1話目
王歴929年――ダーナンドレル王国
王太子妃ミシェリア・ローベルクは、最悪な死を遂げた。
喉が焼けるように熱い。体が動かない。意識が朦朧とし、視界の端で幼い息子――シェルクの泣き声が聞こえる。
「……ごめんね……ごめんね……」
震える声で、嗚咽混じりに繰り返す。涙に濡れたシェルクの碧い瞳が、壊れそうなほど揺れている。
――あなたを置いていって、ごめんね。
苦しくて、目の焦点が合わない。視界が暗くなっていく。
だけど……もし……生まれ変わっても……。
もう、あんな人生は――
―――――――――
―――――――
私の夫、ダーナンドレル王国の王太子・ミリスクレベン。
金髪碧眼の美しい彼は、かつては優しく私を愛していたはずだった。
でも、それは彼にとって都合のいい"王太子妃"としての愛。
すべてが狂い始めたのは、突然現れた聖女――リーサが宮廷に招かれた日からだった。
黒髪に赤い瞳を持つ彼女は、奇跡を起こし、人々を魅了し、そして……私の夫の心を奪った。
「お前が邪魔なんだ」
そう言って、彼は私に毒を手渡した。
分かっていた。
これは、確実に私を殺すためのもの。
逃げたって、どうせ生き延びられはしない。
それなら……。
私は、震える手で盃を持ち上げ、そのまま毒を喉へと流し込んだ。
焼けるような痛みが走る。体が壊れていく。
意識が薄れ、最後に見たのは、シェルクが泣き叫ぶ姿だった。
――これで、私の人生は終わったはずだった。
だけど――
目が覚めた。
「……え?」
ゆっくりと瞬きをする。
白い天井が見える。目を凝らせば、見覚えのある豪奢な天蓋付きのベッド。シルクのカーテンが風に揺れ、かすかに花の香りがする。
――懐かしい。
でも、どうして? 私、死んだはず……。
混乱しながらも手を動かそうとした瞬間、違和感が走った。
小さい。手が、細くて華奢すぎる。
「まさか……」
恐る恐るベッドを降り、ふらつきながら姿見の前へ。
そこに映っていたのは――
幼い私だった。
「うええええええええええええええ!?」
奇妙な叫びが部屋に響く。
金色の髪、まだ成長しきっていないあどけない顔。間違いなく私だけど、明らかに若返っている。
――夢? いいえ、そんなはずはない。
だって、この年齢の私がこんなに鮮明な記憶を持っているわけがない。
試しに、スカートの裾を摘んで、優雅にカーテシーをしてみる。
流れるような動作。仕込まれた礼儀作法は、今も変わらず私の中に刻み込まれていた。
「……本当に幼くなってる……!?」
混乱のあまり、頭を抱えたその時――
「お目覚めですか?」
優しい声が聞こえた。
ビクッと肩を震わせて振り向くと、見慣れた姿がそこにあった。
「キ、キャリー!?」
思わず叫ぶ。
部屋に入ってきたのは、私の専属侍女だった女性。栗色の髪を端正にまとめた、落ち着いた雰囲気の女性が、微笑みながら深く一礼する。
「はい、キャリーでございます。お嬢様、どうかなさいましたか?」
その変わらない穏やかな態度に、私は無意識に息を飲んだ。
「……い、今……何年!?」
焦る私に、キャリーは少し不思議そうに答える。
「王歴912年の4月でございますが……?」
「えええええええええええええ!?」
私は思い切り叫んだ。
王歴912年――!? ってことは……私、12歳!?
まさか、過去に戻ったの――!?
頭の中がぐるぐると回る。
理解が追いつかない。だけど、これは夢でも幻でもない。
「お嬢様?」
キャリーの優しい声に、我に返る。
「……あ、ごめんなさい。ちょっと、体調が優れないの……もう少し寝るね……」
自分でも驚くほど冷静な声が出た。
だが、その言葉を聞いた瞬間――
「お嬢様が体調不良!?」
キャリーの顔色が一気に青ざめた。
「医師を呼ばなきゃ!!すぐに!」
彼女は慌てて部屋を飛び出そうとする。
「ちょ、ちょっと待って!」
思わず引き止める。
――ああ、そうだった。ローベルク伯爵家は、そういう家だったわね。
私は深くため息をつき、キャリーの腕をそっと掴んだ。
「落ち着いて……仮病だから。」
「……え?」
一瞬、キャリーがきょとんとした顔をする。
「もう……脅かさないでくださいよ、お嬢様……!」
安堵したように胸を撫でおろしたキャリーは、気を取り直し、微笑んだ。
「では、朝の支度を始めますね。」
優しくそう言うと、手際よく私の髪を整え始める。
12歳の私って、どんな感じだったっけ?
身支度を整えられながら、ぼんやりと考える。
――ローベルク伯爵家の次女、ミシェリア。
それが、今の私。
ローベルク家は、巨大な富を持つ名門貴族。
本来なら侯爵の爵位が得られるほどの財力があった。
だけど、父・シェトランドにはそんな野心はない。
「爵位が上がれば、それだけ領地の管理も増えるし、面倒だろう?」
そんなことを言って、伯爵の座に留まり続けていた。
父は、ただ――
「子供が幸せに暮らしていければ、それでいい」
そういう人だった。
懐かしいな……。
私が死ぬ未来まで、父は変わらず私を愛してくれていた。
思わず、胸がきゅっと締め付けられる。
「お嬢様、準備が整いました。」
キャリーが優雅に一礼する。
――――――――――
――――――――
食堂へ向かうと、長いテーブルにはすでに家族が揃っていた。
「おはようございます」
そう言って、私は無意識に完璧な礼儀作法で椅子に腰掛けた。
背筋を伸ばし、優雅な微笑みを浮かべながら、
まるで宮廷での朝食のように、丁寧に食器を持ち上げる。
――あ。
しまった。
これ、王太子妃時代の癖だ!!
「な、なーんちゃって!」
咄嗟に茶目っ気たっぷりに笑い、わざと崩れた仕草を見せる。
家族が「?」と首をかしげたが、特に気に留めてはいない様子だった。
……ふぅ、危ない。
食卓には、姉のシェリルアもいた。
彼女は、私と同じ金髪金眼を持つ美しい女性。
16歳になり、すでに婚約者がいる。
その婚約者――ダーリル。
「おはよう、ミシェリア。今日も元気そうだね。」
にこやかに微笑む彼は、爽やかな青年だった。
――そう、見た目だけなら。
未来の記憶が脳裏をよぎる。
(この人……女癖が悪くて、姉さんが未来で苦労してたのよね……)
未来では、シェリルアは何度も涙を流していた。
彼が女性関係の問題を起こしては、それを必死に取り繕っていた。
最終的に、心が擦り切れてしまい……。
(でも……今なら未然に防げるかも!?)
そう思った瞬間、私はつい口を開いてしまった。
「ダーリルってさぁ、女をとっかえひっかえしてるよねー。こないだも、綺麗な女の人と仲良さそうに歩いてたの、見ちゃったー♪」
……言った瞬間、気づいた。
やばい。
食卓の空気が、一瞬で凍りついた。
――カチャリ。
フォークを持つシェリルアの手が止まり、スープを飲もうとしていた父の動きも固まる。
キャリーなんて、慌てて息を呑んでいた。
ダーリルもまた、固まっている。
「…………」
シェリルアがゆっくりとダーリルの方を向いた。
「……ミシェリア? それは……どういう意味?」
姉の声が冷たい。怖い。
ダーリルは焦ったように笑い、手を振る。
「いやいや、ミシェリアちゃん、冗談だろ? そんなわけないじゃないか!」
「あ、あはは……」
(……いきなりかましちゃった……!!)
その時――
「ミーシャ、冗談を言っちゃだめだよ。」
父・シェトランドが、優しく諭すように微笑んだ。
ほっ……と胸を撫でおろしそうになった瞬間、私は見逃さなかった。
父の視線が一瞬だけ執事へと向かい、静かに指示を出しているのを。
「後で、調査を頼む。」
穏やかにスープを口に運びながらも、父の声音は低く、鋭かった。
それを察したのか、ダーリルの顔色がみるみるうちに青くなる。
(……あ、これ……結構やばいやつ……?)
見た目こそ穏やかだけど、ローベルク伯爵家の力を甘く見ちゃいけない。
父が「調査を頼む」と言った以上、徹底的に調べ上げられるはず。
(……うん、まぁでも、いいか。姉さんが苦労するよりマシだし!)
ダーリルの動揺した顔を横目に、私はこっそりと小さくガッツポーズをした。