四話 絵糸
とてもとてもお久しぶりです。多分待ってくれた人はいないと思うけど、いたとしたら、お待たせしました。
最近、塾に行くのが楽しみになってきた。然闇と歩く初夏の遊歩道も、あまり苦痛ではなくなってきた。
「それでね、それを見てたときに、丁度スマホにお母さんから……ねぇ、聞いてる?」
「え……? あぁ、うん」
然闇がにゅっと視界に入ってくる。さっきまで横にいたのに、急に何だよ。話を聞いてなかった俺も悪いけど。
「何か最近、上の空じゃない? 何かあった? 熱でもあるの?」
「え? あぁ、別に……」
「そう? ならいいけど」
いつもなら「別にじゃないでしょ、教えてよー」としつこく迫ってくる然闇なのに、今はどうしてだか諦めが良いというか、何というか。
「……夏が来るからかな」
「夏……? あっ、そうだね。確かに夏って夏バテって言葉もあるし、あんまりシャキッてしてないのかもね、うん」
何だか必死に、俺の同調を誘うような口調で話してくる然闇。
妙な感覚を覚えて、俺は塾への道のりを歩いていた。
◆◇
「絵糸君、こんにちは」
「あ、夕月さん、こんちゃっす」
俺の横に、夕月さんが座る。それだけで、俺の気分は、ほんの少し上がる。
夕月さんがバッグを椅子にかけて、勉強道具と筆箱を机上に置く。かたん、かたんという優しげな音が横で鳴るたびに、何だか柔らかな気持ちになってくる。
ちらっと横目で夕月さんの置いた私物を見やる。至って何の変哲もない、柄の入った筆箱に、俺と同じ算数の教科書、友達が使っているのと同じ、普通のノート。
どこにでもありそうな組み合わせで、どこにでもありそうな普通の勉強道具が、夕月さんが持っているというだけで、どこか輝いているように見えた。
「ねぇ、今日何か用意するものとかあったっけ」
「なかったと思う……」
夕月さんが尋ねてきてくれる。夕月さんの声を聞くたびに、何だか嬉しくなってくる。嬉しいという気持ちを表せず、こんなぶっきらぼうな返事しか出来ない俺が、とてもじゃないが、情けない。
「そっかぁ……。じゃあ、自習用にプリント持ってこようかな」
「なら、俺も行く」
夕月さんが立ち上がると同時に、俺も立ち上がる。夕月さんはちょっとびっくりしたようで、「ありがとう」と笑いかけてくれた。
二人で戸棚の方に向かって、その中にあるキャビネットから問題集を取り出し、コピー機に当てる。機械音が俺達の周りに広がり、無機質な音と共に二枚、プリントが出てくる。
夕月さんがそれを手に取り、「はい」と俺に差し出してくれる。
綺麗な手だな。
ふと、そう思った。
丸く切られた爪に、透き通るような白い肌。思わず触りたくなるような、でも触っちゃいけないような、そんな、美しい手。
その手に持たれたプリント一枚を受け取ることは、ひどく簡単なことだ。だけど、それが出来ない。おいどうした。俺は、そんなに意気地無しだったか。
「絵糸君……?」
ハッとする。急に視界がパッと開け、夕月さんの怪訝そうな表情が、視界に入ってくる。
そこまで考えて俺は、半ば反射的に、夕月さんからプリントを奪い取るような感じで受け取った。
どうした俺、何か制御できない感情にやられちゃってないか。
「なっ、何でもない。そんなことより、戻ろうぜ」
こくこくと、理解しながら、しかし訳が分からないという様子で頷く夕月さん。
目をぐるぐるとまわして、熱を冷ます。一体、どうしたんだ。何が、どうなったっていうんだ。
耳たぶが、何故か妙に熱い。クーラーが効いているはずなのに、どうした、おい。
自分でもよく分からない感情が渦巻いてるなんて、奇妙な話だ。
席に着き、プリントを置き、筆箱を開く。この筆箱も、かなり古いと思う。そろそろ新しいものに買い換えようか。しかし、筆箱の値段とか相場ってどうなってるんだろうか。
そんな下らないことを悶々と考えながらプリントをジッと見つめる。なかなかに難しい問題だった。
「あ」
夕月さんの声が聞こえた。
「……どうした、の?」
俺が尋ねて横を向くと、夕月さんは自分の筆箱を見つめていた。
そしてハッと我に返ったかと思うと、「何でもないよ」とこちらを向いて笑みを浮かべた。
「それより、ほら……プリント、やっちゃおうよ」
「え、でも……」
俺が言いかけた言葉を、夕月さんは「良いからー」と遮る。遮られた以上は俺も何も言えなくて、向き直った。
「……やっぱ何かあるよね?」
一回素直に言葉に従ったものの、やはり気になって夕月さんに問うてしまう。
夕月さんはさっと目を伏せ、そしてほんの数秒悲しげな目をして。
「……そこまで言うなら、聞いてくれる?」
丸く柔らかい瞳をこちらに向けた。
「実は……さっきまであったはずのシャーペンがなくなってて……」
その声を聞いた途端、俺は夕月さんの筆箱を見つめた。
確かに、彼女の筆箱の中から、彼女がよく使っているというシャーペンが消えていた。
「本当だ……確かに、夕月さんのシャーペンはさっきまであった……のに……」
「うん、だよね。私も正直不安でしょうがなくて……。……何でシャーペンがなくなっちゃったのかな」
不安に胸を駆られ、泣きそうになっている夕月さんを見るのが、どうしようもなく切なかった。
そんな顔、しないでほしい。
でも、そんな顔をさせないためには、一体どうしたらいいのか……?
「貸す……」
「え?」
「俺のシャーペン、貸します……よ」
後半は消え入りそうな声だった。我ながら情けない。
自分の情けない声が、夕月さんに聞こえてしまうこと自体も情けない。出来れば言い直したいところだったが、夕月さんの表情がどんどん明るくなるのを見ていると、そうもいかなくなった。
「ほ、本当!?」
「ホン……ト……」
夕月さんは俺の手を取った。女子らしい、柔らかい手の感触が伝わってくる。
「ありがとう……、本当にありがとう! 絵糸君がいなかったらどうなることかと思っちゃったよ……」
ぶんぶん、俺の手を揺らす夕月さん。
どんどん俺の顔に熱が集中する。けれど、夕月さんから視線を外すことなんて出来なかった。
しばらくして、夕月さんは何かに気付いたように、俺から手を放した。
「……ご、ごめんね、私、何やってるんだろ……」
夕月さんも照れたらしく顔を赤くしている、それが何だか新鮮で、俺はちょっと口角を上げながら、筆箱からシャーペンを取り出す。
「いいよ、それより、はい、シャーペン」
シャーペンを差し出すと、夕月さんは宝物でも貰うかのように、両手で優しく包み込んだ。「ありがとう、へへ」とふんわり笑って、彼女は席に着く。
羨ましいな、そのシャーペン。
ふいに、そんなことを思ってしまった。
慌ててその考えを消す。
……え、どうしちゃったんだ、俺。生きてないただの物体を羨ましいと思うだなんて、これは何かの病気か、重症か……?
ぶるぶると首を横に振り、夕月さんの隣の席に着く。
クーラーの冷たい風が遮断されたように、俺の体を熱が蠢いた。
◆◇
それから数日が経ち、夏がやって来た。
あれから夕月さんを取り巻く状況は直らない。むしろシャーペンの他に消しゴムや赤ペンもなくなっていくという、更に悪化していく状況になっていた。そのたびにおろおろする夕月さんを見るのは、正直気が引けた。
「なぁ、然闇」
「ん? 何、絵糸君」
ミンミン、セミが鳴く夏の夕方の遊歩道を然闇と二人で歩く。然闇が自転車を修理に出すと言うので、「絵糸君もお揃いにしようよ!」と無理矢理歩きにさせてきた。何がお揃いだ畜生め。
そんなことを思っても、もう遅い。塾が遠目に見えてきたところで、俺は然闇に尋ねた。
「最近、夕月さんのシャーペンとか消しゴムとかがなくなってるみたいなんだけど……何か知ってるか?」
すると然闇は、一瞬気持ちの悪い笑みを浮かべた。
「え、そうだったの……? 可哀想だねぇ」
すぐにその笑みを消して、心配しているような素振りを見せる。
そこに来て、俺はすぐにとある考えが頭に浮かんだ。
ひょっとして、夕月さんの文房具を隠している犯人って……。
「本当に、何も知らないのか?」
「本当だってばぁ。何でそんなに疑うの?」
彼女の、二つにまとめた髪が揺れる。その姿は、夕焼けとも相まって何故だか儚く見えた。
「……いや。ただ、情報を聞いてただけだよ。夕月さん困ってるし……」
然闇の儚さから目を背け、塾に目を向ける。学習塾の看板がでかでかと飾られているそのビルを見る度に、少し気分が高揚する。
バッグの中に確かにある感触に、思わず笑みがこぼれる。
これから夕月さんに会えると思うと、嬉しくて。
◆◇
「それでこの時、主人公にどんな心境の変化があったか? っていうのが重要なんだよ。たとえばこの描写からなんだけど……」
佐々木先生が国語の解説をしてくれる。佐々木先生の教え方はすごく丁寧で、分かりやすい。
夕月さんも国語は得意なようで、ふむふむと頷きながらノートに書き込んでいる。
俺の、シャーペンで。
それが何だか羨ましくって、そのシャーペンをぼうっと見つめていると。
「片桐君? 聞いてる?」
「え、あっ、はい!」
佐々木先生の声が、頭上から降ってくる。
「全く……大丈夫かい?」
「あ、はい、大丈夫です……」
ちょっと佐々木先生から視線を外すと、そこに夕月さんの顔がある。
それもまた何だか気まずくて、ぱっと視線を外す。
この胸にある気持ちは何なんだろう。どうにもむずがゆい、この気持ちは。
「じゃあ、またね、絵糸君」
「うっす……」
夕月さんが教材を片付けながら、俺に挨拶してきた。
甘い桃の香りが鼻孔をかすめる度に、体が熱くなる。おまけに、夕月さんの顔が見れない。
どうしちゃったんだろう、俺、本当にこんなへっぽこだったっけか。
「本当に、毎日毎日貸してくれてありがとうね」
「え、あ、あぁ、うん……」
声音が柔らかすぎて最早桃の香りが漂いそうなその声に、少々戸惑う。
「ホント、嫌だったらいつでも言っていいから……」
「嫌じゃない」
条件反射で、そう答えてしまう。
「え……」
「嫌じゃないよ、夕月さんだったら……」
そこまで来て、ハッとする。
いや何言ってんだ俺。そういうのはあれだろ、カップルとかがするもんだろ。何変なこと言ってんだよ。俺。
「あー、何でもない、何でもないよ、頼む、今の忘れて」
「え、う、うん」
夕月さんは心底きょとんとした様子で俺のことを見つめた。
何もかも見透かしてしまいそうな瞳に、吸い込まれそうになる。
そこまで来て、脳内に一つの考えが浮かんだ。
もしかして、俺って……。
「絵糸くーん、帰るよ~!」
然闇の高い声が、塾内に響き渡る。
そして俺の淡い思考はストップする。クッソ、然闇の奴……。
「じゃあね、絵糸君」
「え、お、おぅ……」
夕月さんは俺を見て、ニコッと微笑んだ。
何も言えずに、俺は席を立つ。
◆◇
「ねえ、絵糸君、ひょっとしてさ」
然闇は、夏の夜に似合ったくぐもった声で、言った。
「夕月さんのこと、好きなの?」
立ち止まる。
慌てて然闇の方を見た。
然闇は、笑っていた。
興味と好奇が入り混じった、好意的な目。
そこに、汚れなど一つもないように見える。
だけど、そんな然闇の様子とは対照的に、俺の心臓はバクバクと音を立て、飲み物でも引っ繰り返したかのように暴れていた。
「何で……そんなこと聞くの?」
「え、何でって……何となく、そう見えたから?」
そう見えたからって……。何ともアバウトな基準だな。
……でも、まぁ、確かにそうなのかもしれない。
そんな風にアバウトに見ても、俺の好意はダダ漏れだったのかもしれない。
「多分……な」
変に時間が長く感じられる。
生ぬるい風がさぁっと吹き抜け、髪がなびく。
然闇の左右に分けた髪がなびいたと同時に、「へぇ」と感情の抜けたような声が聞こえた。
「そうなんだ……」
然闇のそんな声を聞いたのは、生まれて初めてだった。
◆◇
「こんばんは、絵糸君」
夕月さんだ。こんばんは、と言うにはまだ早い時間帯だが、しかし夕月さんの言葉と思えば何だって許せる。
昨日、やっと夕月さんのことを好きなんだと自覚したばかりだ。
勿論、告白する気はない。ただ、夕月さんの隣で、話せればいい。
そう思っても、やっぱり体は正直で、体中の熱がすぐに顔に集中してきた。
「うっす」
まともに夕月さんの顔を見ることすら出来ない。
そこで、夕月さんから会話を吹っ掛けてくることは終わった。
いけないいけない、俺から話さなければ。
「……何やってるの? プリントを取りに?」
「うん、あ、今日は大丈夫だよ? 筆箱バッグの下に隠しておいたから。見られないよ、絶対!」
細い腰に手を当てて、どやっと胸を張る夕月さん。
お嬢様な彼女の、その荒っぽい動作に、笑わずには居られなかった。
「な、何で笑うの?」
「何でもないよ」
好きな相手にこれでは失礼だろう。笑みを引っ込めた。しかし、先ほどのドヤ顔のギャップにやられて、いや、萌えて、駄目だニヤニヤが止まらない。
「じゃ、自習、やっとく?」
「うん」
俺の呼びかけに、夕月さんは笑って頷いてくれた。その笑顔が何より大切で、そして何よりも好きだ。
ふいに、然闇と目が合った。上手くやってるか、という意をこめて、ひらひらと手を振ろうとしたその時。
然闇は、悪魔のような笑みを浮かべた。
◆◇
夕月さんの筆箱が、またなくなったらしい。
隠しておいてはずなのに、一体どこにいったのだろう。一応俺のを貸したから授業に影響は出なかったけど、いや俺が不便だったけど、にしてもこんなことが毎回続くとなると、そろそろヤバいことになるぞ。
それに、さっきの然闇の悪魔のような笑み。
あれが意味するものは何だ? ひょっとして、夕月さんの筆箱がなくなった事件に関係しているのか?
「片桐君? 聞いてるかい、片桐君?」
「へっ、あ、はい?」
佐々木先生の声が、俺を推理モードから勉強モードへと引き戻してくる。
「最近寝不足なの? 疲れている風に見えるけど……」
「あ、そんなこと、ないですよ……はい」
佐々木先生の質問を、のらりくらりと交わそうとする。あぁ、こんな姿を見られるなんて、格好悪い。
「なら、良いんだけどさ……あれ、もう終わりか、今日の分は」
ぱらぱらとプリントをめくる佐々木先生。それを見てガッツポーズを浮かべる俺。
よっしゃ、今日の授業は終わったから、これでちゃんと考えられる時間が確保出来た。
宿題を配られて、挨拶をした後、椅子から立ち上がる。
夕月さんの方を見たその刹那。
夕月さんの目は、見開かれていた。
「……どうしたの? 夕月さん」
その声にハッとしたかのように、夕月さんはこちらに顔を向ける。
「……ううん、何でもない」
妙に歯切れの良いその口調に、何だか嫌な予感を覚えた。
「じゃあね、絵糸君」
俺と目を合わせようとせずに、速やかにバッグにプリントをしまって立ち去る夕月さん。
「あ、ちょっと……」
どうしたの、と尋ねようとしたけれど、有無を言わさぬ雰囲気だ。
いつもなら受付の人の「ありがとうございました」の声にも絶対に挨拶をする夕月さんが、その声を無視する。
どう見ても違和感しかない。
追いかけることも出来たし、追いかけて、連絡先を聞いて、悩みを聞くことだって出来た、はずだ。
なのに、出来なかった。
何で、なんだろう。
後味の悪さを残して、俺は然闇と一緒に帰路に着いた。
翌日から、夕月さんは来なくなった。
何かラブコメみたいな展開になってしまいました。




