46 もう一つの攻防戦の決着③
温かく穏やかになった心が、地に叩きつけられたようだった。
父と暮らしていない母が妊娠したということはそれは──父以外の方と、不倫をしたということに他ならない。
こみ上げる吐き気に、口元を手で押さえる。
しかし震える足では立っていることもできずに、膝からガクンとくずおれた。
慌ててアシュレイ様が支えて下さるも体が衝立に当たり、倒れて大きな音を立ててしまった。
「誰かおるのか!? ……エレシア!? どうしてお前がここに……っどうしたのだ、青い顔をして!! 具合でも悪いのか!?」
腰を上げた父は混乱しながらもこちらに駆け寄ってくる。
しかしこちらを一点に見つめていた目は、わたくしを支える男性へと向けられて険しくなった。
「誰だ、貴様は!! ……お前、スコットの息子か……? それがなんだってわしの娘に無断で触れておる! 離れんか!」
父の手が乱暴に私を引き寄せアシュレイ様を押し除ける。強引に離されたアシュレイ様の姿に感じた恐怖はこれまでの比ではなかった。
「……いやっ! アシュレイ様!!」
父に遮られた隙間から必死に手を伸ばす。それでも届かない。
「離れないでください! そばにいて!!」
「エレシア!? 何を言っておるのだ!!」
父の驚愕も大きな声も、この恐怖には勝てない。アシュレイ様の温もりが離れてしまうことに比べれば。
アシュレイ様の体がこちらに一歩近付き、それと同時に父を押し除けてその胸に飛び込んだ。
「っアシュレイ様……お母様が……お母様が……っ」
「……ごめん、エレシア。やっぱり連れてくるべきじゃなかったね。泣かせてしまった……ごめんね……」
泣きじゃくるわたくしの体を強く抱きしめて、アシュレイ様は何度も謝って下さった。
「……公爵夫人。どうしてわざわざエレシアに聞かせるような真似をなさったのですか」
耳元で聞こえたアシュレイ様の声には押し殺された怒りが込められていた。
しかしそれとは対照的に母の声にはこれ以上ないほどの困惑があった。
「そんな。わたくしはただ、エレシアが喜ぶかしらと思ったのだけど……」
心配そうにしながらも、とぼけた表情を返す母に激しく苛立った。
この人はまさか、これで父をやり込めたとでも思っていらっしゃるのか。
母に裏切られたなどと知られては、父は社交界の笑い者にされてしまうというのに。屋敷を追い出された母への同情は計り知れないが、それでもいくらなんでもこのような仕返しをなさるなんて!
「母が浮気したと知って喜ぶ娘がどこにおりますか!」
しかし、さらに母に詰め寄ろうとするわたくしの隣で「浮気!?」という裏返った悲鳴が上がった。視線を向ければ父は大きな顔を赤やら黒やらに染め、わなわなと震える唇を奥まで見えるほど大きく開いて、怒鳴った。
「──っ馬鹿を申すな! 妻が妊娠したというのなら、わしの子に決まっとろうが!!」
それはまさに青天の霹靂だった。この時わたくしは、人生で初めて父に言葉を返したのだ。
「こっ……子は閨を共にしなければできませんわお父様!!」
「分かっとるわ! ……未婚の娘が何を口にしておる!?」
「……エレシア。エレシア、落ち着いて。それ後で絶対に恥ずかしくなるよ」
父とわたくしの間に入ってきたアシュレイ様に宥められ、初めて自分の発言を自覚し、全身が沸騰したように熱くなった。
「もしかして……旦那様ったら内緒になさっていたのですか?」
このやりとりを黙ってみていた母は、父へは呆れを隠さずに、真っ赤になったわたくしには困ったように微笑んだ。
「実はね、エレシア。旦那様はエレシアが王立学園に入学してからはずっとこちらで過ごしていらっしゃったのよ。あちらの畑も共に耕して下さって……ぶっ」
「何を笑っとるか!! わしは公爵家の家長だぞ。娘にそのようなことを言えるわけがあるか!」
「いえいえ笑ったのはそれではなく……聞いてちょうだいな、お二人とも。この人ったら畑にミミズが出てきた途端、悲鳴を上げて飛び上がって……ふふっ。それ以来うちでは旦那様に叱られたら仕返しにミミズを投げつけてやろうって話していますのよ! ああ、おかしいったら!」
「そんな話をしておるのか!? 一体誰がそのようなことを言った!!」
「全員です。旦那様。屋敷の使用人全員ですわ。まぁ、では主人への無礼な発言がありましたからと全員解雇なさいます? それであなた様は生活できるのかしら。食事の用意もままならずに服を着ることさえお一人では出来ませんのに。わたくしは自分の食事は自ら整えられますし、服も脱ぎ着しやすいものをいくつか用意していますから問題ありませんわよ。お気遣いなく」
笑顔の母からの口撃に、父は言葉を詰まらせる。しかしすぐに大きなため息を吐き出した。
「……身重の妻がいる屋敷の使用人を馘にするわけがなかろうが」
「ありがとうございます。ちなみにミミズも土を作ってくださるという点では立派な我が家の使用人と言えなくもないのですけれど──」
「その名は二度とわしの前で口にするな……!」
貴婦人らしからぬ大口を開けて笑う母を父が睨む。それでもお二人の雰囲気は和やかで親しげで、とても十年に渡って別居している夫婦の姿には見えなかった。
「お父様とお母様は……不仲でいらっしゃると思っておりました」
思わず呟けば、母はにんまりとした笑みに、父は気まずそうなお顔になった。
「仲は良いとは言えませんでしょうね。なにせこの人ったら、エレシアが屋敷を出て寮に入ってからやっとわたくしのことを思い出したくらいですから」
「それは……」
母はわたくしが六歳の時に家を出られた。王立学園の入学は十六歳だから、つまり父は、十年間もの間、追い出した母に会いに行かなかったことになる。
父を非難する思いを抱いてしまうことも致し方のないことだった。
それでも父は、わたくしや、恐らくは同じ思いだろうアシュレイ様の視線を受け止めても、声を荒げたりはなさらなかった。
「エレシアが王都を出てからは、屋敷はまるで火が消えたように活気がなくなってな……その時にふと、あれはどうしておるだろうかと……そうだな。まさに『思い出した』。もちろん妻のことを忘れたわけではなかったが……」
「興味がなかった、ということですわね」
「……そのようなことは……」
「もう。言い訳はやめてくださいませ。気にしてませんったら。わたくしはここで楽しく過ごしていましたでしょう? そうそう。畑を見た時のエレシアの台詞。あそこでは屋敷の窓から丸見えではないかと言われたときは、旦那様とまったく同じで可笑しいったら! その時にね、誰が妻に畑仕事などさせたのかと使用人達に怒鳴るものだから、皆んなが教えてくれましたと答えたの。そうしたらこの方。全員解雇するから屋敷から出て行けと叫んだのよ。あんまりだから、本当に全員に暇を出してやったの。もちろん嘘のね。──呆れるのはまだ早くてよ。そのあと屋敷に入ってからしばらくしてこの方、なんて仰ったと思う? 『おい、誰かおらぬか』ですって! あんなにお腹を抱えて笑ったのは人生で初めてでしたよ!」
今も目尻に涙を滲ませて笑う母の横で、父は顔を真っ赤にして拳を握りしめるも母を睨む以上のことはなさらなかった。
「……人の労働というものは当たり前のようにそこにあると思ってはいけないのだと、あの時にわしはやっと知ったのだ。……なんとも恥ずかしいことだがな。対価を払っている以上こちらが指示を出す側であることに変わりはないが、あちらにも、主人を選ぶ権があるのだと思い知った。……他ならぬお前の母のお陰でな」
そこまで言って、父は真剣な眼差しをそのままにわたくしとアシュレイ様に向き直った。
「次はわしから聞かせてもらう。──エレシア。未婚の娘がなぜ父であるわしに無断で屋敷を出ておる。それも男と共におるなど、ふしだらだなどと噂でもされたらどうするつもりだ。未婚の身に傷をつけることになるのだぞ」
父から叱られるのは当然初めてではない。初めてではないが……これほど落ち着いて父の言葉が耳にすんなりと入り、心に染みたことがあっただろうか。
自然と頭が下がった。
「申し訳ございません。お父様」
父の目はアシュレイ様へも向いた。
「なぜスコットの息子が──アシュレイ殿だったな。どうしてそのアシュレイ殿が娘と共に妻の屋敷へ参られた。妻に婚姻の許しでももらいに来たか。……わしが許さぬから妻に許しをもらい、それを提げてわしの元から娘を奪い去るつもりだったか」
「お父様、アシュレイ様は……っ」
「仰る通りです、閣下。どうしてもお嬢様を妻に貰い受けたく、このような手段を取りました」
アシュレイ様は微笑みかけながらわたくしの体を優しく離して、父に深く頭を下げた。
「私にはお嬢様以上の方はおりません。どうか婚姻をお許しください。お願いいたします」
父は一瞬も待たずに言葉を返した。
「ならん」
「お父様!」
「旦那様。スコット公爵様が王女殿下を射止められたからと言って、いつまでも根に持つのは大人げのうございますよ」
「そのような昔のことはどうでも良いわ。今のわしが愛しておるのはお前だ」
「まぁ……ではどうして認めて差し上げないのです。アシュレイ様はとても立派な殿方ではないですか」
「立派なものか! あの男の息子が、あの冷酷で醜悪な卑劣漢の息子が真っ当なはずがないわ!!」
ついに声を荒げた父のこの言葉には、アシュレイ様も顔色を変えた。
「……取り消してください。父に対するそのような暴言は見過ごせません」
「取り消すものか。真実を言って何が悪い」
「ならばこちらも正式に抗議します、エドワーズ公爵閣下。父は立派で私にとっても人生の模範ともなる方だ。いくら愛するエレシアの父君とて、父への侮辱は許せるものではありません」
父とアシュレイ様の間に見えない火花が散り、口を挟むことができない。それでも、二人がこのまま仲違いをしてしまったらと思うだけでとても恐ろしくて、どうしてもそれだけは避けねばならないとの思いが体を突き動かした。
父の言葉はすべてこちらに非があるのだと、アシュレイ様を宥めようとしたところで、再びノックの音が静まり返る室内に響いた。
入ってきた使用人は室内の様子を知っているのか知らないのか、淡々と「お客様がお見えです」と告げた。
「まぁ……もうそんな時間なのね。こちらにお通しして──」
「それには及びませんよ。エレオノーラ嬢、いやエドワーズ公爵夫人とお呼びするべきだね」
部屋に入ってこられたのは立派な身なりの年配のご夫婦だった。
当然どちらもお会いしたことがある方々で、自然と背筋が伸びる。
女性は穏やかな微笑みを母へと向けたのちにわたくしにも向けて、美しい鳶色の瞳を少女のように輝かせた。
そして男性は可笑しそうに口元をひくつかせながら、父ににんまりと笑って言ったのだ。
「やぁ。冷酷で醜悪な卑劣漢です」
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