六話 絵糸
長かった夏休みが終わり、二学期が始まろうとしている。
他の区の小中学校では夏休みが早めに終わるところもあるらしいが、うちの小学校は例年八月三十一日だ。
二学期は一番長い学期だから、その分行事なども多い。運動会に、学習発表会にとその他にも色んな行事がある。
かく言う俺も、実はこの二大行事は楽しみにしている。それほど暑くない時期にやる運動会、色々な人の感性を見ることが出来る学習発表会。どちらも非常に興味深い。
絵糸と名のつくだけあって、俺は絵に関わることがどうやら好きらしい。今年の学習発表会は学芸会らしくて残念だ。音楽などの芸術的なものが少ししか味わえない。いや俺は小道具係をやればいいのか? いや、それとも……。
そこまで考えたところで、俺の頭に憎々しい然闇の笑顔が蘇った。
何が「彼女のこと、もう、何とも思ってない?」だよ。知らんぷりも良いところだ。
塾の唯一の楽しみが、あんなぶりっ子に消されるなんて。
夕月さんがどんなに俺の心で拠り所であってくれたか、あいつは知る由もないんだ。いや、知られなくたって、別にいいんだけどな。夕月さんの魅力は俺だけが知っていればいいし。
あいつが俺のことを好きだろうが好きじゃなかろうが別にどうだっていいけれど、俺の好きな人を陥れるなんて人間のクズのすることだ。あぁ、すっげぇムカつく。死ね、死ねばいいのに。
いっそのこと、殺してやりたい……。
「片桐は何に出るの?」
目の前からそんな言葉を発されて、思わず「わっ」と小さく驚きを表明した。
急に思考が現実に引き戻される。見慣れた教室の見慣れた景色。色んな奴らが好き勝手にぺちゃくちゃ喋っている。
「そんなに驚かなくてもいいのに。運動会の話してたんだよ」
目の前にいるのはクラスのおふざけ代表、西条陸。俺に話しかけてくれるなんて、陽気パワー、恐るべし。
「あぁ、そうだったっけ……えっと、運動会の何の話だっけか」
「バッカ、そんなことも忘れたのか。片桐って頭良いけど、ちょっとヌケてるところあるよな」
分かったかのように言わないでほしい。
「いや、俺ヌケてるとかは思わないけどな、別に」
「またまたぁ。……ま、そんなことはどうだっていいんだけどさ。ほら、俺ら、同じ白組だろ? 運動会実行委員として、ここは一つ、同じ組が出る競技は把握しておかないとなと思って」
ドヤ顔を見せつける西条。そうだ、こいつは運動会実行委員なんだ。
足が滅茶苦茶速いとか何とか、そういう理由で推薦で運動会実行委員になった彼は、何と実行委員長も務めているらしい。それだけに張り切っているのだ。
いいな、足速いからって、皆から信頼されて。きっと、悩み事なんて一つもないんだろうな。
そう思うと西条にも何かムカついて、つい口走ってしまった。
「同じ組が出る競技って……。一年から六年までいるのに、どうやって把握するんだよ」
「あ、そっか。……それもそうだな片桐」
俺の嫌味に気付いているのかいないのか、さらりと爽やかにかわしやがった。
「んじゃあ、六年の奴に聞いて回るわ。……ってことで、片桐の出る競技は?」
「……ハードル走」
元々あんまり運動が得意じゃない俺は、運動会自体は好きだが競技は嫌いだった。出る競技を決める際には、俺の出番なしに割り振られてしまっていた。
「ハードルかぁ。意外とキツイよな。隣のクラスにさ、ハードル速い奴いるんだよ。赤組で。絶対そいつに負けるなよ」
「はは、冗談抜かせよ」
そうやって馬鹿らしく笑う彼は、足が速いので勿論競技の花形、百メートル走に出場することになっている。彼はどうやら十三秒を切っているらしく、噂では私立の中学にスポーツ推薦と言う話も上がっている。
私立中学に受験なしでスポーツ推薦なんて、俺ら凡人にとってみれば夢のような話だ。
「西条も百メートルだよな。頑張ってくれよ?」
「おう、任せてくれよ。ぶっちぎりの一位になって、校内記録更新してやるよ」
頼もしい笑みを浮かべて、西条は親指を立てた。
そこで俺はふと、以前疑問に思ったことを聞いてみる。
「なぁ、西条」
「ん?」
一瞬躊躇って、
「桜坂さんのこと、どう思ってるんだ?」
そう、尋ねた。
しばしの沈黙。
「……いや、別に、何とも思って……ないんだけどさ……」
ぎこちないまでに固まった西条。嘘つけ。この前散々桜坂さんのことを憧れだ何だと抜かしていたくせに。
しかし、あからさまに顔を赤くさせた彼をいじるのは何だか申し訳なくなって、「そっか」と頷いて「ところでさ」とまた話を脱線させた。
「何でお前そんなに速いんだ? 何か、特別なことやってるのか?」
なるべく無難な話に逸らすようにした。すると西条はいつもの調子に戻って、
「特に何もしてないよ」
と答えてくれた。
「何もしてないのに、あんな速いのか」
「俺本当はバレーとかしたいからさ。もし中学でバレーとかあったら入りたいなって思って」
へぇ。意外だ。てっきり陸上部とかに進むのかと思っていたもので。
「何か、私立のスポーツ推薦受けるとか言われてるけど」
「うーん。確かに言われてるけど、正直スポーツ推薦で合格しても、俺、多分陸上部には行かないと思うな」
へぇ、というより、まぁ西条だからそうなんだろうなとは思った。よくバレーをやっている姿を見かけるからだ。速く走れるからって、陸上に興味があるわけではないのだろう。
「でも、もし学校側の希望する部活に進んでくれなかったら、スポーツ推薦なんて受けられないんじゃないか?」
「いや、そもそも俺、そこまで受験したいわけじゃないんだよ。中学で友達とも離れちゃうし」
確かにな。そう思ったけれども、大した友達もいない俺にはイマイチ理解し難い感情だった。
「でも、自分の可能性を広げるためなら、したいけどな」
その西条の呟きに、ハッとする。
そうだ、中学受験なんて、嫌いな奴らと離れられるからなんていう不純な理由でするもんじゃない。
自分の進む道や将来を広げるため、自分の夢を叶える為にとる選択なんだ。
じゃあ、俺のしたいこと、叶えたい夢って何だ?
「なら片桐、俺も聞きたいことがある」
西条は俺に向き直って、ピッと人差し指を立てた。
「何?」
正直考えに浸らせてほしかったのだが、天才スプリンターに言われてしまったのじゃ、仕方がない。
「何であんな絵が上手いの?」
そう言って西条がその指のまま指差したのは、教室の後ろ。
振り向くとそこには、夏休みに皆が図工の宿題で描いてきた、「夢の場所」という絵が飾られていた。
「あれ、片桐のだけめっちゃ目立ってたし。……何か裏技とか使ってんじゃねって話題になってた。知り合いに画家がいるんじゃないかとかって」
「あんなの、全然上手くないだろ。それに……知り合いに画家なんていないし」
一瞬、本当の親の顔が浮かんできたが、すぐにそれをシャットアウトする。
「えぇ、またまたご謙遜を。俺からしてみたらそっちの方が羨ましいぜ。体育は頑張ってる姿見せりゃあどうにかなるけど、図工とかはどう足掻いたってあんな上手く描けねぇし」
西条は笑いながら俺の肩をぺしと叩く。地味に痛かった。
俺からしてみたら、西条の方が羨ましい。あんなに体育で活躍できる彼を羨ましがらない人間なんているのだろうか。
「そんなことないって。俺、本当に上手くないから」
「まったまたぁ」
「本当に上手くないんだって。あんなの、努力すればいくらでもいけるし」
「たっまたまぁ」
「それは駄目。そのイントネーションは駄目」
俺がツッコむと、「西条ー、運動会のことでちょっとー」と先生の呼び声が聞こえた。
「おっと……。んじゃ、またな片桐」
「おぅ」
立ちあがって先生の方へ向かうと、あっという間に西条をまとう空気は真剣な物になった。
すげぇよな、あいつ。絵が上手いとかどうこうより、周りの空気に溶け込むことの方が、社会で成功する上ではよっぽど重要だと思うけど。
しかし。
中学受験をする理由、今までは自分の嫌いな人と離れたいがためという滅茶苦茶不純な理由だったけど、それじゃ駄目か。
いや、間違いなく駄目だよな。よく考えれば面接の時に志望理由を聞かれたときに「嫌いな人と離れたかったからです」なんて口が裂けても言えないもんな。
自分の可能性を広げるためなら中学受験してもいいと、西条は言った。その西条の返答は間違いではないし、むしろ世間的に見れば間違いなく模範回答だろう。
俺は受験を諦めるべきか。いや、然闇に言ってしまった手前、そう簡単には戻せない。俺が受験を取り止めて地元の中学に進むと聞いたら、さらっと地元の中学行きそうだし。
出来れば然闇と離れたいけれど、それを表立って言ってあぁそうですかと納得してくれるほど然闇は物分かりが良い人間ではない。前から何となく分かっていたけれど、夕月さんの件で確信せざるを得なくなった。
その観点から言っても、やっぱり受験をやめるべきではないのか。
うーん。非常に難しいところだ。
そこまで来て、先ほど、西条が言っていた言葉を思い出す。
「でも、自分の可能性を広げるためなら、したいけどな」
あれが、受験をすることの本質的な意味なんじゃないか? だって高校も、本来なら学歴とかの為じゃなく、自分が学びたいから受験する、本来はそう言う意味だ。
自分の可能性を広げるため。
それが、受験する意味。
「ありがと、西条」
真剣な顔をしている西条を横目に、呟いた。
◆◇
家に帰ると、早速スマホで私立中学を検索した。最近お下がりでもらったものだから、いわゆるCMとかでやっている超高性能な機能とかはない。それでも普段使いには充分だ。
俺のお目当ては勿論、美術部だ。
あれから色々考えて、俺が今頑張るとしたら何か、というものの答えを導き出した。いや、一番は勉強なのだが、中学に入ってからすることとしたらということだ。
俺はどうやら、絵が得意らしい。
然闇や他の男子に俺の得意なことを聞きまわっても、「絵糸は絵が上手いから」「頭が良い」ぐらいの返答しか返ってこなかった。もうちょっとバリエーションに富んだ返答を期待していたが、まぁしょうがない。
あぁでも、然闇は違ったか。
「絵糸君の得意なこと? いつも笑顔にさせてくれるし、勉強とか得意だし、とってもカッコいいよ? あ、絵も上手いし、服もお洒落だし、それにそれにぃ……」
俺の素敵なところを探しまくって好感度を上げようという作戦らしい。そんなことしたって、夕月さんを陥れた時点でもう好感度なんて上がりはしないのに。
しかし、然闇は論外として、恥ずかしいながらも俺の得意なところ、長所を聞いたところじゃ「絵が上手い」と「勉強が出来る」の二強のようだ。
バリエーションに富んだ返答を期待していたと言っても、そこまで絶賛されるとちょっと歯痒い思いだ。
思い出してまたちょっとニヤニヤして、スマホをタップする。
美術部が強い中学校を探しているつもりだが、それはどこも遠い場所。しかも私立じゃなくて公立が多い。公立はその都道府県内に住んでいる人しか受験出来ないはずだから、今後引っ越す予定のない俺には到底無理な話だ。
「この近くにねぇかなぁ……」
そこまで来て、ある一文が目にとまった。
「藤咲中学校、美術部と文芸部が全国中学校総合文化祭に出場」
「ん?」
俺が一応目指している学校だ。好奇心でそのまま開いてみる。
『全国中学校総合文化祭に、都立トップ校である藤咲中学校の美術部と文芸部が出場した。美術部は十年連続出場、文芸部は五年連続出場している。
なお、藤咲高校の美術部と文芸部も全国高校総合文化祭に出場予定である』
簡素な文体で書かれた文章だったけど、何故だか一際輝いて見えた。
藤咲中学の美術部……結構強いんだな。もし、俺が藤咲中学校の生徒になったら、どうなるんだろう。
制服に身を包んだ俺が、真っ白なキャンバスに向かって筆を走らせている。
そんな姿を想像すると、ますます藤咲に行きたいという気持ちが強くなってくる。
確かに藤咲は、必死に努力して粘らなければ合格は難しい学校だ。いやもしかしたら努力して粘っても合格は出来ないかもしれない。
「やろっかな……」
倒れこんでいたベッドから立ち上がって、スマホを閉じる。
「よし」
机に座り、参考書を開いた。
◆◇
家のコピー機のインクが切れた。
問題集を印刷して勉強しようと思ったらこれだ。全くもってツイてない。
「絵糸、コピー機のインク買ってきてくれない? おばさん今、忙しくて」
昼食のオムライスを作っている母親が叫ぶ。
「分かったー」
コピー機のインクが切れたことで集中力も切れた俺は、気分転換も兼ねてそのお願を承知した。
「あと何か買ってきてほしいものとかある?」
「ううん、特にないけどー……あっ、コンビニ寄るんだったら、この前新しく発売されたコーヒー買ってきてほしいな」
「了解」
ドアを開けると、もう夏も終わりだというのに熱気が押し寄せてきた。マジかよ、勘弁してほしい。
「まだまだあっちぃな……」
自転車をガレージから出しながら、そう言えば然闇はどうしているだろうと隣の家を見やる。
見ると然闇は、庭に出て花の世話をしているようだった。散水ホースを持ちながら、花壇に水を撒き散らしている。
見付かるとまた長話を食らう羽目になりそうだ。そもそも俺が然闇とあんまり話をしたくない。気付かれないように自転車をこいだ。
ってかあいつ、花壇の世話なんてして、受験勉強大丈夫なのか。
◆◇
「いらっしゃいませー」
近所のホームセンターに入ると、冷気が体を包んだ。もう汗がだらだら垂れてくるような猛暑日ではないが、やっぱり冷房が効いていると涼しくなるし、体も軽くなる。
さて、そんな下らないことを言ってないで、インク、インク……。
「おじさん、だぁれ?」
棚の向こうから、小さな女の子の声がした。はて、向こうで何か起きたのだろうか。
「おじさんだなんて失礼な。……お兄さんって呼んでくれなきゃ」
「だって、髭も生えてるし……」
噴き出しそうになって、慌てて口を押さえる。この女の子、ナイスな返しだな。
「ひ、髭はどうだっていいでしょう……。それより、さっきお母さんが呼んでたよ」
頭の中で、とある考えが一瞬光った。
ひょっとして、こいつ……。
棚の向こう側へ向かう。
するとやはり、先ほど「おじさん」と呼ばれた男性が、女の子の右手を掴んでいた。ポロシャツにチノパン。至って普通の格好をしているこの「おじさん」が、普通じゃないような気がしてしょうがない。
「お母さんがマイのこと呼んでたの?」
「そうだよ、今から行こうか」
「うん。あのね、お母さんにね、このシール買ってもらうの」
そう言って女の子は、掴まれていない方の左手のシールを「おじさん」に向けて見せた。
「へ、へぇ、そうなんだ……」
「おじさん」の笑顔が、一瞬悲痛そうな表情を浮かべた。
躊躇わず俺はスマホを取り出した。無音シャッターにして「おじさん」が女の子の右手を掴んでいる姿を撮影する。
「あ、見て見ておじさん。あの人、マイ達のこと撮ってるよ」
弾かれたように「おじさん」が振り返る。サングラスをかけていて、髭の生え方はもう、無精髭どころの話ではなかった。もじゃもじゃだ。
「え、お前、何で……」
俺のことを知っている人間だろうか? いや、こんなもじゃもじゃ髭の奴、印象が強烈過ぎて忘れることなど出来ないだろう。
いったん「おじさん」のことは置いておいて、俺は女の子と目線を合わせた。
「ねぇ君。お母さんを呼びたいなら、こんな奴に聞くより、店員さんに聞いた方がずっといいよ」
この広いホームセンターで大人の力を借りずに親を探すなんて、至難の技だ。
しかもこいつ、きっと……。
「あぁ、マイ!」
髪を一つ結びにした女性が、ホームセンターの幅の狭い通路を一目散に駆けてくる。
「どこに行ってたのよ、心配したのよ!」
「あ、お母さん、この人達がね、探そうって言ってくれたの! ……あ、見て見てこのシール! 可愛いでしょ!?」
「おバカーーーーーっ!」
母親の怒声で、周囲の人達が振り返る。マイという女の子が涙目になったその時。
「おじさん」がくるっと踵を返した。
半ば反射的に俺はそいつの足をふんづける。
「ぐぎゃっ!」
男の悲鳴が背後で轟く。
これで確信した。
「あぁ、本当にもう、何て言ったらいいのか! 本当に本当に、ごめんなさい、ありがとうございました!」
母親らしき人が、マイちゃんの後頭部に手を当て、「ほら、マイも!」と謝罪を促した。
マイちゃんはよく分からない様子で、「何で助けてくれた人に謝ってるの?」と疑問を投げかけた。それが更に母親を怒らせたらしく、「いいからぁっ!」とマイちゃんの頭を無理矢理下げた。
「いいですよ、俺らも暇だったんですし。それじゃあ……」
そそくさと立ち去る俺。そのノリのまま一度ホームセンターを後にする。
しっかりと、誘拐犯の腕を掴みながら。




