を細めてしまっている。
しかし、次の瞬間。
「結婚式はいつにするー?」
無邪気な言葉に、場が一瞬静まりかけた。
私は紅茶を吹きそうになりながら、慌てて口元を押さえる。
父も一瞬ぴたりと動きを止め、シェリルア姉様は優雅に微笑んだまま、ゆっくりと答えた。
「結婚はヴィニーが18になってからですよ。」
「えー、そんなに待つの!?」
ヴィーネストはぷくっと頬を膨らませたが、姉は穏やかに彼の頬を優しくつついた。
「ヴィニーはまだ14歳だから、しっかりいろんなことを見て、学んで、それからちゃんと決めてほしいの。私との婚約が、本当にヴィニーにとって最善なのかをね。」
その言葉は、まるで年下の彼を気遣うような、愛のある教えだった。
姉の落ち着いた声音に、ヴィーネストは一瞬ポカンとしたが、すぐにコクリと頷く。
「うん! じゃあ、僕、しっかりお勉強する!」
「ふふっ、それがいいわ。」
そんなやり取りを見ながら、父は再び深いため息をついた。
だが、それは先ほどまでの諦めの溜息ではなく、どこか納得し、安心したかのような溜息だった。
「まったく……お前たちのこととなると、心労が絶えないな……」
そう言いながらも、父は手元の書類をゆっくりと開く。
そこには、昨日の晩餐の際にヴィーネストから送られてきた正式な求婚状と、婚約のための書類が添えられていた。
父は一度、書類に視線を落とし、じっと見つめる。
そして、静かにペンを取った。
――さらさらとペンが走る音が、静かな部屋に響く。
―――――――――
―――――――
夕食の時間。
食堂へ向かい、扉を開けた瞬間、私は目の前の光景に言葉を失った。
(……え?)
なんと、父の膝の上にちょこんとヴィーネストが座っているではないか。
しかも、父はそれを当然のように受け入れ、ヴィーネストの頭をぽんぽんと撫でている。
(な、何が起きたの!?)
私は驚きのあまり足を止め、姉を見つめた。
「お姉様……いったい何が?」
姉は微笑みながら、優雅にスープを口に運ぶ。
「それがね、お父さまが領地のことで頭を悩ませていたみたいなの。それをヴィニーがあっさり解決しちゃったのよ。」
「えっ……?」
私は思わず目を瞬かせる。
「領地の問題って……かなり難しいことだったんじゃ?」
「そうね。税収の管理と、商業ギルドとの交渉がうまくいかなくて、お父さまが頭を抱えていたのだけれど……」
姉はちらりと父とヴィーネストを見やる。
「ヴィニーが、『こうすればいいんじゃない?』って提案したの。それが、まさに的確で……お父さまも思わず感嘆してしまったみたい。」
(……そんなことが!?)
私は再びヴィーネストの方を見る。
すると、彼は無邪気に父の胸に寄りかかりながら、にっこりと微笑んでいた。
「ねーねー、お義父さま~。僕、偉い?」
「おお、偉いとも、ヴィニー!」
「えへへ~!」
嬉しそうに笑うヴィーネストを、父はまるで孫をあやすかのように頭を撫でている。
まるで可愛い子猫でも拾ってきたかのような扱いだ。
(な、なんなのこの光景……?)
本当に、もうすっかりローベルク家の一員ではないか。
(……ほんとに、うちでいいの?)
――――――――――
――――――――
風呂上がりの温もりが残る体で、私はふわふわのガウンを羽織りながら廊下を歩いていた。
(……なんか、ラヴェルノワ公爵家って、おかしいのよね。)
ぽつりと脳裏に浮かんだ疑問を、私は考え込むように胸の内で反芻する。
だって、公爵家と伯爵家って、もともとそんなに対等な関係じゃない。
それなのに、どうしてこんなにもローベルク伯爵家に手厚いの?
普通、公爵家ってもっと格式ばっていて、お堅いものじゃない?
(いや、もちろんヴィヴィアンと婚約したからっていうのはあるけれど、それにしても……。)
不思議な違和感を抱えたまま歩いていると、ふと目の前の執務室の扉が、わずかに開いているのに気づいた。
(あれ……?)
いつもならきっちり閉じられているはずの扉。
けれど、今日は少しだけ隙間があり、中から小さく声が漏れている。
それは、いつも無邪気に可愛らしく振る舞っているヴィーネストの声だった。
――いや。
それは、これまで聞いたことのない、冷静で落ち着いた、まるで別人のような声だった。
「お義父上、王太子ミリスクレベンの動きが怪しく、このローベルク伯爵家に何か仕掛けてくる可能性があるのが現状です。」
「……まさか、娘たちがそんなことに巻き込まれるとは……。」
父の重いため息が聞こえた。
「ですが、どうかご安心ください。この命にかえても、ローベルク伯爵家を守ると誓います。」
その言葉に、私は息を飲んだ。
(えっ……?)
まるで騎士のように誓うヴィーネスト。
あの甘えん坊の末っ子らしさが微塵も感じられない、まるで別人のような気配。
すると、再び父の声が響く。
「申し訳ない……ラヴェルノワ公爵家には、もともと身分差があるというのに……頭が上がらない。」
(――!!)
聞いてはいけないものを聞いてしまった気がした。
私はそっと、足音を立てないように後ずさりし、その場を離れた。
静かに階段を駆け上がり、鼓動を必死に押さえながら、自分の部屋へと駆け込む。
ドアを閉めた瞬間、私は息を詰めたまま壁に背を預けた。
(何? 今の会話……。)
頭の中が混乱していた。
王太子ミリスクレベンが、ローベルク伯爵家に何かを仕掛ける?
でも、彼とはまだまともに顔を合わせてもいないはず……それなのに、どうして?
(ラヴェルノワ公爵家は……何を知ってるの?)
ヴィヴィアンに聞きたい。
でも、もしこれが未来に関わることだったら、彼をまた吐血させてしまうかもしれない。
私は、何もしなくていいの?
(ヴィヴィ……。)




