10話目
翌朝、目が覚めた瞬間、ミシェリアは天井をぼんやりと見つめた。
(……昨日は、本当に色々あったわね。)
図書館での出来事、ヴィヴィエンとの筆談、そして謎の「制約」。核心的なことを聞き出そうとすると、雷のような現象が起こり、彼は鼻血まで出してしまった。
(もしまた聞いたら、今度はもっとひどいことになるかもしれない……。)
それだけは避けたい。慎重に進めなければ。
シーツの上で体を起こし、深く息を吸い込む。
そして、昨夜のヴィヴィエンの言葉を思い出した。
『ミシェリア様がそう望んでいたから』
(……様?)
未来のヴィヴィエンが、王妃だった私に向けて使っていた呼び方。それを、今の彼も自然に使った。
(やっぱり……未来の記憶がある? でも、だったら……)
あの時の彼は、冷徹な近衛騎士だったはず。
それなのに、今のヴィヴィエンは、どこか柔らかくて、優しくて、よく微笑んでいる。
(まるで、別人みたい……。)
でも、もし彼が本来、目が悪くて恐い顔をしていただけで、本当はこんな風に穏やかな性格だったとしたら?
(……なるほど、わからん。)
とにかく、彼に記憶があるにしろ、ないにしろ、もう婚約の書類にはサインをして提出している。
今世では彼が夫になるのだから、夫として理解しなければならない。
(……夫、ね。)
ベッドの横のテーブルに目をやると、昨日ヴィヴィエンのオススメで借りた分厚い本が目に入った。
『ラヴェルノワ公爵家の歴史と功績』
「……学べってこと?」
ミシェリアはため息をつきながら、本を手に取り、パラパラとページをめくる。
(公爵家の歴史……鉱山のこと……王族との婚姻……)
難しい単語が並んでいるが、目を通し続ける。
「……うーん、やっぱり公爵家ってすごいのね。」
貴族社会の中でも、代々続く名門で、財力も軍事力も圧倒的。しかも、王族との婚姻歴も多い。
(それにしても、こういうのを私に読ませようとするなんて……。)
ヴィヴィエンなりに、私に公爵家のことを知ってほしいと思っているのだろうか。
「……ふぁ……」
活字を追ううちに、だんだんと瞼が重くなる。
昨晩あまり眠れなかったせいか、じわじわと眠気が襲ってきた。
(ちょっとだけ……休もうかな……)
そう思った瞬間、視界がぼやけ、本を抱えたまま、ミシェリアは静かに眠りに落ちていった。
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夢の中、ミシェリアは柔らかい陽の光に包まれていた。
どこか懐かしい場所――それがどこなのか、はっきりとは思い出せない。けれど、優しい風が吹き、木々がざわめく音が聞こえる。
そして、その中心に、彼がいた。
「……シェルク?」
目の前には、金色の髪を揺らす小さな少年。
青く澄んだ瞳がまっすぐにこちらを見つめていた。
「こんなとこで、どうしたの?」
問いかけると、シェルクは目を潤ませながら、ふわりと微笑んだ。
「母上……!」
そう言うなり、小さな体が勢いよく飛び込んできた。
「シェルク……!」
ミシェリアは驚きながらも、彼の小さな背をぎゅっと抱きしめた。
温かい。確かに腕の中にいる。
懐かしい、愛おしい、世界でたったひとりの息子。
「ごめんね……シェルク……」
ミシェリアは震える声で呟いた。
「もう一度、あなたを産んであげることができなくて……ごめんね……」
息子をこの手に抱きしめることが、もう二度と叶わないと知りながらも、こうして夢の中で再会できた。
それが、どれほど残酷で、どれほど嬉しいことなのか――。
シェルクは小さな手でそっと母の頬を包み、首を横に振った。
「ううん。母上、幸せになってください。」
その言葉に、ミシェリアの胸が締めつけられる。
(これは、私の都合の良い夢……)
シェルクはこんなこと、きっと言わない。
本当なら、もっと母親に甘えたかったはずなのに。
「シェルク……あなたにこんなことを言わせてしまうなんて……」
涙が溢れる。止めようとしても、こぼれ落ちる。
そんな母の姿を見て、シェルクは少し困ったように笑い、袖でそっと涙を拭った。
「泣かないで、母上……」
ミシェリアはその言葉を聞いて、改めて思い知る。
彼はまだたった9歳の子どもなのだ。
(あの後、シェルクはどうなったの……?)
母を失い、父は別の女を愛し――彼はどうやって生きたのか。
そもそも、生きていられたのか……。
考えたくない。考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。
「シェルク……」
そっと名を呼んだ瞬間、ふわりと光が差し込み、彼の姿がぼやけ始めた。
「待って……!」
手を伸ばしても、もう届かない。
「母上、大好き……!」
最後にそう言った彼の声が、風に溶ける。
ミシェリアの意識は、ゆっくりと闇へと沈んでいった。
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あの夢のせいか、目覚めた後もずっと気分が沈んでいた。
心にぽっかりと穴が開いたようで、何をしていても落ち着かない。
(こんな時は、気分転換しなきゃ。)
そう考え、ランチを済ませた後、王都の落ち着いたカフェへ向かうことにした。
ここは以前から貴族たちに人気のある場所で、テラス席ならば開放感もあり、静かに過ごせる。
澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みながら、運ばれてきた紅茶のカップをそっと手に取る。
淡く立ち上る湯気と、ふわりと漂う上品な香りに、少しだけ心が和らぐ。
(はぁ……紅茶って、こういう時に落ち着くわ……。)
ほんのひととき、癒しの時間を味わっていたその時。
「ここ……良いですか?」
不意にかけられた声に、ゆるりと顔を上げる。
目の前に立っていたのは、見知らぬ茶髪の男性――
いや、違う。
瞬間、背筋に冷たいものが走る。
(……まさか。)
一瞬で理解した。
茶髪の髪をわずかに崩し、普通の若者のような格好をしていても、その整った顔立ちは紛れもなく見覚えがある。
王太子ミリスクレベン。
(ぴゃっ!!)
変な声が喉から漏れた。
反射的に立ち上がると、全力疾走した。
「えっ!?」
後ろで戸惑うミリスクレベンの声が聞こえたが、そんなもの知ったことじゃない。
彼はお忍びなのだから、ただの変な人に声をかけられたと思って逃げた――そういう言い訳が成立する。
(それにしても……なんで、王太子がこんなところに!?)
とにかく、今は逃げることが最優先だ。
迷わず足を動かす。
地面を蹴るたびに、昨日のダンスの筋肉痛がじわじわと蘇るが、そんなこと気にしている場合ではない。
(……これからも、あんなダンスを続ける可能性があるなら、鍛えた方がいいのかも。)
そんなことを考えながら、息を切らせつつ、公園へ駆け込む。
「ぜー……はー……!」
公園の木陰に身を隠しながら、ようやく立ち止まる。
さすがに、もうついてきてはいないだろう。
そう思っていたのに――。
「……ぜー……はー……!」
背後から、まったく同じように荒い息遣いが聞こえた。
「……え?」
ゆっくりと振り向く。
(……嘘でしょ?)
そこには、王太子ミリスクレベンがいた。
額にはうっすらと汗が浮かび、私と同じように肩で息をしている。
「…………は?」
呆然とする私の視線に気づいたのか、ミリスクレベンは苦笑しながら言った。
「……どうして、そんなに逃げるんですか!」
(いやいやいやいや!!!)
思考が追いつかない。
どうして、王太子自らがここまで追ってくるの!?
そんなことする必要、どこにもないでしょう!?
――逃げよう!!!
即決だった。
私は再び地面を蹴り、全速力で走り出す。
「ちょっと!」
背後で呼び止める声がしたが、知ったことではない。
(しつこい!! まだついてくる!?)
振り向くまでもなく、追いかけてくる足音が聞こえる。
なんでこんなに執念深いの!?
「なんで……っ、ついてくるのよ!!」
「それは、あなたが逃げるからだろ!」
(それはそうだけど!!)
その時、視界の端に、あるものが映った。
――借りれる馬の厩舎!
(これだ!!)
私は迷わず駆け込み、馬を繋いでいる係の者に財布を取り出して見せる。
「借りるわよ!!」
少々乱暴に金貨を手渡すと、係の者は驚きながらも馬を引き渡してくれた。
すぐさま鞍に飛び乗り、手綱を握る。
「よし……!」
馬の腹を軽く蹴ると、勢いよく走り出した。
(これならさすがに、ついてこれないでしょう!!)
そう思った矢先――
「は?」
まさかの光景が飛び込んできた。
王太子も、馬に乗って追いかけてきた。
(なんでよーーーーーー!!!)
こんな執念深い王太子、聞いたことがない!!
なんで逃げるたびに全力で追ってくるの!?
必死で馬を走らせると、次第に街の外れに出る。
その時、目の前に見えてきたのは――
巨大な屋敷。
いや、屋敷というより城。
堂々たる造りで、王宮に匹敵するほどの荘厳さを誇る。
ラヴェルノワ公爵家!!
(助かった……!!)
私は馬を止めると、門番の前に駆け寄った。
「ミシェリア・ローベルクです!! 入れてもらえませんか!!?」
門番は一瞬驚いたようだったが、次の瞬間、にっこりと笑って元気よく答えた。
「喜んで!!!」
――カンッ!と響く音と共に、門が大きく開く。
私は急いで馬を降りると、一目散に門の内側へ駆け込んだ。
後ろを振り返ると、王太子ミリスクレベンは、門の向こうで止まっていた。
門番たちは、何事もないかのように門を閉める準備をしている。
(王太子が一般人に扮装してくれてて助かったわ。)
一方のミリスクレベンは、驚いたように眉をひそめると、諦めたようにため息をついた。
そして、私を見つめながら、ぼそりと呟く。
「……また、会いにくるよ。」
その言葉にゾワッとしたものを感じながら、門がガシャンと閉まる音を聞いた。
「やっと……まけた……」
全身の力が抜けるように脱力し、その場にへたり込む。
――だが、安心するのは、まだ早かった。
ふと顔を上げると、門の内側では、執事やメイドたちがざわめきながらこちらを見つめていた。




