1、サリオ 9歳
初恋は実らないというが、僕くらい秒速で失恋した男も少ないだろう。
その日ははじめて王宮の外にいく許可が出た。
僕は小さな時から反抗的な子供で、王族として満足な教育がなされていないとして王宮内からでることも、他の貴族たちと交流を持つことも許可がでなかったから、馬車でどこかに出るのは恥ずかしながら初めてのことだった。
ちょっと興奮するものもあったけど、その目的が婚約者探しとかなにそれ面倒嫌すぎるって思って出掛けたくないと駄々を捏ねまくったから、出発時間は大幅に遅れた。
初めて乗った馬車は滅茶苦茶揺れて、文句を言おうとするだけで舌を噛みそうになるし、窓は小さくて高いところにあるので座っていると空しか見えないしで、僕はどんどん不機嫌になった。
でも、今日最初の目的地だという貴族の屋敷に着いて馬車を下りた途端、僕はその世界の広さに吃驚した。
王都と全然ちがう。
屋敷自体は別に王宮より小さいし、狭い。でも空の広さはけた違いだった。
見渡せば、周りには山と森と丘と…きらめいてみえるのは川面だろうか。
伯爵家当主との挨拶もそこそこに、僕は初めてみた外の景色に気を取られまくりで、令嬢とやらとの挨拶よりそっちに行ってみたくて仕方がなかった。
それなのに。目当ての本人がいないのだという。なんだそれと思ったけど、どうやら僕が城を出るのが遅くなったのが原因で到着が遅れているうちに部屋を抜け出してしまったとかなんとか。
王族が会いに来ると判ってて遊びに行くとはなんて失礼な奴だ。不敬罪で捕まえていいんじゃなかろうか。
目当ての令嬢がいると思われると案内された丘への道は、僕にとって大冒険だった。
咲いている花も大輪じゃない。名前があるのかも判らない小さな花がほとんどだ。
太陽は眩しいし、風に草木の湿った匂いが混じる。
王宮から見上げる空は高く積み上げられた壁や塀でちいさく切り取られていたけど、ここの空はずっと向こうの山の、その更に向こうからやってきて、見果てぬ先のその奥まで、ずーっと続いているのだ。
すごい。すごいすごい。
馬車でたった2時間ほどしか離れていないとは思えなかった。まるで別世界だ。
野原で転げまわるように遊ぶ2人の影が遠くに見えた。
風にのって届く声は本当に愉し気で、行く前は、なんで僕が歩いて行かなくちゃいけないんだそっちから会いに来いよって思ってたけど、早くもっと近くにいきたくなって懸命に足を動かした。
ひとりが両手に摘んだ花を天に放り投げ、二人の頭の上に花びらが舞い落ち歓声が上がった。
青空を背景に、色とりどりの花びらと、金と銀の髪が楽しそうに揺れる。
「…綺麗だ」
その時の僕はこの世に生まれて10年にも満たなかったけれど、それでも、この世で一番綺麗なものを見つけた、この時、本気でそう思ったのだった。そして今もそう思ってる。
そうしてこの時に感じたもの以上の胸が熱くなる感情を、まだ僕は他にみつけていない。
「あちらにいらっしゃるのが、殿下の婚約者候補のお嬢様ですよ。
双月の妖精と称されるのも判りますね。
10年…いえ、あと5、6年もすれば輝くような美女と謳われることでしょう」
示された先にいた金色の髪の、輝くような少女の笑顔を見た途端、僕は恋に落ちたのだ。
そうして。二人の目の前までようやく着いた時、婚約者候補は銀の髪の少女の方で、しかも金の髪は少年だって紹介されて、僕の初めての恋は儚く散った。
めちゃくちゃ落ち込んだ。落ち込みすぎてその後どうしたのかまったく覚えていなかった。
だから、僕には判らなかったのだ。
僕の婚約者候補だと呼ばれた少女と、その隣にいた少年が、どんな表情をしていたのか。
そしてなにより、『綺麗だ』と、ただ呟いただけ。単純な、子供が感じた心をそのままに口にしたことで、その楽園を荒らしてしまうことになるなんて。
回りまわって、サリオが女の子に一目ぼれをしたと王妃にたどり着くなんて。
全然、判らなかったのだ。
日々、サリオの頭の中を占めるのは、あの理想郷の光景で、それが婚約者探しの最中のことであったことすらすっかり忘れた頃だった。陛下から、会見室へと呼び出された。
それまで入ったことのないその部屋の扉を緊張して開けた先には、一週間ぶりに顔を合わせた父と3日ぶりである母の他に、見覚えがあるようなないような気がする夫婦らしき男女と一人の女の子が待っていた。
もしかして、妖精の片割れの子? そう思いついたところに、爆弾が投下された。
「サリオ、お前の婚約者が決まった。フィーリア・デイマック伯爵令嬢だ。仲良くするように」
陛下が言い渡したその言葉は、僕の世界を叩き壊した。
無理無理無理無理。あの世界に僕が割り込むなんてこの世への冒涜だ。そう思った。それなのに
「サリオ・デ・ガゼイン殿下、不束な身でございますが精一杯その務めを果たせるよう頑張ります。よろしくお願いいたしますわ」
幼いながらも綺麗なカーテシーを取りつつ、丸暗記してきましたというのが丸わかりの口調で目の前の美しい少女が告げる。
不本意そうだ。でも、それはサリオの方だって同じだ。
「父さま、僕は嫌です」
「陛下だ、サリオ。そしてお前に拒否をする権利はない」
父さ…陛下が硬い声で答えた。ということは僕にはもうどうすることもできないってことだ。
「へ…いか。申し訳ありませんでした」
父さまは、僕の謝罪が気に入らなかったのか長いため息を吐いた。涙がでそうになる。
「サリオの教育係にはもう少し厳しくしてもらう必要がありそうだな。
デイマック伯爵令嬢、愚息が失礼した。これから仲良くしていってほしい」
その言葉に、僕は床を見つめるしかできなかった。
僕を抜かした人達で会話が進む。
いつの間に中庭に出されたのだろう。僕は冷たい表情のままでいる少女と二人きりで中庭にある薔薇園を歩いていた。
セイレーン、アマダ、イヴピアッチェ、レディオブシャーロット、アブラハムダービー。
夏でも大輪の花が咲き誇っていた。
「見事ですね。初夏の薔薇なのにこんなに大きく咲くなんて。本当に綺麗ですわ」
あの春の丘に咲いていたのはもっとずっと小さな花々だったけど、僕にはそっちの方が見事で綺麗だった。
あの花たちよりずっと高価で貴重で手入れもきちんとされている王宮の薔薇。でもあの日の光景を忘れられないでいる僕には、綺麗といわれても素直に頷けなかった。
「ふん。本当は自分の方がもっと綺麗だって思ってそうだな」
さっとフィーリアの表情が硬くなった。
ん? なにか表現がおかしかった気がする。でも王子である僕が謝るなんてできない。
「いえ、そのようなことは全く思いつきもしませんでした」
不満を押し隠して頭を下げるフィーリアの態度に更にいらついた。
「もういい。部屋に戻る」
自分が理不尽な態度をとっているのは判っていたけど、あの日の記憶を穢している気がしてこの場にいるのが辛くなってきた。
フィーリアが声を掛けるのを放置して、僕は、薔薇の香り噎せ返る庭から逃げ出した。