権之助坂トロッコ
大鳥神社の真横、山手通りの掘割の真上を突っ切って、目黒駅へと向かうこの道は、一言でいえばサウナである。ここのところ連日、やれ太平洋高気圧の非常に強い勢力だの、いやいや、あっちのチベット高気圧の例年にない張り出しだの、何だのかんだのが言われてはいるが、とにかく今日も関東平野はカンカン照りであり、東京は悪い意味で灼熱で、私が歩むアスファルトはビルの日陰にあるというのにも関わらず、峰行に身を捧げる僧へのプレゼントのような厳しさを伴っている。
つまり、私は今、修行の身にある。目黒の奥地の訪問先を発ってまだ数分、すでに数回はハンカチで押さえられている私の顔面は、日焼け止めやら、今朝仕上げた精一杯の仮面やら、とろけ出してしまったのか、鏡で見るまでもなくぐずぐずで、まもなく生まれたままのところに、時間の経過だけが乗った状態となるだろう。もう体中の至るところに確実に汗がにじんでいて、私そのものが高気圧だ。
酷い酷暑だ。頭痛が痛くなってくる。
いや、それだけでない。気分が悪い。一生懸命、日陰に入った時でさえ日傘を差しているというのに、ご利益はなかったようだ。乾いた口内を潤そうとカバンから取り出した、朝買ってから少ししか減っていない水は、すでに常温、もっと言えば浴槽の残り湯だ。
ぬるさと熱さの中間にある水を口にふくむべく、日傘を真後ろに傾けて、顎を天に向けた私が目にしたのは、背後から直に身に突き刺さる日差しだった。ビルの日陰だと思っていたのに、いつの間にか目黒川にかかる橋の真上だ。ここは目黒に架かる新橋、目黒なのに新橋、もうどこでも良い。大変よく日が照っている。
思ったよりも、まずいかもしれない。川に沿って聞こえてきて良いはずのセミの鳴き声が、今は遠い。何であれ、熱い地面の上に倒れこんで、誰かの面倒になる訳にはいかないし、倒れこんだ時点で、私は焼き肉になってしまうだろう。そうなれば、私は殺人的暑さによって殺害された、はかない被害者ということになる。
───『目黒炎天下直射日光殺人事件』だ。
物騒なようで馬鹿な話は終わりだ。私は修行の身なのだ。この先の坂を上りきらなければ、身は清まらない。そこまでしてやっと、冷房の効いた電車に乗って、私は涼む。もはやここに、意思はない。
渡り切った橋の先、交番の前で警杖に寄りかかる、野球部員のような見た目のおまわりさんも、申し訳ないが目がイカれてしまっている。彼は中に入って、涼むべきだ。少なくとも私は、彼が休んでいても、税金泥棒だと責めるつもりは毛頭ない。
川沿いの遊歩道から橋の上へ、スーツケースを引き上げながら上ってきた、外国人と思しき3人組の面々も、かなり堪えていることだろう。心苦しいが、これが日本の夏の真実だ。
あと少しで、次のビルの日陰だ。近くでは、何の車か知らないが、やたらふかしているのが1台いる。アイツらのせいで、今こんなに暑いのだ。では私は、涼しくなるべく何の努力をしているのか。
こうして、日傘を差している。
汗を押さえながら見上げるのは、目黒の駅前から続く、途中で二手に分かれた上り坂だ。なぜ都は、この歩道にエスカレーターを設けないのだろう。別に国が設けても良いし、区でも良い。何でも良いから、坂を上りたくない。とは言え、駅までもう間もなくというこの距離で、バスもタクシーも使いたくはない。
選挙は先日、終わったばかりだ。この蹂躙を受けて、どう意思表示をすべきか、考えているようで朦朧とする私が、蜃気楼のような歪みの先にぼんやりと目にしたのは、白い大きな帽子にサングラスをかけた、私と同年代ぐらいであろう、女の姿だった。女は、ベビーカーを押しながら車道側へとはみ出して、坂の途中に止まる数台の車を追い越そうとしているのか、ゆっくり坂を下ってきている。
この暑い中、あちらも随分と大変だ。ただ、わざわざ車が通る方に出ているのだから、あれは停まっている数台の中の1台に、これから乗り込もうとする動きである。いずれも日陰に止まっていて、なおかつどれも外車だから、あちらは間もなく涼しくなる。実際のところ、車内もすぐに涼しくなるのかどうか知らないが、少なくとも心的な涼があちらには担保されている。
何より、かわいらしい赤子がいるのだ。この暑さだ。むしろ彼女たちは、可及的速やかに涼を得るべきだ。
ところが、あろうことか、この女は何もないはずの道路上で足をおかしく前後させると、前のめりに転倒してしまったのである。直後、女が押していたベビーカーも、突如与えられた勢いとともに、権之助坂をトロッコのように下り始めた。
女がこけたのは、ちょうど三叉路になったところより少し下ったところの、車道だ。私がいるのは、それよりもう少し下側の歩道だ。
刻一刻、先へ先へと転がるベビーカーの4輪のタイヤが、生命的な何かを私に語りかける。熱いばかりで馬鹿になりかけた私の頭が、極めてクリアに開けていく。今から走れば間に合うか。
ダメだろう。ふらふらしている上に、ヒールを履いてきてしまった私の足では、どうにも追いつかない。
手前の車線から反対車線へと抜けていくベビーカーに、真横の街路灯と同じく、私は静的な1点と成り下がって、目の前で生じる事象を捉えることしかできない。その間もベビーカーは、昔、物理の先生が語っていた、坂の上からスタートした球のように、徐々に速度を上げていく。
暑い中に鳴り渡っていた、騒音でしかない、うるさいエンジン音が一層大きくなる。こちらから見て赤色の信号になっている坂の下の交差点から、勢いよく真っ赤な外車のスポーツカーが左折して、目黒駅方向に進む車線へと入ってきた。
あっちは青だ、と私が思うより早く、ベビーカーはスポーツカーの面前を塞いでしまった。
私は生まれて初めて、自動車のかけた、派手な急ブレーキの音を耳にした。同時に私の後ろに続いてきていた、例のキャリーケースを手にした3人組の外国人が、洋画に出てくる俳優のように神を叫んだ。
つんのめりそうになったスポーツカーの後輪のサスペンションが、ガクリと落ちる。間一髪、スポーツカーは左にかじを切って、歩道のガードレールに衝突しそうになりながらも、どうにか停止した。ベビーカーとの正面衝突は避けられた。
だが、ベビーカーは止まらない。停止した左ハンドルのスポーツカーの右助手席側ドアを擦り上げると、その進路を目黒川の方に向けるように変えて、さらに先へと突き進んでいく。
ここで、ベビーカーに釘付けとなっている私の視界の右手隅から、クロスバイクだろうか、一言でいえば細い自転車に跨った大学生ぐらいの爽やかな男が、斜め後方を振り返りながら、ベビーカーを追って猛スピードで坂道を斜めに横断していった。ちょうど向かい側の歩道でも、事態に気が付いたであろう、近くの高校のものと思われる、ポロシャツの夏制服を着た男子生徒たちが3名、リュックサックを地面に放り出して駆け出すところであった。加えて、赤いスポーツカーからも、白髪交じりで細身の壮年男性が降りてきて、追跡者たちの後に続いていく。
坂の下では、甲高い笛の音が響く。あの、目がイカれていたおまわりさんだ。長い警杖は邪魔だったのだろう。今は笛を吹きながら両手を大きく広げて車道に飛び出し、二遊間をセンターに抜けようとする白球を追いかける球児のように、全力で坂を上りだしている。
実に男性6名だ。これだけの追っ手をもってすれば、ベビーカーが捕獲されるのも時間の問題だ。
そうなるはずだった。
ベビーカーがまさに赤信号の交差点を差し掛かろうというところで、ピロピロと、無機質な一定間隔のチャイムの音が、私の耳に届いた。すぐに、薄緑色の大きなミキサー車が、権之助坂に姿を現した。
あまりに非情なタイミングだ。ミキサー車はスポーツカーとは反対側、私がやってきた方向の、山手通り方面に向けて、右折しようとしている。その曲がりかけの側面、後ろ側に2つ連なる、白っぽく薄汚れたタイヤを目掛け、ベビーカーは勢いよく飛び込んでいく。
次の瞬間、ゴミ収集車が固いゴミを回収した時のような、プラスチックが明らかに割れた音が、陽炎の中に立ち上った。そうして、後輪で押しつぶされるベビーカーからは、赤っぽい液体と砕けた何かが、勢いよく辺り一面に飛び散っていった。
私は叫んだ。私だけではない。辺りから一斉に大きな悲鳴が上がる。外国人たちも、また神を叫んだ。
なんと惨たらしいのだろう。私は、まっすぐ立っていられなかった。腰とは、本当に抜けてしまうのだ。
ミキサー車は、すぐに止まった。まもなく、ドアの開く音に続いて、遠目にも顔色が悪くなった小太りの男性が、凄惨なタイヤの元へと駆け寄って、ひしゃげたベビーカーを素手で引きずりだそうと試み始めた。車から降りてくるところは見えなかったが、彼は確実にこのミキサー車のドライバーだ。それに続いて、まず自転車の青年が、次におまわりさんが、その後に高校生とスポーツカーの主が、ドライバーとベビーカーを取り囲むようにしてしゃがみこんでいった。
「救急車!!!」
交差点の近くにいた男性が、冷静に大きく声を上げた。
そうだ。今は救急車が必要だ。それなら私でもできるか。だが、これほど暑い中にあるというのに、私の手はぶるぶると震えていて、私はここでも何もできない。
あの高校生たちは勇敢だ。もちろん、それ以外、あの場で必死に救助に当たる全員、これほどの惨劇を目の当たりにしながら、しっかり体を動かせるのだから勇敢に違いない。それでも、特に一段と若い高校生たち、彼らは本当に肝が据わっている。それに比べて私の体たらくは、何なのか。
この時、まるで本職の警察官のように、熱い地面にはいつくばって何かを確認していた、素晴らしい高校生たちは急に立ち上がると、彼らの投げ置いたリュックサックの近くにいる、その友人たちであろう別な生徒の集団に向かって叫んだ。
「スイカだ!!!スイカ!!!」
向かい側の歩道だけでなく、私の周りのこちら側でも、どよめきが広がる。声のかかった友人たちの方が、私たちの思いを代弁する。
「何!?もっかい!!!」
「赤ちゃん乗ってない!!!全部スイカ!!!」
幻聴だろうか。それとも暑さのせいで、私以外のみんな頭がおかしくなってしまったのだろうか。かわいそうなほどにパニックに陥っている3人組の外国人にも、誰かがナットベイビー、ジャストアウォーターメロンと状況を伝えて落ち着かせようとしているのだから、現実なのだろう。きゅうりは、キュウカンバーだ。
あのおまわりさんも立ち上がって、応援を呼んでいるのか、どこかと必死に連絡を取り合っている。飛んだ騒ぎとなったが、結局事故は事故だ。残念ながら、事故をもらってしまったミキサー車のドライバーは、あのベビーカーがひしゃげる音を聞いて、おそらく寿命が半年分ぐらい縮んでしまったことだろう。
私もこんなところを目にしてしまって、災難だった。やはり気分が悪い。さっきよりも悪い。たった今あった出来事は、近日、誰かに酒でも飲みながら話すこととして、これ以上ここにいても良いことはないし、涼しい電車に揺られるべきだ。その前にどこかでお茶を買うか、カフェにでも入って冷たいコーヒーでも飲みながら、しばらく休憩するのも、私にとって有意義だ。
ギャラリーの中でいち早く日常に戻ろうとする私が、震える足腰をどうにか立て直し、視線だけは現場に残したまま体は背を向けて、再び目黒駅の方によろよろと歩き出そうとした時であった。この一部始終の発端となるベビーカーを押していた女がこけた辺りから、車のドアを勢いよく閉める、乾いた音が聞こえてきた。
音に合わせて頭も前に向けた私が目にしたのは、真っ黒で四角いSUVが1台、急発進し、私の横でぐるりと転回して、駅の向こう側へと走り去っていく光景だった。しかも、三叉路のところの赤信号を、完全に無視している。
少し前にとんでもない出来事があったばかりでなく、坂の下にこれから警官たちが集まってくるであろうというのに、何と不届き者だろう。暑すぎると人はおかしくなる。だいたいあの女は、ベビーカーにスイカを入れて、何がしたかったのか。そもそも、この迷惑の元凶たる張本人であるのに、こけてベビーカーを突放して以降、女は姿を見せていないが、一体どこに行ってしまったというのか。
ただ傍観していただけに過ぎないとは言え、何とも腑に落ちないまま、汗で濡れ切ってしまっているハンカチで続く汗を押さえて私が少し進むと、右手の雑居ビルのエントラスに、ぴっちりとした黒いシャツを着た筋骨隆々の短髪の男が1人、例の現場に背を向けるようにして、横向きに倒れている。これだけ大勢の人目があると言うのに、誰もが坂の下に注目していたのか、それとも見た上で無情にも私事を優先したのか、彼の異変は起きてそのまま、起こりっぱなしになってしまっているようである。
「ちょっと!」
体調も優れないし、長居はしたくないが、私ももう十分に良い大人であるのだから、あの勇敢な高校生たちのように、少しは何かの足しにならなければならない。今度は本当に救急車だろう。
「……大丈夫ですか?」
まず仰向けにしてやろうと、右の首筋に小さな蛇の模様のタトゥーが入った彼の広い肩を掴むと、何か嫌な感触が手の中に広がった。ひどく汗ばんでいるようだ。返事もない。
そのまま、力ない肩を手前に引くと、かっと見開かれたままになった、鈍い瞳が目に入った。見れば胸の中央やや左手側には、棒のようなものが深く突き刺さっていて、黒いシャツにも何かが広がっている。
思わず、彼に触れたその手を、私は開いた。
真っ赤だった。
私は今日一番、大きく叫んだ。