15話目
翌日。
穏やかな昼下がり。
窓から差し込む柔らかな陽光が、心地よく部屋を照らしていた。
レースのカーテンがふわりと揺れ、頬にそよぐ風が涼しい。
私はソファに座り、熱くも冷たくもないちょうどいい温度の紅茶を口に含みながら、ぼんやりと考えを巡らせていた。
(……婚約式を早めるのって、デメリットだらけじゃないのかしら。)
カップをそっと置き、机の上の書類に視線を落とす。
そこには、ラヴェルノワ公爵家から届いた正式な通知があった。
婚約式の日程は、予定より大幅に繰り上げられ、今月中に行われることが決定した。
しかも、三日後には私や家族の衣装が送られ、準備のすべては公爵家が整えるという。
(……急ぎすぎじゃない?)
婚約式は結婚式とは違うけれど、それでも貴族にとっては極めて重要な儀式。
通常は何ヶ月も前から準備を進め、招待状を配り、社交界にきちんと知らせた上で行うものだ。
それをこんなにも急いで行うということは……
「なぜそんなに急ぐのか?」と不審に思われる可能性が高い。
特にラヴェルノワ公爵家のような名門が関わるとなれば、社交界での影響は計り知れない。
(……でも、ヴィヴィアンが失声症だから、当たり前のことだと思われるかもしれないわね。)
公爵家の跡継ぎでありながら、長年声を出せない状況にある。
そのせいで婚約の話が進みにくくなっていたのだとすれば、急な婚約式も「やっと決まったのね」と納得される可能性が高い。
(むしろ、「婚約者が見つかってよかった」と、社交界のほうが安心するかもしれないわね。)
婚約が正式に決まれば、公爵家の後継問題も安定し、不要な噂も立たない。
そう考えると、案外スムーズに受け入れられるかもしれない。
私は小さく息をつき、カップを手に取る。
(まぁ、私は王太子との婚約を遠ざけられるしいいかなって思うけど。)
実際、これでミリスクレベンが私に執着する理由はなくなる。
婚約済みの令嬢に手を出せば、さすがに王族の立場でも問題視されるだろう。
(でも……やっぱり急ぎすぎじゃないかなぁ……。)
紅茶を一口飲みながら、そっとカップを揺らす。
琥珀色の液面がゆらゆらと揺れ、窓から差し込む光を反射してきらめいた。
(……私の結婚が終わったら、お姉ちゃんの結婚相手を探すのを手伝おう……。)
――そんなことを考えていた、その時。
ドンッ!!
勢いよく扉が開かれ、メイドが息を切らしながら駆け込んできた。
「お、お嬢様、大変です!!」
私はびくっと肩を跳ね上げ、思わずカップを握りしめる。
「えっ、な、なに!? 婚約式がさらに早まったとか!?」
「いえ、違います!! 王太子殿下が、視察帰りにローベルク伯爵家へ向かっているとのことです!!」
「…………」
(…………は???)
脳が、一瞬フリーズした。
「王太子……ミリスクレベンが……うちに……?」
「はい!! すでに王都を出発しており、間もなく到着されるとのことです!!」
「……っっっ!!!!?」
カップを持つ手が震え、危うく紅茶をこぼしそうになる。
(ちょっ……まっ……なにそれ!? なんで来るの!?)
視察帰り?
いやいや、それでわざわざうちに寄る理由がわからない!!
「な、なんで急に!?」
「それが……理由はまだ明確に伝えられておりません……!」
(ええええええええ!?!?)
ついさっき、私は「王太子との縁を遠ざけられる」と安心していたばかりなのに――
まさかの本人登場!?!?!?
「お、お嬢様、いかがなさいますか!?」
私は硬直したまま、メイドの必死な顔を見つめる。
(逃げたい!!!! 逃げ出したい!!!!)
だけど、それができる状況じゃないことは分かっていた。
……最悪な予感がする。
私はメイドの報告を受けたまま、どうするべきかと頭を抱えていた。
――その時。
「お嬢様、大変です!!!」
先ほどとは別のメイドが、息を切らしながら部屋に駆け込んできた。
「ええ!? 何が!? もう十分に大変なんだけど!?」
「ラ、ラヴェルノワ公爵様がいらっしゃいました!!」
「…………は?」
(……ちょっと待って???)
私の脳が、またもや一瞬フリーズした。
「え!? ヴィヴィアンって……明後日に来るはずじゃなかったの?」
私は混乱しながら尋ねる。
だけど、メイドの返答を待つまでもなかった。
なぜなら――
すでにヴィヴィアンが、メイドの後ろに立っていたからだ。
「え……」
気づいた瞬間、心臓が跳ね上がる。
彼は、一切の迷いもなく私の元へ歩み寄り、ぐっと私の手を掴んだ。
「ヴィヴィ――!」
呼ぶ間もなく、その手の強さに引っ張られ、立ち上がるしかなかった。
ヴィヴィアンの表情は鋭く、どこか焦りを帯びている。
(な、何なの、この空気!?)
ただ事ではないことは、彼の顔を見れば明らかだった。
私はとっさに抵抗しそうになったが――
「待って! お姉様も一緒に!!」
そう叫んだ。
ヴィヴィアンは一瞬だけ私を見つめると、静かにコクリと頷く。
(よかった、納得してくれた……!)
「姉様の部屋は、右の三部屋目よ!」
そう言うと、メイドがすぐに駆け出してくれる。
私は自分の動揺を抑えながら、屋敷全体の状況を一瞬で判断する。
(王太子が来るのに、ヴィヴィアンがこのタイミングで現れた……これ、絶対何かある!!)
私はメイドたちに向かって、「ラヴェルノワ公爵が来て、娘たちは出かけている」と伝えて!」と指示を出した。
「は、はいっ!」
メイドたちは慌ただしく動き出し、私はヴィヴィアンに手を引かれるまま、姉の部屋へと向かう。
「ミシェリア!? どうしたの、急に……!」
姉の驚いた声が聞こえたが、私は彼女の手を取り、すぐに馬車へと向かった。
ヴィヴィアンの護衛騎士たちが先導し、私たちは急ぎ馬車に乗り込んだ。
扉が閉まると同時に、すぐに馬車は出発する。
蹄の音が石畳を叩く音が、屋敷に響き渡った。
「ちょ、ちょっと、ミシェリア!! 何がどうなってるの!?」
馬車が走り出すと、姉が混乱したまま私を問い詰める。
「お姉様……えっと、あの……」
説明しようとしたその時――。
ヴィヴィアンが静かに手袋を外し、オーラを指先に纏わせる。
そして、宙に淡い光の文字を描いた。
『政治的策略により、ローベルク伯爵家が狙われている可能性がありますので、避難しました。』
「……まぁ!!?」
姉は驚きながら、手を口元に当てた。
「優しそうな王太子様なのに……そんなこと、あるの?」
「姉様……王太子にも色々あるわよ。」
私は苦笑しながら答える。
(というか、姉様は本当に人を疑わないわね……。)
王太子が「優しそう」なのは、表向きの顔。
未来を知っている私からすれば、彼ほど危険な男はいない。
馬車はスムーズに王都の街を走っていく。
……が、なぜか途中で馬車が止まった。
「えっ?」
私は外を覗こうとしたが、その前に扉が開けられる。
「ここは……」
目の前に広がっていたのは、王都でも屈指の高級ドレスショップだった。
「え、どうして?」
私が戸惑っていると、ヴィヴィアンが馬車から降り、姉の手を取った。
「えっ、わ、私?」
驚く姉の前で、彼は懐から紙を取り出し、文字を指差していく。
『これから義姉上になるお方ですから、プレゼントを。』
「まぁ!! 素敵!!」
姉の頬が赤く染まり、嬉しそうに手を合わせる。
(……えぇ……)
私は心の中で、思わず呆れた。
(この状況で、ドレスを買いに寄る!? なんなの、この余裕!!)
だけど、ヴィヴィアンは真剣な表情をしていた。
まるで、この瞬間をずっと前から決めていたかのように、迷いのない動きだった。
私は思わず彼の腕を掴み、問い詰めるように顔を覗き込む。
「ちょっとヴィヴィ、どういうこと?」
ヴィヴィアンは静かにこちらを見つめ、手にした紙を指差した。
そこには、**『少し待ってて。』**と文字が並んでいる。
(少し待っててって……どういうこと?)
私は困惑しつつも、次の言葉を待とうとした――が、次の瞬間。
「……っ!?」
ヴィヴィアンが、私の額にそっと唇を寄せた。
一瞬、何が起こったのか理解できなかった。
けれど、額に触れたそのぬくもりに、私の心臓は強く跳ねた。
「なっ……!」
顔が一気に熱くなる。
ヴィヴィアンは何事もなかったかのように微笑み、そのまま姉の手を取り、優雅にドレスショップへ入っていった。
私は呆然としながら、その後ろ姿を見送ることしかできなかった。




