匂いに敏感で
「お父様、私街に出かけようと思うの」
ルルーシェは食堂内にピシャリと稲妻が走る様を見た。
給仕も、ラカーシェも、フレアンヌも、シュイトンさえもが雷に打たれたかのように動きを停止させる。
「え?……え?」
ルルーシェはある程度皆の反応を予測していたため、笑顔を保てる。
しかしトワイは昨日来たばかりなため、何がこんなにも屋敷の人々を固まらせるのか分からず困惑していた。
「そうか…………。ルルーシェはお姉様になって成長しようと頑張っているんだね」
(そんなつもりはなかったのだけど)
とりあえず外出できるのなら理由なんてなんでもいいかと受け流す。
ただ、トワイにプレゼントする香りなのだから現地で嗅いでトワイに合うものを。
そんな姉心なのだ。
そして、そのためなら多少の外出はしようではないか、という気持ちになっただけ。
臭い外への外出をしないのは、外に出ずとも敷地内で全て事足りるのだから、わざわざ不愉快な思いをしてまで行く理由がないだけである。
今回の行動に深い意味なんてなかった。
「トワイも行くだろう?」
「はい」
「まあトワイ、一緒に来てくれるのね」
まだ屋敷にさえ慣れていないだろうトワイを外に連れ出すのはいいのだろうかと悩んで、結局誘えなかったルルーシェとしては嬉しい誤算だった。
紋章の付いていない、何処かの商家のように見える馬車に乗り込む。
格好も当然それに合わせたもので、少しいいところの商家の子、くらいの服装だ。
ルルーシェは隣に座るトワイを盗み見る。
(美形が隠せていないのだけど。これ攫われないかしら?大丈夫!?)
ルルーシェの向かいに座るカーティスに目線で思わず問いただす。
尤もそんなルルーシェの心の声が届くはずもなく、カーティスには首を傾げられただけだ。
ルルーシェは、自分の容姿も良いのだということについてはスコーンと心配事から抜け落ちていた。
「お姉様、どうかしました?」
「……いいえ、何も?」
気づかれていた。
トワイの怪訝そうな表情が刺さって痛い。
ルルーシェはそっとトワイから視線をはずした。
ルルーシェは街を歩きたいと我儘を言い、店の立ち並ぶ賑やかなな道路の手前で降ろしてもらった。
そして立ち去る馬車を見送り、ふと疑問に思う。
「カーティス、馬車帰しちゃって大丈夫なの?」
「はい。また呼びますから」
「ふうん?」
屋敷を出てから此処まで三十分はかかっている。
しかし最後の店に入る前に連絡を取りでもするのだろうと納得した。
空気を鼻から吸い、肺を満たし、吐く。
その動作一回で不愉快さがルルーシェの頭を占める。
「お姉様?」
眉を顰め、不愉快そうにしているルルーシェを不審に思ったらしい。
ルルーシェは心配かけまいと慌てて笑顔を作るが、歪になっているという自覚がある。
(もう頭がガンガンと痛むわ。こんなに辛かったかしら……?)
「ルルーシェ様、臭いは大丈夫ですか」
「大丈夫じゃないわ…………」
ルルーシェは久しぶりの街についつい歩いて回りたいと言ってしまったが、早速後悔していた。
街は様々な匂いが入り混じり、臭いと感じさせるほどに成り果てている。
これが嫌だから、ルルーシェは敷地内から出ずに済むのなら外には行かないように過ごしていたのだ。
だが、外に出ていなさすぎて、「まぁ耐えられるわよね、大丈夫!」と楽観視してしまっていた。
(あぁ、そうだわ。こんなにも強烈なものだというのに、なんで忘れることができていたのかしら)
この世界の人は十人十色な匂いを持っていて、ルルーシェはそれを嗅ぐことが好きだ。
その人の匂いを嗅ぎ、夢中になりすぎてゼロ距離まで近づいてしまいそうになることが多々あるほどには好きだ。
尤も、それは屋敷の人限定なのだけど。
屋敷外で人工物の香りを感じない人は殆どいない。
人工物ではない、百パーセント自然で作った香りなら混ざっても臭いとは感じないのだが、売り物には大体少しは人工物が混じっているからだ。
屋敷の人達は、何故かルルーシェの物心ついた頃には既に良い匂いしかしなかった。
だから臭いへの耐性が全くなく、初めて外出した時はあまりの臭さに吐いて気絶した。
それは屋敷中大騒ぎだったらしい。
ルルーシェが目覚めたのは気絶してから三時間後で、その時の皆は既に平然としていたため聞いた話でしかなく、ルルーシェは大騒ぎだったのだと言われても実感が湧かないのだが。
「ごめんなさいトワイ。行くのは目的のお店だけにしてもいいかしら……」
「勿論です」
「ありがとう。カーティス、案内お願いするわね」
「はい」
ルルーシェの目的の店はルルーシェが唯一、入浴時に愛用している入浴剤を取り扱っている店だ。
ここでエッセンシャルオイルを買うためにルルーシェは外出したいと言ったのである。
勿論ルルーシェが使用するのではなく、トワイに使ってもらうためのものだ。
(めちゃくちゃ好み……!)
お店の外見が。
程よく使い込まれたラベンダー色の扉と、その扉の周りを彩る葉の生い茂る蔦。
クリームがかった白色の外壁も、ラベンダーの扉と合わせてとても上品だ。
どれもルルーシェの心を的確に撃ち抜いていく。
カーティスが扉を開け、ルルーシェとトワイが通るまで支えてくれた。
ルルーシェは中から漂ってくる香りに確信した。
これは当たりだ、と。
ルルーシェは目を輝かせ、足早に店内へと足を踏み入れる。
中では、店員が一人、カウンターに佇んでいるだけだった。
他には、奥で作業しているらしき人が一人だけ。
ルルーシェは人の少なさに疑問を持ちつつも、棚に並ぶ商品達の方へと意識が釣られてしまう。
アロマオイルではなく、エッセンシャルオイルしか取り扱っていないのだろう。
嗅ぐことへの抵抗は生まれない。
(ラベンダー、オレンジ、ベルガモット、ネロリにサンダルウッド。ああ、プチグレンの方がいいかしら)
散々迷って、プチグレンのエッセンシャルオイルと見た目で楽しめるキャンドルを購入した。
(無臭のキャンドルまで売るなんて、なんて商売上手なのかしら)
ルルーシェは感心しながら店員に言う。
「いつも使っています。美しい香りをありがとうございます、と店主に伝えておいてください」
「……かしこまりました」
笑顔で見送られ、再び外へ出る。
ルルーシェは思わず鼻を押さえ、悶絶する。
(いい匂いの後に臭い匂いって余計にキツいわ)
そして、こんな時でさえ心の中でも離れなくなったお嬢様言葉には笑うしかない。
最初の頃は心の中ではもう少し砕けていたのだが、徐々に今と昔が完全なる融合を遂げていった結果、生きている今が微かに優ったらしい。
お嬢様言葉が全く苦にならないし、それどころか自然と溢れてくるのだ。
「お姉様」
「さ、街歩きしまょう」
「辛くないのですか」
「辛いわよ。でも吐くほどではないもの。トワイは私に付き合ってくれたのだから、今度は私がトワイに付き合う番でしょう?」
「いや、そこまで頑張っていただかなくても……」
「遠慮することじゃないわ」
「お姉様?」
「……」
今のルルーシェには、トワイの呼びかけに答えるほどの気力がない。
呼んで直ぐに来た馬車に疑問を持つ暇もないほど急いで乗り込んで、ドサリと勢いよく座る。
そして壁へと頭を預けると、ルルーシェは周りの声が聞こえないほどの深い眠りへと入っていった。
要するに、ルルーシェは馬車で力尽きたのだ。
ルルーシェは、人の匂いを感じることが特別なのだと理解している。
しかし、その重要性は理解していない。
鳥籠で大切に大切に囲っていても不注意で扉が開けっぱなしになっていた、なんてことは誰でも起こし得ることだろう。
その時、ルルーシェはどんな行動を取るのだろうか。