イラン(ペルシャ)略史:イスラム革命まで
〇メディア王国 (紀元前9世紀半ば~前550。都エクバタナ)
ゾロアスター教が始まり(前7世紀頃)、興隆する。新バビロニアと連合し、アッシリアを滅ぼす(前612)。
〇アケメネス朝ペルシャ (紀元前550~330。都スサ)
ペルシャ人による王朝。新バビロニア(前538)、エジプト(前525)を征服し、オリエントを統一。アテネを中心とするギリシャとの間でペルシャ戦争(前500~449、ペルシャ敗北)。次いで東方遠征を行ったアレクサンドロスに敗北し、ペルシャ帝国滅亡)
〇セレウコス朝シリア(前3世紀半ば~)
アレクサンドロスの死後、その帝国が将軍の間で分割された。ヘレニズム時代。
〇パルティア王国(C前248~後226)
ローマと対立した。ギリシャ風文化が興隆。
〇ササン朝ペルシャ(後224~651。都クテシフォン)
パルテイアを滅ぼす。ゾロアスター教が国教に。ササン朝美術(奈良にも)。ローマ、その後ビザンツ帝国との抗争激化。イスラム勢力に滅ぼされる。
(330年 ムハンマド、メッカを占領し、アラビア半島を統一。661年 第4代カリフ・アリー暗殺 ⇒ シーア派の誕生)
〇正当カリフ時代を経て、ウマイヤ朝時代(661~750。都ダマスカス)に。
ペルシャはアラブ帝国の支配下に。イスラム教への改宗。アラビア文字の採用等。
〇アッバース朝時代(750~。都バグダッド)
751年、タラス河の戦い(中国製紙法の伝播)で唐を破り、中央アジアの支配者に。ハルン・アッラシード時代(786~809)はイスラム文化最盛期、被支配民だったペルシャ人の立場も改善された。10世紀中頃、分裂傾向に。
〇サーマーン朝(875~999。都ブハラ)
アラブの征服後「沈黙の2世紀」を経てペルシャ語の文学作品の執筆が再開された。イブン・シーナー(哲学者・医者))、フェルドウシー(叙事詩人)等が活躍。
(この頃からモンゴル高原に居住していたトルコ系の諸民族が西方に移動し、支配地域を中央アジアに広げて行った)
〇セルジューク朝時代(1055年~。都バグダッド)
トルコ系のイスラム王朝。アフガニスタンのガズナ朝を破ってシリアに至る広大な地域に支配を広げた。
(トルコ系諸民族に続き、侵攻してきたのがモンゴル))
〇イル・ハン国時代(1258~1353。都タブリーズ)
モンゴルの軍勢が1258年にバグダッドを包囲しアッバース朝を征服。モンゴルのイスラム化。
(なお1299~1922、トルコではオスマン帝国が支配)
〇ティムール帝国時代(1370~。都サマルカンド)
ティムールがモンゴル帝国の再興を目指したもの。
〇サファヴィー朝(1501~1736。都タブリーズ⇒イスファハン)
シーア派を国教化。アッバース1世時代(1587~1629)に最盛期。計画都市、庭園、ドーム屋根のモスク建築など。「古代ペルシャ帝国の復活、イラン系アーリア人の復権」と見做された。
1722年、侵入してきたアフガン人により実質的に滅ぼされ、戦国時代に突入した。
[その後ペルシャでは、アフシャール朝(1736~96)、ザンド朝(1751~94。都テヘラン)]
[インドでは、イスラム系のムガール帝国(1526~1858)がペルシャ文化を取り入れたが、その後、英国が支配する様になり、ビクトリア女王をインド皇帝とし(1877年)植民地とした。英国はインドの安全保障の観点から、南下を図るロシアを食い止める要衝としてペルシャを重視し、プレゼンスを確保すべく積極的に進出した]
〇ガージャール朝(1796~1925年。都テヘラン)
欧州の列強の植民地主義の時代と重なり、特に英国とロシアの進出を許した。
英国は1809~1890年にかけて徐々にペルシャにおける権益を延ばした。1812年の条約では、ペルシャとして欧州諸国が自国を通過してインドに至る許可を与えない義務、1841年に英国の最恵国待遇等。1907年にペルシャにおける勢力圏を南北に分割する英露協商を結んだ。
ロシアとの間で1804~1813年、1826~1828の2次にわたり戦争が起こり、ペルシャの敗北により、カスピ海東方を含む北部諸地域をロシアが支配。
そこで1905年に日露戦争で日本がロシアに勝利すると、これを日本の議会制と立憲国家の勝利とペルシャ人は受けとめ、1905年12月にガージャール朝の専制に対する立憲革命が始まった。この結果、1906年に初めて国民議会が召集されたが、1911年にロシア軍の直接介入により議会は立憲政府により解散され、立憲革命は終焉を迎えた。
この間、1908年にマスジェド・ソレイマーンで油田が発見され、ペルシャは60年の期限付きで採掘・利用権を一人の英国人に供与し、英国政府がこれを獲得。32年過ぎた段階で時のシャーがこれを破棄した。
1914年から第1次大戦が始まったが、既に英ロに分割占領されていたペルシャに対し、オスマン帝国が侵攻してタブリーズを攻略。1917年にロシア革命が起こると、ロシアは反植民地主義を打ち出してペルシャ国内の権益を放棄し、ロシア軍を撤退させた。危機感を抱いた英国は、1919年にペルシャとの間に協定を締結し、これを保護国とした。これに激怒したペルシャの国民は急進的に革命を求める様になり、1921年にレザー・ハーンがクーデターを起こし、その後、英国、ソ連とも軍を撤退させた。
〇パーレビ朝(1925~1979年。都テヘラン)
英国から独立回復。レザー・ハーン、王位に。トルコのアタチュルクを手本に近代化改革を進めた。1933年、南部の石油利権を60年の期限で英国に付与。1935年、国名をイランに改称した。
1939年に第2次世界大戦が勃発すると、中立を維持しようとしたが、枢軸国の進出を懸念する英国とソ連が軍を進駐させ、国土を分割した。1943年には連合国の首脳がテヘラン会談を開催。
1951年に首相に就任したモサデクは、英国系のアングロ・イラニアン石油会社に独占されていた石油の国有化を図ったが、英米両国の介入により1953年に失脚し、失敗に終わった。
この後、モハンマド・レザー・パーレビ(1941から皇帝)は自らに権力を集中させ、「白色革命」として米英の強い支持を受けながら産業等、国の近代化を進めたが、独裁色を強め、これが1979年のイスラム革命に繋がった。