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一話 絵糸

 幼い頃から、隣には、然闇がいた。

 小学校に入るまでは、毎日保育園から一緒に帰っていたらしい。手を繋いで、歌を歌いながら。

 そんな記憶、俺には全くなかった。

 ただ覚えていることは、然闇が小さい頃から明るく可愛らしい少女だったということだ。


 そしていつからだろう。そんな幼馴染みを鬱陶しく感じ始めたのは。


 実際、そんなに珍しい話ではないのかもしれない。小学校五年生ぐらいになると、男女混合で遊ぶことが何故だか急に気恥ずかしくなるなんて話は。そして男女が一緒にいると、勝手に付き合っているだのと決めつけることも、実はそうそう珍しくないのかもしれない。

 だから、幼馴染みである俺と然闇も、付き合ってるだの何だのと、散々言われていた。

 何なんだこいつら、ぶっ飛ばしてやりたい。何度だってそう思った。幼馴染みは幼馴染みだというのに。それ以上の何物でもない。幼馴染みは必ず付き合うなんて、一体誰がそんなの決めたんだ。問い詰めてやりたい。


 幼馴染みが、俺のことを束縛し始めたのも、いつの間にかこの時。


 そして、然闇の目をかいくぐって、俺が、()()()()()に会いに行ったのも、小学校五年生の、冬の話だった。


 ◆◇


 いつかは言わなきゃと思っていたんだけど、中々言いだす機会がなくてね。


 両親からそんな風に切りだされた話は、俺の記憶には全くない話だった。

 俺と両親は血が繋がっているが、直接の両親ではないことを話された。つまりは、本当の親ではないと言うことだ。

 本当の親は、俺を産んだ後に、すぐ親戚の家に預けた。その親戚が、今住んでいる片桐家だったというわけらしい。

 ごめんね、話さなきゃいけないのに、こんなときに話しちゃって。こんなんじゃ、話さない方が良かったよね。

 泣きじゃくる母親が、目の前にいた。その人はもう、本当の母親じゃなかった。親戚の家の子である俺を養ってくれた人だということが、分かってしまって。

 本当は、親戚から預けられた俺を、養ってくれただけなんだと分かってしまって、失礼な話だけど、信頼感さえ、失ったような気がした。


 その日から、俺は何故だか無口になった。周りの人も、もちろん然闇も、俺がいきなり話さなくなったものだから、びっくりしただろうな。絵糸君、どうしたの、なんて、聞き慣れてしまうぐらい聞いた。


 小五の秋の日、俺は義理の母親に一枚の写真を渡された。

 そこに映っていたのは、街中に飾られているクリスマスツリーの前で、仲良さげに佇む若いカップルの姿だった。

 これは何の写真だろうか。そう尋ねようとした瞬間、「これは貴方の本当の両親だよ。絵糸を産む前だから、もう十年以上前のことになっちゃうけどね」と母親に言われて。

 言われてみれば、と俺はもう一度写真をじっくり見る。確かに、男性の方の目元は、切れ長で、鏡で見る俺の目とよく似ていた。女性の方も、薄く細い眉毛が俺にそっくりだ。


 本当の両親。

 父親は素朴っぽい。そして母親は何故だか妙にギャルっぽい。絵糸君は賢いし、頭が良いよね。などと然闇に言われたのをふと思い出す。

 生まれた子供を捨てるような親の子供が、賢いのかよ。今考えたら、そう笑ってしまいそうになる。


 俺がしばらくその写真を見つめていると、急に目の前に何かが差しだされた。チャリン、と音が鳴る。

 至って何の変哲もない、ただのカギ。キーホルダー類などが一切ついていないから、なくしたら探すのが難しそうだ。

「え?」


「これ、合鍵。絵糸についての書類とか、あっちに置きっぱなしの物があったみたいで。メールが来たから」


 何の合鍵か説明されなくても、前後の文脈の繋がりを見て、大体察することができる。恐らく、俺の本当の両親の家の合鍵なのだろう。

 しかし、何で俺なんかに合鍵を見せるんだろう。合鍵を見せたって、はいそうですかで済む話なのに。


 考えて、すぐ合点がいった。

 恐らく、「この際だから」ってことで、俺に行かせようとしたのだろう。何だか申し訳なさそうな表情をしている母親に「その家って、どこにあるの?」と尋ねた。

 義理の母親はみるみる顔を輝かせ、「すぐ近くなんだけどね」とスマホで検索し始めた。

 はぁ、検索するなんて、すぐ近くでも何でもないんじゃないか。俺だって、家から学校周辺のことは、大体分かっているつもりなんだけどな。

 ふてくされていると、母親は「ここよ」とスマホの画面を見せてくれた。


 学校から一キロぐらい離れた、小さなアパート。画質が粗くて、アパートの名前までは読み取れなかったが、ここに俺の本当の両親が住んでいるのだと、すぐ分かった。

「心配だったら、おばさんもついていくけど、大丈夫かな?」

「……これぐらいだったら分かる。五年生なのに、馬鹿にしないでってば」

 あれから、義理の両親は「おじさん」「おばさん」と自分を呼ぶようになった。前までは「お父さん」「お母さん」だったのに。それが妙に寂しくて、言い返す声も弱気になってしまった。


「明日、取りに行くから」

 それだけ言うと、俺は自分の部屋へ行こうとくるりと向きを変えた。

「あ、明日は学校でしょ。帰ってから行くのよね?」

 自分の部屋のドアを閉める。そして、ため息をついた。

 学校帰ってから行くの? って。決まってんだろ。学校休んでまで、自分を捨てた両親の所になんか行きたくない。


 部屋の窓から差し込んでくる光は外灯ぐらいしかない。外灯の光は、夜の暗さを照らすには頼りないと思う。けれどもその頼りなげな光が、今はただただ優しく感じた。

 壁にもたれて、しゃがむ。ずずずっと音がして、静寂が訪れた。


 本当は、心の叫びに気付いていた。

 誰が自分を捨てた人の所になんか行きたがるか。むろん、あっちだって捨てた子供が来るのは嫌だろう。もしかしたら母親がメールで伝えているのだろうか。

 本当の親がどういう人なのか、どんな生活をしているのか、今はどんな姿をしているのか、全く分からない。不安に押しつぶされそうになりながらも、先ほど言った言葉を取り消せないか、悩んだりもした。

 でも、さっき。

 義理の母親は、「帰ってから行くのよね?」と戸惑いつつも、その声は合鍵を説明しているときよりも遥かに明るかった。


 母親も母親なりに、不安だったのだろう。本当の両親と会わせてあげたい。でも、絵糸が会いたがらないかもしれない。無理に会わせるのも酷だ、と。

 自分から行く、しかも明日行くと言ってくれたのだから、母親にとって、確かな安心材料となるだろう。


 俺だって、人を困らせたくはない。もしかしたら「絵糸、これから一緒に暮らそうよ」的な展開になるかもしれない。

 そしたら、もうこれ以上義理の両親に迷惑などかけることはないし、鬱陶しい然闇からも離れることができる。

 一石二鳥じゃないか、明日、帰ったら早速行こうよ。

 頭の中の自分が呼びかけるけど、嫌な予感がする、と引き止めている自分もいた。


 ◆◇


 六時間目が終わって、帰りの会が始まる。

 係からの連絡と、先生の話が終われば、放課後は自由だ。急げば日が暮れる前には会えるかもしれない。

 普段滅多にないわくわく感を胸に抱きながら、ランドセルを棚から取りに行く。

 と。


 ランドセルの中に、見慣れない紙が入っていた。白かな、と思ったら、薄いピンク色だった。何だろう、と思いつつも紙を取り出してみる。


 よく見るとその紙は二つ折りにされていた。開くと、小さくきめ細かい文字が紙の中央に書かれている。


「放課後、家庭科室に来てください」


 教室のどこかで、「キャー」と小さくも存在主張が激しめな歓声が聞こえる。声のした方向を振り向くと、そこには数人の女子がいた。


 俺を凝視している女子もいれば、恥ずかしげに下を向いている女子もいる。

 鈍いといえば鈍い俺は、何故帰りの会間際に騒ぐのか、不思議でならなかった。



 書かれていた通り家庭科室に行けば。


 そこに一人の女の子がいて。帰りの会の時、恥ずかしそうに下を向いていた女子だった。

「あの、あの、えっと……」としどろもどろにそんな言葉を繰り返す彼女。顔どころか体全体が真っ赤に染まっている。目が泣いているみたいに光っていて。両手を後ろで組んだり、指を絡ませたり。それが一分ぐらい続いたとき、俺はイライラし始めた。

 本当の両親に会えると言うのに、何だこの女子は。俺の気持ちも知らず、呼びだしておいて、用件をなかなか話さないなんて、何さまのつもりだ。

 それが二分、三分と続いて、ついに我慢できなくなった俺は。


「早くしてくんない?」


 ぽろっと、そんな言葉をこぼした。

 その一言で。


 その女子は、わあわあと声をあげて泣き始めた。


「は?」

 何で泣いているのか分からず、俺が何もできずにその女子を見つめていると、ふいに家庭科室の扉の隙間から、数人の女子が雪崩れ込んできた。

「ちょっと、あやねちゃん、大丈夫?」

「絵糸、いくら何でもそれはないよ!」

「は?」

 そーだそーだと、雪崩れ込んできた女子に文句を言われる俺。

 何で? と俺が聞き返すと、泣きだした女子を慰めていた女子が、俺を睨みつけた。


「あやねがせっかく告白してたのに、早くしてくんない? って、あんた馬鹿じゃないの!?」


 その一言で、あやねという女子の泣き声はヒートアップした。


 告白?


 この女子が、俺のことを好きだと言いたかったのか?

 だったら何故、手っ取り早く好きだなんて言ってしまわないんだろう。手紙を出した時点で、覚悟は出来てるはずなのに。


「何で、何も悪くねぇ告白された側が責められるんだよ」


 一瞬、静まり返った。告白しようとした女子の泣き声だけが響いて。

「サイテー!」

「それが男子の言うことなの!?」

 辺りは大ブーイング。


 何なんだよ、こいつら。

 よってたかって、大人数で無実の俺を叩いて。そんなことして、何が楽しいんだ。

 大体、告白するときに仲間を連れるなんて、自分が振られたときに相手側を責めるための、保険なんじゃないか。そんなの卑怯じゃん。こっちは不意打ちなんだから、用意も何もしてないんだよ。


「何が楽しいんだよ、告白なんかして」


 俺が吐き捨てると、あやねという女子の泣き声が、ひときわヒートアップして。家庭科室の前を通りかかったクラスメート達が、何事かと家庭科室を覗いてくるもんだから、いつの間にか家庭科室の前には人だかりができていた。

「な、何なんだよ……」

 サイテー、絵糸君ひどーい。そんな声が、俺の耳を突き刺してくる。


 その人だかりの中に、然闇もいて、俺のことを目を見開いて、じぃっと見つめてきた。

 何であやねちゃんが泣いてるの? ねぇ、何で?

 そう聞きたげだ。というか、そう聞きたいのはこっちだってば。

 俺には行きたい所があるのに、呼び止められて、用件を中々言われなくて、挙句の果て、泣かれて女子に文句を言われて、野次馬が寄って来て。


 俺が、何をしたって言うんだ。


 そこにいることが嫌になってきて、俺は走り出した。

 野次馬をすり抜けて、急いで階段に向かう。幸い、追いかけてくる人は誰もいなかった。俺なんかより、泣いたあやねという女子の方が心配なのだろう。世の中、そんなもんだ。


「きゃっ」


 階段の所で、誰かにぶつかった。その衝撃で目をつぶる。

 相手は女子だ。どしん、と尻もちをつく音が聞こえた。俺は尻もちをついていないから、尻もちをついているのは相手の方か。


 恐る恐る目を開けると、そこにいたのは華奢なショートボブの女の子だった。隣のクラスだったような気もするが、名前すら分からなかった。五年間も一緒にいた同級生なのに、少しばかり情けない気持ちと、ぶつかってしまった申し訳ない気持ちが混じって、「すみません」と謝った。

「いえ、大丈夫です。そっちは、怪我、ありませんか?」

 ショートボブが揺れたかと思うと、その瞳は俺の顔を捉えていた。


 瞳に映る俺は、酷い顔をしていた。取り乱しているのだろうか、視線は泳ぎ、尋ねてくれている女の子に焦点が合っていない。心なしか、顔色がほんのり青白いような気がする。


「あ、怪我は、ないです……」

「そっか、ならよかった」

 急に砕けた口調になり、その子は「では」と会釈をして廊下へと歩き去っていく。その小さな背中を見つめる余地もなく、俺は階段を駆け降りた。


 ◆◇


 ランドセルを家に置き、母親がプリントアウトしてくれた地図を持って、俺は街を歩いていた。

 親の名字は渡辺というらしい。アパートの一階の三号室だと、教えてもらった。

「俺の名前、本当は渡辺絵糸(わたなべえいと)だったんだなぁ」

 そう呟いてみる。誰の耳にも入らなかったようで、すれ違う人々は俺になんか目もくれない。それはそれで有り難いことなのだが。

 一応、三個ずつ、結構遠い街にある「和菓子の夕月」という高級なお店でプリンを買った。本当の両親と会話できるなら、一個三百円の小さなプリンへの出費だって、惜しくはなかった。

「出席番号、最後の方かぁ」

 今は片桐だから、出席番号は五番前後だ。だけど渡辺だったら、出席番号は最後の方だ。


「何だか、新鮮だなぁ」

 クラスメートから、渡辺、とか、渡辺君、と呼ばれる姿を想像して、ポツリと漏らした。俺には違う人生もあったんだと思うと、不思議と胸に何かがこみあげてくる。



 そこから歩いていること数十分。

 肩に提げた、キャラクターのプリントされたバッグの中から、鍵を取り出す。

 手渡された合鍵。何の変哲もない、言ってしまえばキーホルダーも何もついていない無個性な合鍵。だけど、その鍵を持っていると言うだけで、何故か手が急に汗ばんできた。


 これで、俺の人生は変わるかもしれない。

 胸がどきどきと高鳴って、アパートへと足を踏み入れる。

 何かが、変わるかもしれない。「絵糸、会いたかった」なんて、抱き締められるかもしれない。そんな期待が、頭の片隅にはあった。


 だけど。

 三号室のチャイムを鳴らしても、何の音もしなかった。

 もう一度押してみるが、誰かの声すらもしない。もしかしたら誰もいないんじゃと思うと、頭の片隅の期待が、しぼんでいくような気がした。

 ……いや、まだ合鍵があるではないか。そう思い立ち、握りしめた合鍵を、ドアの鍵穴に差し込んだ。


 ドアは呆気ないほどにガチャと音を立てて開き、俺の心臓は呆気ないほど簡単に高鳴った。


 誰もいない、けれども、俺の両親が住んでる家。



 玄関先は、整理されていなかった。

 黒や白のゴミ袋が放置されていて、靴が脱ぎ散らかされていた。ハイヒールや革靴、スニーカー、何故か有名なスポーツメーカーのスパイクまでもが。


「え」


 そのまま、俺は立ち止まった。

 そしてこのまま、帰ってしまおうかとも思った。

 だけど、俺の体は正直で。どんどん、家の中へと足を踏みいれていた。


「うわっ」


 何だか、変なにおいがする。

 アルコールのような、生ゴミのような、そんな匂いが部屋中に充満していた。

 壁には、色んなプリクラの数々。台所には、ところどころ塗装がはげ落ちたフライパンが放置されている。その中には焦げている何かがあって。

 台所のすぐそばに置いてある折り畳み式の小さな机には、カップラーメンの容器や、パンの袋、コンビニのレジ袋などが大量に積み重なっていた。

 床には靴と同じように服が脱ぎ散らかされている。下着やズボンがたたまれないで散らかされていて、Yシャツなんてしわしわだ。一応どの衣類も洗濯はされているようだが、アイロンがけをされていない。


 人生を、諦めているのか。

 小学五年生の俺でも分かった。俺の両親は、既に人生を諦めている。もしくは、人生をだらだらと、今生きていればいいやと思いながら過ごしているのだろうか。


 ま、いいか……。

 俺はバッグからしわくちゃになってしまった一枚の紙を取り出す。そこに書いてあるのは、「絵糸に取りに行ってほしいもの一覧」。書棚に挟まっている眼科のカードや、中学校へ着ていくシャツなどがそこに記載されている。


 確か、シャツとかはクローゼットの中に未開封で保管されてあるとか言ってたよな。中学校準備の物とかは渡辺家の方で用意しているらしいから、と母親が話していたのを思い出す。


 そういえば、俺、父親とこの件に関しては全然話をしていないな。関係ないと、決め込んでいるのだろうか。確かに渡辺家の親戚は母親の方だ。義理の父親にしてみれば、関係ない家の子供を養えと言われて、実際不満たらたらだったのだろう。


 一度、家を出る前に、「もしも家に誰もいなかったら、不法侵入になるんじゃないか」と尋ねたことがある。

 母親は実にお気楽そうに「大丈夫よ、則之(のりゆき)達も、貴方が絵糸だって分かれば、きっと許してくれるわよ」と言っていた。いや、許してくれるとか以前に、不法侵入は犯罪でしょ、と今更ながらツッコミたくなった。


「あ」


 ふと、俺はふすまで仕切られた寝室に視線を移した。


 絵が、あった。

 布団のすぐ横には、絵具やキャンバスなど、画材が置かれていた。こちらは衣服やゴミなどとは違って、整理されていた。

 壁には絵が飾られている。飾られていると言っても、画用紙の上の左右端に画鋲が留めてあるだけの、簡素な飾り方だ。


 でも、描いてある絵は、画鋲で留めてあるのがもったいないくらい、綺麗だった。


 たとえば、海と太陽が描いてある絵。太陽と言っても、空が赤いから、太陽が沈む夕焼けの頃合いだろうか。海は太陽に近づくにつれて色素が薄くなっているし、よく見れば、空も上の方は藍色に染まっている。

 画材は多分、色鉛筆だろう。色鉛筆だから、こんなに繊細な絵が描けるのだろうか。だけど、俺がどれだけ色鉛筆を使おうが、もっと優れている画材を使おうが、この絵を描くのは一生無理な気がした。


 森林の絵もある。そびえたついくつもの大きな木。見え隠れする空からは、木漏れ日が差し込んでいる。白と薄いオレンジがちょうどよく混ざり合った色が、空全体に広がっている。地面に落ちている葉っぱも、赤、黄、オレンジ、緑。きっと、季節感などはイメージしていないのだろう。なのに、広がっている景色は、何一つ違和感がなかった。

 これも色鉛筆だろうか、絵具だろうか。ところどころ見分けがつかない箇所もあった。


「綺麗だなぁ……」


 さっきから、ゴミが床に置いてあったり異臭が漂っていたりと呆れることばかりだったが、この絵達は素直に尊敬できる。


 ……やっぱり、本当に絵が好きだったんだなぁ。

 前に、義理の母親に聞いたことがあった。何故、自分が絵糸という名前なのかを。母親は、「則之、絵が大好きだったからねぇ」としんみりと話してくれた。


 絵が大好きだったから、こんなに絵が上手いんだ。


 俺も、絵を描いてみようかな。何たって、名前が「絵糸」なんだもの。

 絵が下手でもいいから、アニメや漫画の模写じゃなくて、こんな風景画を描いてみたい。


 その時だった。



「誰だよぉ、俺ん家に勝手に入ってきた奴はよぉ!」



 怒っているような声が、俺の耳に届いた。だがその声は、引き締まっているような感じはなく、ただ抑揚のないふらふらと目的を失っているようだった。

「あぁ? ……ってか、何だこれ、こんな靴、あったかな?」

 玄関先に置いてある俺の靴を見付けたらしかった。アルコール臭いにおいが一層増した気がする。

「ってかよぉ、麻耶(まや)も服を買ってき過ぎなんだよな。バイト代が消えちゃうぞってあれほど言ってんのに……」

 不法侵入者のことを気にしながらも、俺の本当の母親のことを、悪く言っているらしかった。不仲なのかもしれない。

 ってか、こんなアパートに住んでいて、体に悪い生活をしているのに、正社員やパートでもなく、バイトなんだ……。俺の親のことなのに、知らないことが多すぎた。


 というか、とにかく、俺がいることを知ってもらわないと。


 ふすまを開けて、玄関先へと歩き出す。

 本当の父親の視線が、突き刺すように俺へそそがれる。


 切れ長な目が、そっくりだ。


 ふいに、そんなことを思う。

 だけど、その切れ長な形はそのままに、目尻が下がっていた。とろん、という音がよく似合う。

 酔っ払っているのか。


 顔は全体的に丸っこいし、切れ長な目をしているのに、鼻は丸いし、髭が顎のあたりにちょいちょい生えていて、何だか素朴そうな人だ。

 切れ長の目以外、俺に似た所が何一つない。確か、写真もこんな感じだった気がする。



「誰だ、お前」



 一瞬、大きなショックが、俺の体中を襲った。

 そりゃ、十年以上も会っていないんだから、当然だよ。覚えてもらえなくて、当然だよ。何ショックなんか受けているんだ。お前だって、十年も会っていない人が急に目の前に現れたら、こんな反応をするだろ?

 頭の中で、俺は必死に自分を納得させようとする。ショックを受けるなんて、お門違いだ。

 だけど、もう一つの考えが、頭の半分を支配していた。


 ショックを受けて、当たり前じゃないか。だって、本当の、実の両親なんだよ? 本当の親に存在を覚えてもらえないなんて、ショック以外の何物でもないよ。


 考えが巡るけれど、俺はきっと、実の父親を見据えた。さっき女の子とぶつかったときのように、視線を泳がせたりなんかはしなかった。



「片桐、絵糸だ。渡辺則之さん、貴方は、僕の本当の父親です」



 何故、敬語になるのだろう。自分で自分にツッコミたくなった。だけど、今ここではツッコめないと悟った。ツッコめる雰囲気じゃない。誰が見ても、そんなことは一目瞭然だった。


「絵糸ぉ?」


 きょとんとした様子の本当の父親。ショックを受ける間もなく、彼は靴を脱がずに俺の所に歩み寄ってくる。酒臭い。きっと、酒を飲んでいるのだろう。


「お前が絵糸なわけねぇだろ。絵糸はこーんなにちっちゃかったんだぜ?」


 そう言って、両手を胸の前に持ってきて、ゆらゆらと左右に揺らす。赤ちゃんを抱いているようだった。

「……でも、確かに言われてみれば、十年以上経ってるもんなぁ、お前を麻耶の親戚に引き渡してから」

 今、一瞬だが傷付いた。胸が、ズキッと音を立てて疼いた。何か一撃加われば、壊れてしまいそう。


 だから、俺は先手を打つことにした。


「あの、これ」

 そう言ってバッグから取り出したのは、高級なプリン。本当の父親、則之さんもそのプリンをしげしげと見つめている。俺はバッグから二個目を取り出し、則之さんを見つめながら言った。


「ここから取りにこなくちゃいけないものがあったというので、取りに来たんです。せっかく、本当の両親に会えるならと、ちょっと高いんですが、買っちゃいました」


 久しぶりに照れ笑いを浮かべてみても、則之さんの表情はちっとも変わらない。俺の手からプリンを二個奪い取ると、「俺と麻耶にか?」と首をかしげた。

 俺が元気よく頷くと、「そうか」とちょっと嬉しそうに口角を上げる。その顔のまま、「ちょっと待ってろな。確か、書類とかだったよな」と靴のまま、リビングにある棚を物色し始めた。


「えっと、眼科のカード、中学校へ着ていくYシャツやポロシャツ、あとは……」


 しどろもどろになりながらもなんとか答えようとしたが、則之さんは「あぁ、いいよ、そのメモ頂戴」と俺に向かって手を差し伸べてきた。俺はその手にメモを置く。

 手、温かい。

 人の温もりと言うか、則之さんの温厚な性格が感じられる。


 ふと、俺は、さっき見かけた絵のことを聞いてみることにした。


「あの、さっき、絵を見かけたんですが、あれは、貴方が描いたものなんですか?」

 棚を漁る音が、ぴたっと止まる。則之さんはこちらを振り返って、ニッと笑みを作った。


「おう、俺が描いたもんだ」

 それから視線を棚に戻して、また漁ろうとするから、俺は話を繋ごうと少々慌てた。

「あの、綺麗ですね。何であんな絵が描けるんですか?」

 またその音が止まって、そうだなぁ、と優しげな声が耳に届く。


「中学校の頃は美術部で。今はそうではないみたいだけど、昔は男子部員が沢山いてな。皆、その頃から漫画っていうものがあったから、風景画に混じってこっそり漫画の絵を真似したりってしてたのさ。だけど俺は漫画なんて持ってなくてさ、風景画描いてたら、いつの間にか風景画が大好きになって、いつの間にか、こんなんになっちゃってさ」


 しんみりと語っている則之さんが、ふいっとこちらを向いた。

「こんなアパートに住んでてまだ絵なんか描いてるのかって、情けねぇだろ。実の両親がこんななんて、情けない以外の何物でもないだろ?」

 そんなことない、と口から勝手に声が出る。

「そんなことあるよ。絵なんか描いて何の意味もないって、麻耶に言われたんだよ」

 ふふっと笑うと、棚を漁りに戻って、「おっ、あったあった」なんて言いながら俺の方にまた歩み寄ってくる。酒臭い息は消えないが、それでも先ほどよりかは温和になった気がした。


「はい、眼科のカードと……床に落ちててちょっときたねぇけど、ポロシャツとYシャツ。きちんとアイロンがけして使うんだぞ?」


 俺が何度も何度も頷くと、則之さんは俺の頭を撫でてくれた。優しく、ふんわりと覆いかぶさるようなその手が、俺を段々笑顔にさせていった。

「ごめんなぁ。引き渡したくせして、こんなことしか出来ないし、何も出してやること出来ないけど」

 ホント、こんな親でごめんなぁ。則之さんはそう言いながら、頭を撫で続けた。


「そうだ、もうそろそろ麻耶が帰ってくる時間帯だから、プリンを一緒に食べながら、何か話でもしてみないか? じ、時間がないなら、いいんだぞ?」


 則之さんは、ちらちらと時計の方を見やる。時刻は五時。外はちょっと暗い。だけどまだ青空はほんのり広がっている。


「いえ、まだ大丈夫です。義理の両親も、今夜は絵糸は夜遅く帰ってくるだろうと、思っていますから」


 義理の母親も父親も、今日は絵糸が本当の両親と語りつくすだろうと思っているらしい。簡素な夜ごはんを食べながら、笑いながら。家へ帰って、今日は楽しかったよ、と事後報告されることを願っているらしかった。


「そうかぁ。じゃあ、お腹すくから、何か食べ物でも買ってこようか。何が良い?」

 則之さんが机に乱雑に置かれている財布を手にとってそう言うものだから、俺は咄嗟に答えた。

「おにぎりで大丈夫です、はい」

 すると則之さんは意外そうな顔をして、「あ、おにぎりなら今日買ってきたやつがあるぞ。食べるか?」と言ってきた。

「はい」

 頷くと則之さんはケタケタと笑って、「そんな気難しくならないでも、本当の親なんだから、普通でいいんだよ、普通で」と俺に向かっておにぎりを差しだした。机の上に置いてあったのだろう。

 包装を開けて、おにぎりを口に運ぶ。


 何度だって食べてきたおにぎり。味も分かっているつもりだ。

 だけど、今食べたおにぎりは、何故だかほのかに温もりが感じられた。



「あぁー、あっつぅい」



 甲高い声が響く。麻耶、と則之さんが瞳を輝かせる。

「お帰り麻耶。絵糸が来ているよ」

「絵糸ぉ?」

 先ほどの則之さんと同じような返答が返ってくる。

「片桐さんの家に預けたじゃないか。さっき来たんだよ。とってもカッコよくなって」

 どすどすと足音がする。

「あいつが来るわけないじゃん」

 麻耶さんがそう言うと、靴が脱げる音がする。

 そして、麻耶さんが姿を現す。


 可愛らしい人だった。

 形の良い整った眉毛に、くりくりっとした丸くてとろんとした目。顔は雪のように白くて、唇はほんのり桃色だ。

 これが化粧で作られた顔なんだっていうのは、見れば一目で分かる。歳も若そうだ。十年前のチャラそうな印象とは違い、清純そうな印象を受ける。

 清純な人がこんな家に住んでるんだから、世の中何が起きるか分かったもんじゃないな。


 俺は挨拶をしようと、一歩踏み出してお辞儀をした。

「片桐絵糸です。おひ……」



「会いたくなくて捨てたのに、何で戻ってくるわけ?」



 心臓が脈打つのを忘れたらしい。一瞬、心臓の動きが止まった。

 大打撃が体中を襲い、目まいがした。育ててきてくれた両親が本当の両親じゃないと知った時以上に、ショックを受けた。


 何で、どうして。子供。子供のはずなのに。


 捨てたのは会いたくないから。そうじゃないか。会いたいなら、捨てない。育てようとする。

 そう、必死で納得させようとした。でも、出来なかった。何で、有り得ない、と、目の前で起きていることを必死で否定する脳みそが、納得しようとしない。


「大体、こっちに断らずにこんな奴を送ってくるあいつらもあいつらだよね。確かに、そんなこと言うなって怒られそうだから、会いたくないなんて言わなかったけどさ」


 その場にへなへなと座り込む俺を横目に、清純そうな印象を受ける女性、麻耶さんは、いや、お母さんは、更に続けた。


「しかし、あたしから生まれたのに、あんた、全然あたしに似てないね。可愛げもない、声も低い、そんな体で声変わりが来て可哀想にね。生きてて惨めにならないの?」

「麻耶!」


 嘲るようなお母さんの声を遮るように、お父さんの怒号が響き渡る。

「お前、自分の子供だぞ? 俺は、会いたくて会いたくて仕方がなかったのに、お前って奴は……」

「あんたがどう思おうが勝手でしょ。こっちの物を買うお金が、何も関係のないこいつに回されるかと思うと、たまんないよ」

 拳をわなわなと震わせて、今にもお母さんに殴りかかりそうなお父さんを、お返しだと言わんばかりに遮りながら「こいつ」の部分で俺に親指を向けるお母さん。

「こっちの身にもなってよ。お前がいるせいで迷惑なんだけど。あたしの分のおにぎりまで食ってんじゃねぇよ!」

 そう言ってお母さんは、持っていたハンドバッグを俺に向かって投げる。俺の左腕に当たったそれは意外に重たくて、俺の体の左半分を鈍痛が襲った。


「もう帰れ」


 低く冷たいその声。

 何で追い出されるのか分からなかった。だけど、そうしなきゃいけないような気がして。


「失礼しました」


 もう一瞬たりともこの場にいたくなくて、玄関まで走って、自分の履いていたスニーカーを数秒で履いて、外へ飛び出す。


 家を出る瞬間、お父さんの怒声がまた聞こえた。何を言っているのか分からないが、激怒しているのは間違いなかった。


 お父さんは、俺と喋りたかった。それは、間違いようのない事実だ。

 だけど、お母さんは俺になんか会いたくなかった。理由は分からないが、俺がいることを激しく拒み、バッグを投げつけて、大激怒していた。


 俺は、あそこに行くべきじゃなかった。


 いつの間にか、持ってきてほしいと言われていた書類やカードなども、あっちの家に忘れていたことに気付いた。

 一瞬立ち止まって、戻ろうかとも思った。だけど、戻ったら拒絶される。それがただただ怖くて。

 俺は、渡辺家から遠ざかった。遠ざかりたかった。というより、逃げた。



 走ったり歩いたりを繰り返しているうちに、いつの間にか俺の学校近くの公園に着いていた。

 膝に手をついて息を整え、いつの間にか頬をつたっていた涙を拭う。


「俺、何してんだ……」


 俺を、あの時と同じように優しく、あの時と同じように頼りなげな外灯が、照らしてくれる。

 涙を拭っても拭っても、今は何故だか涙があふれ出てくる。


「何してんだ。何してんだよ、俺は……」


 泣きながら、小声でそんなことを言う。

 本当の両親に、いらないと言われて。本当の両親の家を飛び出して。

 期待している義理の両親の家に、泣きながら帰るなんて、どうしてもそんなことは出来ない。期待している親を、がっかりさせたくなかった。


 静かな真っ暗闇の公園の近くに設置された、場違いな光を発する自販機に売っているココアを買い、公園のベンチに座り込む。気温が低い夜の公園のベンチということもあって、座るとひんやり、冷たい感触が下半身につたわってきた。

 先ほどのこともあってか、背中は冷や水を浴びたように冷たかった。冷たいと言うより、寒い。今は秋。寒いと言うより涼しいと言う季節なのに、季節を間違えたような感想を持つ俺に、自分自身で苦笑する。

 そう思いながら、缶に入ったココアを飲もうと、缶を開ける。ぱしゃっという音がして、缶の口から温かい空気が流れ出る。ふっと表情を柔らかくさせて、上を向いてココアを喉に流し込む。


 暖かい。


 体中がぽかぽかと暖かくなっていく。春のような穏やかな気温が、俺の周りだけに広がっているようだった。

 俺は立ち上がって、家に向かって歩き始める。


 ココアを飲みながら、俺はふと思う。


 何故だか今、無性に然闇に会いたくなった。

 小さい頃から、俺を支えてくれた然闇。あやねという女子の味方にもならず、様子を見守っていた然闇。鬱陶しく感じていたが、何故だか今、とてつもなくワガママな要望だが、然闇と一緒にいたかった。

 恋愛面での「好き」になることはないと思うが、友達として、幼馴染みとして好きだ。その気持ちはこれから変わることはないだろう。


 然闇の笑顔を思い浮かべながら、俺は帰路につく。


 ココアを飲みながら、義理の両親に嘘をつく準備をして、俺はそっと笑みを作った。

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