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49 もう一つの攻防戦の決着⑥

「ねぇ、聞いてもいい?」


「……なんです」


「殿下のことを慕っているとお父上に話していたの?」


 やはりこの方はあのお母様の血を引いているらしい。少し、意地悪だ。


「……敬っているという点ではお慕いしているというのも、間違いではありませんが」


 アシュレイ様は楽しげに「そう」とだけ返してきた。


 幼い頃から殿下に纏わりついていたわたくしだが、殿下はきっと煩わしく思われているだろうと自覚したのは、そんなに遅い時期のことではない。

 今でこそ殿下はわたくしのことも親しい友人くらいには思ってくださっていると自負しているが、幼い頃にはそれはもう面倒臭いとのお心を隠さない対応をされてきた。もちろんわたくしも腕を引いたりするなどの不遜な振る舞いをしていたのだから当然だが、それでも幼心に傷ついたのはたしかだ。

 そんな方を、思慕したりはしなかった。


 理由はそれだけではない。


「あの方はとても頼もしく優しく寛大な方であると存じております。……けれど、その……わたくしは、あの方の大きなお声が……こ、怖、くて……」


 リシュフィと共にいると殿下と過ごす時間も当然の如く増えた。そして殿下が声を張り上げられるところを見ることも。リシュフィが怒らせるようなことをしたからいけないのはわかっているが、わたくしは殿下の──というよりも男性の大きなお声がどうしても苦手で、居竦んでしまうのだ。


 それに、殿下は──。


「殿下がリシュフィを愛していらっしゃることは明らかでした。だからこそ、わたくしはあの方の妻となれば父の希望を叶えられ……自らを罰することができると考えておりました。けれど、本当は……」


 一度言葉にしてしまえば、もう止めることができなくなった。


「愛のない結婚なんて、嫌でした……っ」


 わたくしを優しく包み込む体に腕を回した。本当にこの方と婚約することができたのなら、離れてほしくなかった。


「愛されたいのです。大好きな方に愛されて、穏やかに共に過ごしたい。愛してくださらないことがわかりきっている方の妻になるなんて、耐えられません……」


 涙まじりに訴えるわたくしに、アシュレイ様は背に回した腕を後頭部へと移動させて優しく撫でてくださった。

 そうして落ち着いた頃、耳元で「それなら」と囁き声がして、体を優しく離された。


「……僕なんて丁度いいんじゃないかな」


 どこか得意そうなアシュレイ様の鳶色の瞳は優しく愛おしそうに細められ、わたくしだけを映している。


「大きな声なんて出さないし、もちろん怒鳴ったりもしない。君に冷たくするのもありえないし、なにより──エレシアを愛してる」


 それは、幾度となく伝えられてきた言葉だった。


「……一年生の頃、寮の私室にお呼びしたことを覚えていらっしゃいますか」


 思わず問いかけた突拍子のない質問にもアシュレイ様は「もちろん」と答えた。


「屋敷に残していた侍女が内密に手紙を寄越してくれたのです。あのドレスを仕立てるのに、父が──母の大切なネックレスを売り払ったと……ですからわたくしは、どうしてもそれを買い戻したくて……」


 これについてはわたくしの早とちりだったのだろう。あの両親の関係を見るに、恐らくは母が許可を出したのだ。きっと父も母も、わたくしにドレスを作ってやりたいと思ってくださったのだと思う。親不孝な娘が売り払ってしまったけれど。


「そうだったんだね。そこまで言ってくれれば手伝ったのに」


 これには首を振った。


「優秀な子でしたから、無事に買い戻せました。ですが、あの、私室であなた様は言ってくださいましたでしょう。その……」


「……結婚してください、でしょう。覚えてるよ」


 そう言って膝を折ろうとしたアシュレイ様を押し留める。その前に、わたくしは言わなければならない。


「何度も……何度も失礼なことを言って、ごめんなさい。わたくしは、あなたのことが好きです、アシュレイ様。あなた様だけのことをずっと想っておりました。殿下とリシュフィの婚約披露パーティーで、グラスを差し出してくださってからずっと、ずっとです」


 涙がどれほど溢れようとも、アシュレイ様はじっとわたくしを見つめて、静かに話を聞いてくださった。


「ずっと夢見ていました。アシュレイ様の妻になる夢です。叶わないと思いながら、なのにあなた様もわたくしなどを好きだと言ってくださって、本当はとても嬉しかったのです。──愛しています、アシュレイ様。わたくしは本当に、あなた様の妻になれるのでしょうか」


「それは僕からお願いしなければならないことだ」


 アシュレイ様は膝を床につけ、わたくしに手を差し伸べた。緊張に激しくなる鼓動を抑え、手を重ねる。


「エレシア・エドワーズ公爵令嬢。あなたに婚約を申し入れたい。自らには厳しすぎるほど厳しいのに、誰よりも優しいあなたを心から愛しています。どうか、学園を卒業したら、私と結婚していただけないだろうか」


 いつも笑みを絶やさないアシュレイ様が真剣な眼差しでわたくしの返事を待っている。


 ……返事など、ご存知なくせに。


「……もう卒業していますわ」


 少し意地悪し返してみるとアシュレイ様は悪戯っ子のように笑った。


「うん。だから今すぐ結婚してほしい。エレシア」


 返事は? と笑いを滲ませた瞳が急かす。なんだか可笑しくなって、笑ってしまった。


「王太子殿下のご成婚の前に式を挙げるなど言語道断です。礼儀から見ても殿下の後にするべきでしょう。婚約していなかったのですから。……恨まれますわよ」


「あの方はリシュフィ嬢のこととなると見境がないから仕方ないな。しばらくは恋人気分でも味わうことにしようか」


「はい」


 流れで頷くと、アシュレイ様がにんまりと意地悪な笑みを浮かべた。……どうやらわたくしは、はい、と返事をするよう誘導されてしまったらしい。


「……計りましたわね」


「なかなか返事をしないからだよ。意地悪ならこっちの方が上手かな」


 相変わらずな策士ぶりだ。敵いそうにない。


 わたくしの手に口付けて、立ち上がったアシュレイ様の目が一瞬開け放たれたままの扉へと向いた。


「ねぇ、エレシア。お父上に秘密は持てる?」


 急な問いかけに首を傾げつつ「内容によります」と正直に答える。


「……分かってないみたいだね。事後承諾でいいか」


 何を、と問いかける間もなく、アシュレイ様のお顔が眼前に近づいてきて──唇に柔らかなものが触れた。


 音を立てて離れていくそれは、聞いたことしかないもので──。


「な、な、な、なんてことを……っ!!」


「婚約したのだから、このくらいは問題ないでしょう?」


「あります! こ、こういうものは夫婦になってからするものです!!」


「閣下の教育は半世紀古い気がするな……嫌だった?」


 わざとらしい落ち込み顔で覗き込まれ、言葉に詰まる。


 嫌か、そうでないかと問われれば……。


「良かった。嫌じゃなかったらしい」


 可笑しそうに笑いながら言われて体中が熱くなる。


 あまりの悔しさに「父に報告します」と脅すと本気な様子で謝られ、しばらくはこれが使えそうだわと内心でほくそ笑んだ。


 夫婦となるまで許されるわけがないでしょう。まったく。




 結局、客間へと戻ったわたくしを心配そうに出迎えた父にはあの一件は秘密にしておいた。わたくし自身、父に話すのは少し恥ずかしすぎる。


 そして母の提案でその日の夕食は両家で揃ってということになった。

 なんと夕食は母の手料理だという。元は伯爵家の娘であった母が料理をするなんて、父以外の皆様がとても驚いていた。


「エレシア。手伝って頂戴な。可愛い娘と並んでお料理をするのが夢でしたのよ」


「わたくしはお料理は……」


 したことがない。屋敷には当然専属の料理人がいるし、貴族令嬢の中にはお菓子を作るのが趣味だという方もいるが、料理ができるというとリシュフィくらいしか知らなかった。


「お皿に盛り付けたりお母様の話し相手になってくれるだけで良いのよ。いらっしゃいな」


 お母様はご機嫌で手招きする。それくらいならと付いて行った。




 思い返せば、父もスコット公爵ご夫妻も母が招待した方達で、アシュレイ様も今日こちらに赴く約束になっていた。母は初めからこの夕食会を計画していたらしい。だからだろう。テキパキと手際よく用意されていく料理達を前に、わたくしの出番などあるはずがない。


「ねぇ、エレシア。こちらの鶏のオーブン焼きのソースは、オレンジを使った甘酸っぱいソースとスパイスを効かせた辛味のあるソースのどちらが良い?」


「……それでしたら、オレンジがよろしいと思いますわ」


 結果、母が気を利かせてわたくしに仕事を作ってくださっていて、なんとも情けない限りだ。

 なのに母は笑みが絶えず、特にオレンジを選んだときなどは「あらあらまぁ」とクスクスと楽しそうに笑い声が溢れるほどだった。


「オレンジのソースが、なにかありました?」


 あまりにも笑うものだから尋ねると、母は「あなたのお父様がお好きでしょう。酸味のあるソース」と揶揄い調子で教えてくださった。


 無意識に父の好きなものを選んでいたらしい。少し照れてしまう。


「お父様は意外と甘いものも好まれるのよ。デザートも楽しみにしていて頂戴ね」


 母は本当に楽しそうで、浮かれたままにずっと話し続けている。

 主に父は何が好きか、ということを。


 母のその様子に、実は一つだけ、どうしても気になっていることがあった。

 しかしこれを聞くのはあまりにも失礼だと思い直す。


「デザートはなんですか?」


「秘密よ。秘密。こっそり作ってありますからねぇ」


 母は舞うように調理場を動き回り、結局何の役にも立たないわたくしは本当にお母様の話し相手でしかなかったが、母はとても楽しそうだった。




 母が腕を振るった夕食会はとても和やかで楽しいものになった。そうして、食事も終わり、母の特製のデザートを堪能したところで、そろそろお暇しますと公爵様が仰ったときに、母が手を叩いて言ったのだ。


「アシュレイ様は今日は泊まっていかれたらどうかしら。娘はそちらに引っ越してしまうのだから、わたくし達も義息子ともっとお話がしたいわ」


 ぴしりと固まるわたくし達に気付いていない振りをしているらしい母はスコット公爵ご夫妻から鮮やかな手際で許可をもぎ取ってしまった。


 ……というよりもご夫妻も面白がっているようにしか見えない笑みを浮かべている。唯一父が反発してくださったが、父とわたくし、アシュレイ様陣営は母とスコットご夫妻の堅固な城を攻め落とすこと敵わなかった。


「ひどいですわ。お母様」


 食後の片付け中、母に抗議する。


「何がひどいのかしらねぇ。大好きな殿方と離れたくないだろう可愛い娘のためにしたことですのに」


「そ、そんなこと思っていません!」


「あらまぁそうなの? お可哀想に、アシュレイ様……さっさとお帰りなさいませとでも思っていたのかしらねぇ、この子は」


「そんなことも思っていません!!」


 何を言おうとも楽しそうに笑う母には今後一生敵いそうもない。それでも母はきっと、離れていた時間を取り戻すようにわたくしとの会話を楽しんでくださっていた。


 そんな母に、わたくしはどうしても、先ほど聞けなかったことを聞いてみたくなってしまった。


「お母様。一つ、伺ってもよろしいですか……?」


「なんです、改まって。ああ、お料理のレシピかしら? それならレシピノートを作っておいてあげましょうねぇ」


「それもいただきたいのですけれど、そうではなく……その……」


 言い淀むわたくしに、母は不思議そうに首を傾げて手を止めた。


 わたくしが、聞きたかったこと。

 それは──。


「お母様には、愛する方がいらっしゃったと聞いたのです……」


 幼い頃、屋敷には伯爵邸から来た母の侍女達も多くいた。お喋りな彼女達の囁きは、小さなわたくしに気付かず行われていたのだ。


 そこで聞いた。


 お嬢様はあの慕っておられるという方の妻となれずにお可哀想に、と。


 目を合わせることもできずに口にして、後悔した。

 貴族の結婚に愛情など必要ない。だから、結婚当時母に他に愛する方がいたとしても、母はその方を選ぶことができなかったのだ。


「あ、あの、お忘れください……不躾な真似をして……」


「そうねぇ。愛していた方はいましたよ」


 母はあっさりと認めてにこやかに微笑んだ。


「学年がわたくしの二つ上でねぇ。学園に通う多くの女生徒が憧れる方でしたのよ」


 なんの気負いなく母は話し、優しい視線は後片付けをする手元へと戻っていった。


 その背中に、いったい誰を愛していらっしゃったのだろうと不安の多い興味が沸いた。


 学園の多くの女生徒の憧れ、ということは、恐らくは上位貴族だ。


 わたくしの在学中も殿下やアシュレイ様、それにお二人のご友人方は女生徒達の憧れの的だったのだから。……特にアシュレイ様は唯一婚約者もおらず、女性にとても優しい方だから、きっとお誘いも多かったことだろう。


 しかし母の二つ上というと、リシュフィのお父様であるレストリド公爵様は年齢が合わない。それなら……。


「もしや、陛下……ですか?」


 当時の陛下は王太子殿下であらせられたが、まだ婚約者はいなかった。憧れと打算で陛下に近づく女性は後を絶たなかったはずだ。


「陛下は当時から聡明で思慮深く穏やかな気性の方でそれはもう女生徒達から大変な支持を受けていらっしゃったわねぇ。けれど違います。別の方よ」


「……では、その……スコット公爵様……?」


 アシュレイ様のお父様であるスコット公爵様も母の二つ年上だった。お母様であるルシエンタ様はお母様と同い年で、あの様子だと当時から親しくていらっしゃったのだろう。


「スコット公爵様はルシエンタ様からよくお話は伺っていましたよ。理想の殿方を見つけましたと頰を薔薇色に染めるルシエンタ様はそれはもうお綺麗で、女のわたくしですらうっとりとしたものです。公爵様は見た目は少し冷たい印象ですけどよくにこやかな笑顔を浮かべていらっしゃって、ルシエンタ様のお側にいたわたくしにもなにかと気にかけてくださっていましたよ。でも違うわねぇ。わたくしがお慕いしていたのは別の方」


 母の二つ上となると上位貴族だけではさほど多くはない。他に誰をあげようとも母は首を振った。


「……もしや、男爵家や子爵家、傍系のお家の殿方ですか?」


 それなら二つ上では答えが絞られない。このままではお相手は有耶無耶になってしまうが、それで良いのかもしれない。今の母は父を愛してくださっているのだから。


 そう一人で納得したとき、母が大きな声で笑い始めた。


「お、お母様……?」


「ああ、もうおかしいったら! もうお一人いらっしゃるでしょうに。二つ年が上で、わたくしよりも身分の高い、女生徒達の敬慕を集める素敵な殿方が」


「……いらっしゃいます……?」


 伯爵家の母よりも身分が高いという二つ年上の方はすでに皆様候補に上げた後だ。もうお一人と言われても……。


「……この子ったらと娘に呆れるか、殿方のほうに呆れるか、悩むところだわねぇ……。よぉく考えなさいな。あなたのとっても近くにまだお一人いらっしゃるでしょう。わたくしの二つ年上で、身分の高い殿方が」


 呆れる母の言葉から素敵が抜けている。


 しかしわたくしの近くに、もうお一人……?




 ……………………………………。




 ………………………………っ!!




「まさか……お…………お父様ですか!!?」


 思い当たった残るお一人に淑女にあるまじき大声が裏返るほど驚いたわたくしに、母はもう貴婦人であることをお忘れなのかお腹を抱えて大口を開けて笑った。


「そんなに驚くことですか」


「だ、だって、あのお父様が……っ」


 女生徒達の敬慕を集める素敵な殿方、というのが結びつかなかった。とはさすがに口にできない。


「あなたのお父様は昔はとてもお痩せになっていて、堂々たるお姿に黒いハリのある御髪で黒豹のような御方だと女生徒達の間では評判でしたのよ。婚約者もおられないからとスコット公爵様と共に誰をお相手に選ばれるのかが女生徒達の間で一番の話題でした」


「黒豹……」


 黒しか合っていない……。


「あの、ではお母様は、お父様との結婚を……喜んでいらっしゃった……?」


「いいえ。まったく」


 ほんのわずかな期待を込めた問いかけにも、母は笑顔ながらもきっぱりと答えた。


「あまりにも恐れ多い縁組でしょう。わたくしは直系ではありましたし王女殿下とも親しくしていただいておりましたが、もとより当時のエドワーズ卿とスコット卿は王女殿下の夫の座を争っておられるというのがわたくし達の間での話題でもありました。言葉は悪いけれど、負けてしまったエドワーズ卿の婚約者になぜわたくしが選ばれたのかもまた大変な話題となってねぇ。身の縮む思いでしたよ。まだ二つ年上のお姉様方がそっくり残っていらっしゃいましたから」


 学園では少々肩身の狭い思いをなさったのだと母は仰った。


「その上、わたくしの生家は王都からは遠く離れたところにあるでしょう? 自然に囲まれた屋敷でのびのび育ったわたくしに、王都での華やかな生活ができるのかしらと不安に思っておりましたのに旦那様は常に苛立ってろくに話も出来なくて……夫婦となってからもそんな日々が続いて、とうとうふらっと倒れてしまったのよ」


 言葉の出ないわたくしに、母は優しく微笑んで、暗くなりつつある窓の外から見える屋敷の庭へと目を向けた。


「心労だと言われたわたくしに旦那様は郊外の屋敷へ移るよう言ってくださって。追い出されたのだわと思いました。娘を生んだわたくしが王都に残る必要がなくなったのだなと。──けれど、ここに着いた時に思ったのよ。もしも旦那様がわたくしのことを考えてここを選んでくださったのなら、あの方を信じて待とうと。この自然がたくさんある屋敷で、旦那様がわたくしを見てくださる日が来るまで、のんびり待っていようとね」


 母からの視線を受けて、目を窓の外へと向ける。

 橙色に染まる庭は、屋敷のどこの部屋の窓からでも美しく見えるよう計算された作りになっている。丁寧に整えられて緑は瑞々しくこの季節に咲く色とりどりの花々は美しく、屋敷の顔ともいうべき庭を鮮やかに彩っていた。


「……お母様は、お父様を……愛していらっしゃる……?」


「ええ。心から。……十年ぶりに見たお姿はとても黒豹ではなくなっていたけれどね」


 口元に手を当てて、ウィンクと共に声をわざとらしく声を潜めた母は、とても悪戯めいた幸せそうな笑顔を浮かべていた。




 もうここまでで良いから休みなさいと母に言われて調理場を後にした。


「扉にダリアの意匠が飾られた部屋を使ってちょうだいな。明日の朝食も手伝ってね」


 これには喜んでと答えたが、夕食での体たらくを見るに、朝食もろくに手伝えそうにない……ああ、いえ。お茶を出すくらいはできるかしらね。




 情けない思いで廊下を進み、ダリアの部屋を見つけて。ふと、アシュレイ様はどこのお部屋かしらと思った。


 ……いえいえ、決してこんな時間に部屋を訪れるつもりはないけれど。


 廊下の窓から見える空は群青を通り越した闇ともいえる黒で塗りつぶされていて、とても令嬢が殿方を訪れて良い時間ではない。たとえ、婚約者といえど……。


 婚約者。婚約者。あの、アシュレイ様が……わたくしの。


 無意識に唇に指で触れ、羞恥から体が熱くなった。


 駄目よ。婚約しただけの間柄でしていい行為ではない。次は式が済んでからよ。


 次……?


 思いもよらぬ自らの本心を振り払って、扉を開ける。早くお湯をいただいて、今日は寝てしまいましょう。そして母と朝食を作って……って起き抜けのアシュレイ様と朝食を共にするのは、初めてではないの!? 学園では朝食と夕食は寮で取るのが決まりだった。だからアシュレイ様とは身支度の済んだ昼食しかご一緒したことがなく……どうしましょう、何を着ていけば……。


「………………」

「………………」



 なんということでしょう。思い悩むあまり……アシュレイ様の幻覚が見える。


 扉をそっと閉めた。


 その扉を睨む。……よし、ダリアの意匠はちゃんとある。あのアシュレイ様は幻に違いない。


 再度扉を開く。


 なんということでしょう。先ほどよりアシュレイ様が近くに見える。


 お風呂に入ったあとなのだろう、首にタオルが掛けられた髪からは雫が垂れ、ふわりと石鹸の香りが漂う。


 いつもの笑みのないお顔は開かれた扉へと向き、「ダリア……で、合ってるよね……」と呟いた。


 のちに、この時のわたくしの口から出た怒号は父にそっくりだったと母は笑った。



「お母様!!!」


「公爵夫人! お、お嬢様と部屋は別にしていただきたく……!」


「エレオノーラ!! エレシアとアシュレイ殿の部屋は階を分けろと言っておいただろう!!」


 どこからか聞きつけた父も飛び出してきて母を三人で攻め立てたが、どうみても母の一人勝ちだった。


 結局部屋は父の言いつけ通りダリアの部屋から屋敷の一番遠い部屋へと通されて、そこへ通じる階段で父が不寝番をしていたらしい。


 翌朝、目の下にクマを作った父にアシュレイ様はとても複雑なお顔をなさっていたが──それを見た母がまた笑った。

ありがとうございました。

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