shot 008
一瞬、何が起きたのかわからなかった。
突然、アキが膝から崩れ落ちた。
顔を押さえている。
男性を見ると、手に携帯用の防虫スプレーのようなものを持っていて、それを噴射した姿勢で固まっていた。
反撃をする間もないまま、アキは床に倒れ、くの字になって気を失ってしまった。
「アキ!」
しゃべるなと言われたことなど、知らない。
名前を叫んで、かたわらにすがりつこうとしたわたしの腕を、後ろから男性が取った。
生まれてはじめて他人に暴力をふるったみたいなおののきをその顔に浮かべながら、
「コイツは人さらいだ! 娘を連れて行こうとした!」
板張りの床に寝転がったアキを指さしながらそう怒鳴って、わたしを引っ張って立たせ、出入り口に向かって早足で歩きはじめた。
「マスター! 警察に連絡を頼む!」
「アキ! アキ! やだぁ、起きてよぅ、アキぃ!」
必死に声を振りしぼっても、アキはピクリとも動かなかった。
店の前の路上に停められていた、黒塗りのベンツの後部座席に押し込められ、中で手錠をはめられそうになった。
抵抗をする。
「アキになんてことすんの! もしアキが目を覚まさなかったら、わたし、アンタを一生許さないから!」
手も足もめいっぱいバタつかせて、絶対に触らせるもんかと奮闘した。
「先生、眠らせてしまえば、連れて帰るのラクじゃないですか?」
運転手がルームミラー越しにこちらを見た。
野生の鷹のような目をしている。
「いや、薬の影響が脳に出ないとも限らない。せっかく巡ってきたチャンスだ。無駄にしたくない」
その言葉を聞いて、背筋に氷水がしたたるような思いがした。
自分の身がこれからどんな危険にさらされるのか、そんなことを懸念したわけではない。
アキのことが心配だった。
運よく警察が来る前に意識を取り戻したとしても、あの薬のせいで脳にダメージを受けてしまっていたら、逃げ切るのも難しいんじゃないだろうか。
ひょっとしたら、本当にあのまま起き上がらない可能性だってある。
おどおどとしていないで、わたしがもっと注意深く男性を観察していれば、防げた事態だったかもしれないのに!
情けなくて、自分が愚かで、悔しかった。
ハラハラと涙を流した。
「タバサ、キミは仲間思いだね」
拘束するのを諦めたのか、手錠を膝の上に置いて、男性は言った。
「しかし、あんな連中とは、金輪際関わらないほうがキミのためだと思うよ。キミはまだ若い。未来がある」
わたしは唇を噛みしめ、ジロリと男性をにらんだ。
契約を破棄し、わたしを拉致した目的はわからないが、それでも説教じみたセリフを吐く立場じゃないだろう、と思った。
「キミがおとなしく言うことを聞いてくれさえすれば、悪いようにはしない」
「……わたしに何をする気?」
「それはまだ教えられない」
男性は窓の外を見る。
すっかり夜のとばりが下りた街は、ネオンがキラキラと星のようだった。
「でも、きっとキミはわたしたちに感謝することになる」
フロイライン、とふと思った。
お金にうるさくて厳格な彼女の言いつけをきちんと守っていれば、誰も傷つけることはなかったかもしれない、とまた涙を流した。