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五話 絵糸

 夕月さんがいない塾なんて、行く意味がない。


 夕月さんが来なくなって一週間が経った。

 毎日欠かさず来ていた夕月さんがいなくなったことは、俺にとって相当なショックだった。

 佐々木先生の授業も耳に入らないし、何事にも身が乗らない。


「……片桐君? どうしたの?」

 佐々木先生が怪訝そうに尋ねてくる。ここ最近、ずっと上の空なんだから、そりゃあそうだろう。

「……何でもないです。そんなことより、先生」

 耐えきれなくなって、俺は聞いてみることにした。

「何だい?」

「何で、夕月さん、塾に来ないんですか?」

 佐々木先生は、一瞬顔を曇らせて、言った。



「夕月さんなら、塾、やめたよ」



 視界が、真っ暗になった。

「な、何で……」

「僕も何でかは分からないんだけどね、親御さんから聞いた話だと、耐えきれなくなったって……」

 言われたことが信じられなくて、頭の中で反響する。

 耐えきれなくなった……って、どういうことだ?

 もしかして、文房具を隠された事件に関係しているのか? いや、それしか、考えられないか。そういえば、塾に最後に来たあの日、様子が変だったし……。


「片桐君、何か知ってることって、ある?」


 佐々木先生が、失意に塗れた俺の顔を覗き込む。

 その視線から目を逸らし、俺は呟いた。


「別に、何も……」


 ◆◇


 塾からのプリントを持ち帰って、家に帰る。

 その道すがら、然闇と並んで自転車をこぎながら、考える。


 耐えきれなくなった、夕月さんが塾を辞めた原因は、恐らく文房具を隠された事件が理由であることに間違いはないだろう。それ以外に夕月さんが特別悩んでいる様子もなかったし、女子同士のいざこざは彼女には無関係な話だろう。

 でも、どうにも納得がいかない。何故夕月さんは文房具を隠される必要があったのか? 夕月さんのことを恨む人は特にいないはずだ。彼女はピアノが特段に上手く、噂では都内のコンクールでかなり良い成績を修めたらしいが、それを恨む人はこんな地味な嫌がらせをしないだろう。そもそも夕月さんの出場したコンクールは並大抵の実力の人では出場出来ない大会らしいから、そんなに努力ができる人間はこんな風に他人を陥れたりはしないだろう。

 より一層夕月さんが文房具を隠される理由が分からなくなってきた。ピアノが上手いからと言う妬みでもない、女子同士のいざこざでもない。だとしたら一体、誰が何のために……。


「もう、絵糸君?」


 横から尖った声が飛んでくる。

「え、あ、あぁ……」

 然闇が頬を膨らませている。

「ちょっと、どしたのさっきから。上の空で何考えてるか分かんないし」

 今日は珍しく髪の毛を下ろしている然闇が、信号前でブレーキを踏んだ。

 っと、危ない危ない。

 考え事をしていて、危うく赤信号で飛び出しそうになってしまった。

「うぉ、然闇、サンキュ」

 感謝を述べると、何故か然闇は顔を赤くする。

「え、どした?」

 今度は俺が尋ねる番になった。然闇は髪を耳にかけながら、照れくさそうに囁いた。


「絵糸君にありがとうって言ってもらえたの、久しぶりだったし、それに……」


 目の前を、トラックが通過する。

 激しい轟音と共に、然闇の声はかき消される。

「え……何だって?」

 トラックが通り過ぎた後に、然闇はとびっきりの笑顔でこちらを向いて、

「何でもないよ」

 と呟いた。

「帰ろっ」

 最近では珍しくテンションの高い然闇。

 ちょっと不気味に思えてきて、俺は小さく頷いた。


 ◆◇


 夏休みがもうそろそろ、終わろうとしている。

 八月の終盤戦は、俺にとって一番キツい時期だ。

 何故なら、然闇が毎回、宿題を教わろうと俺の家に来るから。

 八月の終盤は、多くの小学生が、いやもしかしたら中高生ぐらいの年代も泣く泣く宿題をやる羽目になるであろう時期だ。然闇も例外ではない。

 しかし今年は、然闇の面倒も見れない。


 何故なら、受験を持ちかけられたから。


 夕月さんがいなくなって、意気消沈していた俺の下に、佐々木先生はとある連絡を入れてきた。

「私立の中学を受験しないか」と。

 聞けば、毎年この塾は多くの名門中学の合格者を輩出しているという。俺はそんな物に全く興味がないから、スルーしていた。

 けれど佐々木先生は、俺の成績が良いことを狙ったらしい。君が受験をすれば、更に未知の世界が開けるはずだ、と。


 前までは俺もそんなに乗り気じゃなかった。名門の私立に行って切磋琢磨し合うぐらいなら、地元の中学に行ってのんびり気ままに暮らした方が、学費も浮くし、それに楽だ。

 しかし母親が、そうはいかせてくれなかった。「おばさん達、絵糸を幸せにしたいのよ」と強い口調で言ってくれたその瞳に、何も言い返すことはできなかったのだ。けれども学費の問題もあるし、それに今から受験して間に合うのかと言う考えもあった。それに俺の幸せを願うと言ったって、のんびり暮らす方が、俺にとって平和なんだけど。


 しかし、頭の片隅でこう思っていた。

 もし、受験したら、お嬢様な夕月さんと、また会えるんじゃないかって。


 そう思うと、何だか受験に対するイメージも上書きされていった。

 確かに、私立受験も魅力的かもしれない。それに。


 もしかしたら、俺に勝手に告白してきて、勝手に悪者扱いしたあいつらとも離れられるのかもしれない。

 あんな馬鹿みたいな奴らと離れることになると思うと、やる気が沸いてきた。


 まだ確信はしていなかったが、この時期から頑張って追いつく中学をリストアップしておいた。

 自分の部屋の机の引き出しを開いて、リストアップした中学の名前を眺める。


 世界でも有数の名門私立校である聖ハスカ中学、は論外だ。偏差値は八十強、倍率も滅茶苦茶高い。しかも学費も高い。エスカレーターで大学まで行くとなれば数千万の出費は覚悟しておいた方が良いだろう。ぐらいの学費の高さだ。この学習塾でも毎年何人か聖ハスカに進学しているらしいが、その人達は全員低学年から頑張って来た家柄の良い人達ばっかり。その中で頑張れる気はしない。

 次に都立でトップクラスに頭が良い藤咲中学。制服もお洒落なことで有名だが、ここも難易度は高い。有名私立大学の付属校並みだ。そこに行けるか? 否、行けない。

 あとは上位中学や普通の中学だけど、いやまずそもそも俺は間に合うのだろうか。


 今もそれなりに頑張ってはいるが、もう少し頑張らなきゃなと思う。

 あともう一つ、何か後を押すような出来事があれば……。


「絵糸くーん!」


 ぴんぽんぴんぽんぴんぽーん!


 信じられないぐらいの大音量と、信じられないぐらいの連打音が耳を劈く。

「うるっっっっっっっさ!」

 こんな風に連打してぶりっ子声を出す常識外れの女子は、然闇しかいない。

「今行くから!」

 誰に聞こえるわけでもないのに、そう叫んで駆け降りていく。


 玄関を開けると、そこにいたのはやはり然闇だった。

「そんなに連打しなくても大丈夫だから……。何、どうしたの?」

「聞いて聞いて、絵糸君!」

 ぴょんぴょん飛び跳ねている然闇の髪の毛が、夏の風に揺れている。

「はいはい、何?」


「ウチね、中学受験するの!」


 は? 今何て?

「中学受験、するの? ……然闇」

「うん、するよ! って言っても、ウチ、あんまり頭良くないからさ。そこまで上の学校じゃないけど……」


 その声に、体中の緊張が、一気にほぐされていくのが分かる。

 ……俺、聖ハスカに行こうかな……。

「ちなみに、どこの中学?」

「うーんとね、小海学園(おうみがくえん)っていう都市部の方にある学校で……」

 そこなら聞いたことがある。確か、有名な学校じゃなかったか。

「……って、結構頭良いじゃねぇか」

「うん。だけど、制服もお洒落だし、施設も綺麗だし……」

 私立なんだから、そりゃ施設も綺麗だと思うけどな。


「それに、都会の学校に通うって、格好良くない!?」


 あぁ、そこか。いつもそうだよな。

 自分が可愛く見えるようにしか努力しないもんな、然闇は。

「そこ行くんだ。頑張れよ」

「……だからね、絵糸君!」

 ギュッと、俺の手を握ってくる。


「一緒に勉強しよ!」


 は?

 何でそうなんの? 俺、中学受験すること、然闇に言ったっけ……?


「絵糸君も受験するんでしょ!? おばさんから聞いたよ!」

 一瞬で疑問が解決された。ってか、何でもかんでも話さないでくれよ……。

「どこ行くの? ねぇねぇ、どこ行くの?」

 鬱陶しい。全てが鬱陶しい。ここを切り抜けるにはどうしたらいいか。


 そうだ。

 あえて、難関校を言ったら、一緒に勉強なんてそんなぬるいことしなくて済むんじゃないか?


「藤咲中学校……だな」

「えぇ!? 絵糸君、藤咲受けるの!?」

 心底びっくりしたような然闇の声が、住宅街中に響き渡った。


「ああ、あんまり大きな声出すなって」

「すごい、すごいよ絵糸君! めっちゃすごいよ! あんな名門校受けるなんて! さっすが絵糸君!」

 道行く人が振り返ることをものともせずに、然闇は飛び跳ねて叫びまくる。

「あぁ、やめろって!」

 然闇の口を塞いで、振り返る人に頭を下げる。


 顔を赤くした様子の然闇を見て、慌てて手を引っぺがす。

「ごめんな、デカイ声で言われるから、つい……」

「う、ううん、大丈夫だよ。こっちこそデリカシーなく騒いじゃって、ごめんね?」

 俺が口を塞いで酸素が回らなくなったのだろうか、次第に顔が真っ赤になっていく然闇を見ていると不安になって、

「ちょっと待ってろ」

 と家のドアを開けた。

 そして、少し考えて然闇の方を向いた。

「……家、寄ってくか?」

 然闇は俺に焦点を合わせず、けれども確かにこくりと頷いた。


「大丈夫か? 熱中症になったのかと思って……」

「別に、平気だよ……」

 然闇のおでこに保冷剤を当てて、麦茶の入ったグラスを渡す。

「お前がいっつも飲んでる紅茶とかじゃないけど、夏は麦茶が一番良いし」

「一番良いのはスポドリじゃない?」

 酔っ払ったかのような赤ら顔で、クスッと笑う然闇。

「そんなこと言う余裕があるなら、さっさと帰れよ」

「そんな言い方……ないじゃん」

 軽い口調で言ったつもりなのに、然闇の顔は段々曇っていった。

「あ……いや、そんなつもりじゃねぇんだよ。俺んち、クーラーとかあんまつけないし。……然闇の家の方が、熱中症とかにならなくて安心だし」

 必死に言い訳をするが、その実、本当に早く帰ってほしかった。

 嫌な奴らと離れたいとか、もしかしたら好きな人と一緒の学校になるかもしれないとかいう、不純な理由だけど、それでも受験は頑張りたいのだ。


「それにお前、俺と同じように受験するんだろ? ……何てったっけ、小海学園? あそこ難しいし、今から勉強して間に合うかどうかあやふやだし。今の時期熱中症になって勉強疎かにしたら、受かるもんも受からないだろ」

 俺の言葉をまともに聞いているのかいないのか、然闇は麦茶のグラスを持ったまま頷くだけだ。

「聞いてんのかー」

「……え、あ、聞いてるよ」

 俺に焦点を合わせる然闇。


 何だか違和感を覚えるような、覚えないような。

 けれどもそれは、俺が気にすることじゃないだろう。然闇が熱中症になっても、俺は知ったこっちゃない。


 ただこうやって優しくするだけで、世の中上手く回ってくんだから。


「じゃあ、もう帰って、勉強すれば良いじゃん」

「うん……そうする」

 随分と素直なものだ。頭がぼーっとしていると、こうなるのだろうか。


 麦茶に両手を添えて飲み干して、コップを置いた然闇は、椅子から立ち上がった。

「じゃ」

「最後にさ……」


 俺の言葉を遮って、彼女は言った。

「何?」

「あの子のこと……まだ、気にしてる?」

「あの子……?」

 あの子と言われて思い付く人物を張り巡らす。あの子、なんて然闇から言われる人間なんていたか……?


 いや、いた。


 夕月琴音さん。


「夕月さん……?」

「そうそう、その子のことなんだけどさ」

 然闇の顔からは、もうすっかり赤みは消えている。決してボーっとしているわけじゃないのだろう。

 だから余計に、嫌な予感がした。



「彼女のこと、もう、何とも思ってない?」



 …………。

 思考が停止した。

 何なんだろう、一体どうしたんだろう、然闇は。何故、夕月さんのことを……?


 そこまで思った時、俺の体に稲妻が走った。

 そうか……そういうことか……。


 座っている椅子が、ギリッと変な音を立てる。

「何とも……」

「そっか!」

 然闇の顔を盗み見る。


 ()()()()()()()()()


「何でそんなこと聞くの?」

「いや、何となくだよ。ずっと落ち込んでたから、元気になってほしいなって思って」

 それだけだよ、じゃあね、とキラキラした笑顔で去っていく然闇。


 バタンとドアが閉まる音が聞こえた刹那、そっと呟いた。



「ふざけんな……」



 心のどこかで、そう思っていた。

 けれども、気付くのが怖かったのだ。

 だけど今、無情にもそれが証明されてしまった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()


 恐らく然闇は頭が良いのだろう。授業の初めに盗んで、授業の最後に返して。あたかも実害がないように見せかけた。

 しかし、感情を出さないのが相当辛かったようだ。当たり前のように、笑っていた。

 帰り道のこと。今でもありありと思い出せる。


 俺が夕月さんの相談をしたときに見せた、あの悪魔のような笑み。

 あれを見たときに、気付いていれば良かったんだ。


 夕月さんのシャーペンを盗み、更に塾に来なくなるまで追い込んだのは、紛れもない、然闇だ。


 立ち上がって、机を蹴る。

 ガァンという爆音が聞こえたが、何も壊れていない。

 それを良いことに、何度も何度も蹴りつける。


 許せない。何が嫌だったんだ。

 夕月さんの一体何が嫌だったんだ。

 可愛いところか? いや、然闇は自分の方が可愛いと思っているだろう。

 じゃあピアノが上手いところ? 然闇はピアノを習っていたけれど……あんまり本気じゃなかった気がしなくもないし。


 じゃあ、一体何なんだ、夕月さんを追いつめる理由は……。

 そこまで考えて、フッと頭に推理が浮かんできた。



 ひょっとして然闇は、俺のことが好きなんじゃないか?



 慌ててその考えを消すけれど、しかしその考えはどんどん明瞭になっていく。

 その筋に立っていけば、悔しいけれど全ての言動に説明がつく。


 俺らが幼馴染みだから付き合ってる、とからかわれた際に、まんざらでもない笑みを浮かべていたこと。

 一緒に塾に入ろうと誘ってきたこと。

 俺がちょっとした感謝をしただけなのに、あんなに有り難がったこと。

 夕月さんと仲良くなり始めた時に、変に俺の機嫌を取ろうとしたこと。

 俺が夕月さんと仲良くなったときに、文房具がなくなったこと。

 夕月さんを好きだと認めたとき、夕月さんが塾を去ったこと。


 考えてみれば全部、「然闇は俺のことが好き」ということにすれば全て簡単に解決する話だった。

 然闇は俺のことが好きだから塾に入ろうと誘ってきて、然闇は俺のことが好きだから夕月さんと仲良くなったときに変に機嫌を取って、夕月さんのことを好きになった時に、夕月さんは然闇に辞めさせられた……。

 辞めさせられた、のところは仮定だけれど、恐らくこれで間違いないだろう。


 俺がもっと、早く気付いていれば良かったのか?

 だとしたら、夕月さんは辞めずに、今も、俺のそばにいてくれたのかな……。


 ムカつく。

 然闇、マジでムカつく。

 あんなに性格悪い奴なんて、死んだ方が良い。

 たとえ夕月さんの件がなくたって、然闇の性格の悪さはきっとどこかで露見していただろう。


 誰が好きになるか、あんな奴。


 イライラして、腹が立って、物凄くムカついて。

 つい、口走ってしまった。



「死ねばいいのに……」

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