2、サリオ 15歳 初夏
「サリオ殿下、授業が始まりますよ」
中庭の樹の下で寝転がっていたら、ジェフリー・クレイヴンが声を掛けてきた。
ジェフリーは、このディアム貴族学園に入学する前に陛下より引き合わせられた所謂”学友”の一人だ。
宰相の息子で頭がいい。勉強ができるだけじゃなくて要領がいいという意味でも頭がいいんだと思う。僕とは一番遠いところにいるタイプだ。教師のおぼえもよくて、いつ見ても女の子の一団に囲まれている。
「お前だってここにいるじゃないか」
「私は、授業で使う映写機の調子が悪かったので、教師にいわれて新しい部品を受け取ってきただけです」
手にしている箱をを翳して見せる。教師のご機嫌取りか。おべっか使いめ。
「ふん、優等生か」
わざとらしく寝返りを打って、顔を逸らした。
こんな天気のいい日に授業なんて受けたくない。僕には授業なんて意味を持たない。無駄でしかない。
「殿下は、授業に集中できないようですね。何か問題でも?」
…本当のことを伝えたら、いつだって余裕をもった態度をとるこの学友はどういう反応をするのだろう。
それは、誰かに理解されることを諦めかけていた僕の、ちょっとした悪戯心だった。困らせてやれと思っていたのかもしれないし、もしかしたら正解を知っているのではという願いも入っていたのかもしれない。
最初に家庭教師に否定されて以来、誰にも相談したことのない秘密がするっと口からこぼれていった。
「…教科書をずっと見ていると、文字とか記号が、伸びたり縮んだりするんだ」
はっとジェフリーが息をのむ気配がする。
「だから…いま自分がどこを読んでいるのか、すぐに判らなくなる。次の行どころか、次の文字がどこになるのかも、判んなくなるんだ」
幼い頃についた家庭教師には真面目にやりたくない言い訳だろうと怒られた。
王子なんだから心を入れ替えてちゃんと勉強しなければと言われても、嘘を言っているわけではない。文章どころか単語ひとつ読み取るのに異様に時間がかかるのに、どうしたらいいのか教えてくれる教師は誰もいなかった。
「叔父は文字が踊るんだといってましたね。サリオ殿下は”妖精のいとし子”でしたか」
妖精のいとし子──それは生まれた時に妖精に悪戯を仕掛けられたといわれる子供たち。
妖精に愛された分だけ人との付き合いが苦手になり、芸術に長けるといわれている。優れた戯曲を作った偉大な作曲家や、大神殿の天井画を描いた有名な画家がそうだったというのは有名である。
しかし、文字を読み取るのが難しくなるという弊害については知っているものは少ない。
「妖精の、いとし子…?」
そこからですか、と笑らわれたのは悔しかったが、それ以上に知りたいという思いが上回った。
「殿下、実は絵とか音楽とか、なにか芸術系のご趣味はありませんか?」
叔父は彫刻でしたとジェフリーは笑いながら言った。母の実家は、叔父の造った彫刻や粘土造形でいっぱいだという。王都のみならず隣国にも収集家の多い芸術家の一人なのだそうだ。
「…見せないからな」
ばっと両手の爪を確認して、そこに微妙な色を確認して慌てて後ろに隠す。
ジェフリーにしたら語るに落ちるもいいところだ。
「そうですか、絵画ですか。今度見せてくださいね」
「見せないっていってるだろ」
「では説明も勉強のお手伝いもいらないということですね」
ぐっとつまる。妖精のいとし子という言葉自体は時間さえ掛ければ図書室などで調べることもできるかもしれない。(ものすごい時間がかかることは間違いないが)
しかし、勉強の手伝い、つまり文字が伸びたり縮んだりすることへの対処方法それを知っていて、さらに手を貸してくれる人を探すのはきっとそう簡単にはいかない。
だって、王宮の家庭教師たちが誰も知らなかったんだから。
「僕にも、本を読めるようになるのか」
「読めるようにはならないですね」
「っ。僕を馬鹿にしてるのか」
「早とちりは殿下の悪い癖ですね。本を読めるようにはならなくても、本の内容を、殿下が理解するお手伝いならできるかと」
教科書も参考書も、子供向けの冒険譚も、絵本ですら文字が多くなると何が書いてあるのか全く分からなかった。
その苦痛を、屈辱を晴らすことができるのかもしれない。
僕ははゆっくりと顔をあげて、「よろしく頼む」そう頭を下げた。
ドヤ顔をしたジェフリーにちょっと不安になりながら、その日一緒に帰る約束をした。
「これは…、まさに楽園ですね」
明るい色調のそれは、青い空の下で花に埋もれるようにして遊ぶ二人の幼子──あの日の記憶そのものだった。
「もういいだろ。描きかけなんだよ」
「描き上げたものは、こちらですか?」言うが早いかジェフリーが部屋の片隅に押し込めてあった過去の作品を引っぱり出した。
「やめろよ。失敗作なんだよ」
「…同じ構図ですね」
「…失敗作だからな」
「全部同じ構図なんですね」
「……失敗作だからな」
もう同じ構図のものを何枚描いただろう。しかし、何枚描き上げたと思っても、描き終わったと思った途端、僕には物足りないものに見えるのだ。表現しきれていない、もっと先に見える”それ”へと手を伸ばしたい、近づきたいと思ってしまうのだ。
「殿下に、描き上げたい光景があるのは判りました。
そこで一つ提案があります。
とりあえず違う構図、できれば違うものをモデルにして描いてみませんか」
「描きたいと思うのは、この絵だけだから」
瞼の裏に焼き付くように残るそれは、僕の理想郷だった。
そこの住人になることはできないけれど、自分で描いたそこならば、それは僕だけのものだ。
「殿下には描きたいものがある。しかし、残念ながら今の殿下ではそれを表現しきれない様子。ならば、表現できるようになるまで試行錯誤する、練習を重ねることが先です」
直球でいうなら技術不足なのだろう。
「模写もいいと思います。横に並んで描くのもいいですが、もし絵が踊りだしたら真似するのもお辛いでしょう。ですから殿下が観て、感じて、こうだった気がするという絵を描くのです」
すべてを同じに描く必要はない。しかし、表現する手法、それを表現するための技術はたくさん知っていていい。
「そんなこと、考えたこともなかった」
それは自分になかった考え方だった。先人たちの知恵と試行錯誤の結果、技術を借り受ける。そうして一つずつ自分のものとしていけば、いつかあそこにたどり着く方法を見つけられるだろうか。
「ジェフリー、僕はいつか、あの理想郷を自分のものにすることができるだろうか」
「殿下の努力次第でしょう」
努力、嫌いなんだけどなと呟くと頭をどつかれた。
「おい」
「そうでした。授業をする前にひとつ受け入れて頂きたい事があります」
「なんだ」
どかりと隣の席に腰を下ろして、ジェフリーが言った。
「授業中はサリオって呼ぶから。で、ため口でやるよ」
ナ、ナンダッテー。というか既にため口じゃないか。
「講師として教える立場に立つんだから当然だろ。へりくだってて授業なんかできないだろ」
誰にもされたことない対等扱いに頭がくらくらした。でもなぜかそれほど嫌だとは思わなかった。
「で、本なんだがサリオが読んでみたいものはあるか」
すっと差し出したのは、この国の歴史の本だ。ごく一般的というか初歩的とされるもので幼い頃に家庭教師に「王子として最低限これくらいは諳んじることができなくては」と言われて何度も挑戦しては挫折したいわくつきの本だ。
「1Pも…、読み終われないんだ」
視線が落ちる。本当は3行目すら読めたことはない。2行目は上から数えて判別できるけど、3行目はもう文字が揺れまくって次の文字がどこにあるのか判別することはできなくなる。
「なるほど。ちゃんと王子しようとしてるんだな」
偉い偉いと頭をぐりぐりされた。なにするんだこいつ。
「じゃあ、そこに座って俺の美声を聞いていろ。寝るなよ」
ジェフリーは、その本を最初からゆっくり読み上げ始めた。時に解説や余談を交えながら。
一章分を読み上げたジェフリーが「どう?」と聞いてきた。
「どう、と聞かれても」
「早すぎるとか、遅すぎるとかないか? あと内容として、歴史の流れの繋がりで納得できなかったことはないか。あったらちゃんとそういうんだぞ」
早さはちょうどいい。流れは…うーん、正直はじめてちゃんと知った気がすることばかりだった。
始祖ガゼイン賢王が王朝を闢いたことまでは知っていたけど、その前にあった神聖国が戦乱により5つに割れての独立とか初めて知った。
確かにこれはこの国の王子として知っていて当然の知識だと言われても仕方がない。
自分の不甲斐なさと無知さに身悶えそうになったのをぐっと我慢する。それでも、勝手に顔は赤くなっていく。みっともないな、と思う。
ぼふん、と頭に手が乗せられた。そのままぐりぐりされる。
「な? 本が読めなくても、本の内容を知ることはできるだろ」
知識を持つことはいいことだよ。自分の中に武器を持てる── 言い切る顔はやっぱりドヤ顔で。
本当にむかつくんだけど、知ってて当然だと言われることを知らないということは弱点でしかないから、ジェフリーがいってることは間違ってないのだろう。
「今日は最後までこんな感じで読んでいくから、不思議に思ったこととか知りたいことがあったらなんでも訊いてくれて構わない。大丈夫か?」
こくりと頷いた。
「じゃあ、次の章にいくぞ」
ジェフリーの声が、続きを読み始めた。
夜、ベッドに寝転んで今日起こったことを思い返す。
これまで生きてきた15年分のそれがすべてひっくり返った気がした。
”妖精のいとし子”は、いまだ隣国同士戦争もあるこの世界において、芸術という清涼な風を吹き込み、民にゆとりと笑顔を取り戻す力を持つとされているのだという。
王族に生まれたことは記録の上にはないが、開花する才能にはかなり種類も幅があるため、名を残すほどではなかったと推測される。
その才が特筆するものというほどではなかったとしても、妖精そのものが愛の象徴とされるこの国で、そのいとし子と呼ばれる存在は特別なものなのだそうだ。
自分が、そんな偉大な存在だとは思えなかったけど。
一歩一歩でも前へ進む。進むことができる。それが嬉しい。
なにより、
『本が読めなくても、本の内容を知ることはできるだろ』
ジェフリーの声が頭の中でリフレインする。
本の内容を知るうえで、文字を読まなければならないということはない── そんなこと、考えたこともなかった。
勉強を見てもらうにしても、幼い頃に終わらせておいて当然なことからすべてだ。
同い年の友人の余暇を使って一から教えてもらうのには限度がある。
それでも。学生のうちに学習の方法があると知ることができたことは僕にとってとても幸運なことだった。
きっとここから、僕の世界は変わる。
窓の外で、夏の到来を感じさせる虫の声が聴こえていた。