パーフェクトワールド
その女の子は僕よりも三つほど上に見えた。真っ直ぐに切りそろえられた前髪を全部そろえて右側にピンで留めていて、白くて形の良い両耳の上にも余計な髪が落ちてこないようにピンが挿し込まれていた。ピンには小さな薄桃色の丸い飾りがついていて、その女の子の柔らかい陶器みたいな肌とキュインと音が鳴りそうな艶のある色素の薄い髪の色に似合っていた。眉毛と目元は手入れされていて顔も小さくて、小南町では見た事のない可愛い顔をしていた。その子が目をぱちくりさせて薄紅色の唇を丸めて少しの沈黙後、黒いストッキングでトタトタと廊下の奥へと小走りで去った時、僕は彼女と見つめあって胸が締め付けられるような瞬間が終わって残念に思った。でも残念に思うより先に、あ、やばい人呼ばれる、と思い立って窓から顔を離したら、女の子が去った通路の先の方でガラリンと戸の開く音が聞こえた。アルミサッシの引き戸が向こう側にもあるらしい。僕は二三歩壁から離れた。カタンカタンと誰かが石の上で木の靴底を鳴らす音がする。でもその足音は一つで、それ以外には何も聞こえない。だから僕は逃げずに待ち構えた。その足音はさっきの女の子のものだろう。こっちに来る。足にサンダルをつっかけてやってきたのはやはりさっきの女の子だった。身構える僕がびっくりしたのはその子が僕を怪しみながらも笑顔を浮かべていたからで、その子の薄紅色の唇からひょっこりと見えている白い歯は綺麗に整列していてちょっぴり眩しいぐらいだった。だから知らない誰かの死体が庭に転がっているのに、しかもそこに住んでいる知らない人間に見つかったというのに、僕は逃げようともせずポワンと女の子の顔に見とれて突っ立っているだけだった。僕を捕まえるのは簡単だったことだろう。その子は僕のそばに来ていきなり僕の手を取り、その子の冷たい手の感触と五つに分かれて動いているその子の指が手に触れている感触に僕がドギマギしていることに全く気づいていない様子で「はい、捕まえた」と笑って言った。ああ捕まっちゃった、えへへ、と僕も思わず笑ってしまう。
けれども足元の知らないオッサンの死体を見て僕は今更ながら心が不安定になる。さっきポカスカとバットで殴った憶えがあったので、その首の傷も僕がやったんだっけと少し考えてみるけれど、そんなはずはなかった。僕はさっき通ってきた道を思い出していた。その場所には下枝の低い木が一本あって、その枝をトントンと登ると隣の杉の木に繋がっているから、そっちの枝に移ってまたトントンと登っていくと通路はハッキリしていた。広がった杉の枝の茂みの中にクルリンと丸い筒のような空間がまっすぐ伸びていて、足元さえ注意すれば特にたいした段差もなく奥へと導かれるようだった。誰かの手で整備されていて、余計な枝はちゃんと切られ、枝と枝は線路の枕木くらいの間隔で並べられ、しっかりと藁縄で固定されていた。杉の深い緑の葉っぱに囲まれて外の視線から守られながらそのトンネルを歩いていくのは不思議な気分だった。人間が来るべきではない空間に穴を開け、森の体内に潜り込んでいるような気持ちだった。枝の隙間から差し込む太陽の光の柵状の照明を浴びながら僕はその通路を歩いて登り、少し下り、それからまた登って、今度は平坦なS字の道を、森の腸内を巡回するような気分で歩いていたら、不思議な気分にぼうっとしている僕を狙いすましたように一本の枝が折れていて、僕は危うく落下してしまいそうになった。体勢を立て直して見ると、その通路の裂け目には先客がいたらしく、枝の隙間から見える岩には血痕があった。まだ濡れている。新しい。誰のものだろう? と思いながら、僕はとりあえずさらにその道の奥に進むと、ほどなく終点に辿り着いた。携帯がなかったし、変な場所を歩いてきたせいか時間の感覚が失われ、どれくらいの距離をどれくらいの時間をかけて歩いてきたのか判らなかったが、とにかく長い時間をかけて遠くまで来たことは確かだった。
トンネルの突き当りの脇の枝の階段を下りると、そこは相変わらず杉の森のどこかで、大きな巨木の根元には名前の知らない僕の追っかけていたオッサンが万歳しているような格好で倒れていた。首筋からは明らかに生命を脅かすような血液量が流れ出していて、乾燥した地面を赤黒く染めている。オッサンから目を逸らすと、森はここで終わっていて、すぐそばには知らない民家があった。
よく見るとオッサンの頭は不自然に歪んでいて、フケと白髪が混じった黒い髪の間から不潔そうなオッサンの中身だとは信じがたいピンク色に花開いた後頭部が空に晒されている。さっきの所で落ちたのはこのオッサンだろう。そこで死んだのだろうか? それにしては場所が離れているし、そもそも首の傷が説明できない。オッサンの汚らしい首を正面から横に半分くらい切り開いたその傷からはもうあんまり血は出てこない。おそらくオッサンの体内にあった血はほとんどが土に染み染みてしまったのだろう。だらりと伸ばされた両手には血の気がなく、土気色と云う奴だ。どこからどう見てもオッサンは死んでいた。誰かがとどめを刺したに違いない。けれども僕にポカスカ殴られて木から落ちてぐしゃりと頭を歪めて死にかけていた、あるいは死んでいたオッサンをもう一度殺す必然性は、どうにも見出せなかった。
「ちょっと待ってね」
僕よりちょっと背の低い、すらりとした立ち姿の女の子は高校生ぐらいで、薄い黄色のシャツを着て茶色いプリーツスカートと黒いストッキングを穿いている。僕の右手を彼女の右手が握ったまま待っててねと再度言って、ポケットからプラスチックの細い紐を取り出した。何それ、と思って見ている僕の目の前で、その子はそれの先を丸めて輪っかを作り、握っていた僕の右手に通してそれをキュッと締めた。あ、と思ったが、その瞬間にまた「動かないでね」と言われたせいか、彼女のひんやりとした手の感触が心地よかったせいか、僕は言われた通り動かずに、その子がプラスチックの紐のもう片方も丸めて自分の手を通して縛り、すっかり手錠を完成させるまで女の子の様子を眺めていた。手つきを見ていると、その女の子はその手錠の作り方は知っているものの実際作ることには慣れていないようで、僕はじっと動かずにいることで手錠を作る彼女を手伝っているような気分だった。ブルーのプラスチックの紐で簡易手錠が出来上がると、彼女はちょっとほっとしたような顔で僕の方を見て微笑んだ。「さ、できあがり。手首、痛い?」と訊かれて僕は「別に」とだけ答えた。
「じゃあ、こっち来て」
「うん」
僕はもうなすがままで、さっき女の子が出てきたらしい引き戸に連れて行かれた。そこには靴を置くための大きくて平たい石が置いてあって、その石の上に女の子が履いているサンダルと同じ物がもう一足綺麗に並んでいる。アルミサッシの扉は開いたまんまで、彼女は先にサンダルを脱いで廊下に上がって振り返り、僕に「靴、ここで脱いで」と言った。僕の脱いだナイキの踵がちゃんと揃っていないことをちょっと気にしていたようだったが、その子は僕の顔を見てまたパッと微笑み、うーんこの子、本当に歯が綺麗だなーと思う僕を「じゃあこっちに来て」と言って手を握ったまま連れて廊下の奥へと向かう。通路の空気は冷たくこもっていて、歩いて空気の沈着を乱したり床を踏んでキイキイと音を立てる僕らを無言で咎めているようだった。通路を少し行くと下り坂になり、右にちょっと曲がりながら下りていくと今度は直角に左に曲がっていて、さっきのトンネルといい、今日の僕はまっすぐな道に縁がないなあと思いながら水平の通路をまた少し行くと右に曲がって階段が始まっていて、それを登って左に曲がると行き止まりに扉があった。それを女の子は右手で開ける。するとそこには座敷が広がっていて、畳の上には何も置かれていなかった。奥の板の間に掛軸があって、大きな兎の絵が墨で描かれている。言葉も添えてあったのだけど何が書かれているのか読み取れなかった。「戸、閉めて」と言われて僕は後ろの襖を閉めた。通路をグネグネ登ったり下りたりしている間、僕はじっと女の子の髪のピンについている薄ピンクの飾りを見つめていた。一つひとつに違う格好をした小さな兎が彫り込まれているのだ。白く塗られたその兎は丸い目をして飛んだり跳ねたりじっと丸くなったりしていながらピンクのガラスに閉じ込められていた。
そうして女の子に引っ張られるまま部屋まで連れて行かれ、その子は僕の方を振り返り、「君、名前は?」と訊いた。
「何だと思う?」
「さあ、教えてくれないの?」
「好きなように呼んでいいよ」
「じゃあ、君って呼ぶ」
「ん、わかった」
「変わった人」
「よく言われる」
「君は、おウチ帰りたい?」
「え? まあ、いつかは」
「それ、もう無理だから」
「なんで? 道、知ってるよ。あれ無くなんの?」
「無くなんないけど、もう無理だから。今いくつ?」
「十五」あと八か月で。
「十六歳になりたかったら、おウチのことはもう忘れなさいってこと。ま、いいや。とにかくおウチに帰ろうとしないこと。それが自分のためだよ」
「ふうん」
なんだか判んねえなあ、と思っていると女の子は「ちょっと待ってて、今飲み物持ってくる」と自分の腕に縛っていた簡易手錠の輪っかをほどいて近くの柱に結び直すと、僕を置いて這入ってきたのとは違う襖から出て行ってしまった。そうして一人にされると嫌でもいろいろ考えてしまう。ここどこだよ。小南にこんなところあったんだなあ。というかあの子可愛いなあ、なんであんな綺麗な子を知らなかったんだ僕。というか小南みたいに小っちゃな村であんなに可愛いのに知らないってあり得るか? いやいやその前にあのオッサン。なんでオッサン死んでんの。僕が殺したわけじゃないから、他の誰か……ってあの子しかいないしなあ。じゃあ殺したのはあの女の子で、僕は殺人鬼にやすやす捕まって監禁されてるの? あ、さっきの帰れないってそういう意味? じゃあ僕殺されるのか。なんで悠長にお茶出したりするの、あの子。わかんねえ。僕は頭が痛むから思索するのをやめて、畳の目を爪でひたすら引っ掻くことだけに神経を埋没させ、女の子が帰ってくるのを待った。柱に繋がれて座っている場所から楽に手を伸ばせる距離の畳の目に狙いを定めて、シュリンコキ、シュリンコキ、といい音が鳴る様に力の按配と方向を探していると楽だった。シュラリンドウ、シュラリンドウ、では少し力が入りすぎている。シュワリリン、シュワリリン、だと力が上手く伝わっていないし、第一力のベクトルがずれてしまっている。やっぱり、シュリンコキ、シュリンコキ、が一番理想的な音だった。
「麦茶、冷えてるから美味しいよ」
「あ、ども。ありがとう」
僕が畳の目を削ることに没頭していたら、いつの間にか女の子が漆色のお盆の上に氷がたくさん入って結露がびっしりのグラスを二つ持ってきていて、一リットルぐらい入りそうな容器に麦茶を入れていた。僕がなかなか麦茶に手を付けないでいると、その子は「あ、お腹減ったらいつでも言ってね。用意するから」と何気なく言うけれど、それってなんだか終わりが見えないっていうか、お腹が減ったら帰るとか日が暮れたから帰るとか、そういったゴールラインが見えない圧力を彼女の言葉尻に感じるのだった。
「あの、僕……」
「喉渇いたでしょ、いっぱい歩いたし。麦茶嫌い?」
「あ、いえ。いただきます」
よくよく考えてみれば、山の中でオッサンを追っかけて、くねくねした道を辿ってここまで来ていたので水分が欲しくなる頃合いだろうが、あんまり意識してなかったから喉がピリリと乾燥していたことに気づかなかった。氷が入ったグラスに麦茶を注ぐと、カラリンコロンと氷が鳴って、ピキピキと亀裂が入る音がした。僕はゆっくり喉を湿らすように麦茶を啜ると、信じられないほどすんなりと喉を通過して、身体に浸透する。これほど美味しい麦茶を飲んだのは初めてだ。どうやら彼女が言うには普通の水出しのお茶のようだったので、やはり水が良いからなのだろうか。
「ここのお水は天然の湧き水を使ってるの」
「へえ、だからか」
「美味しい?」
「うん」
僕が二杯目をコクコクと飲んでいるところを女の子は嬉しそうに眺めて、それから自分もゆっくり啜る様に口をつけた。グラスについた水滴が彼女の紅色の唇を湿らせ、麦茶がゆっくりと細い線を作って口に流れ込む様子は妙に艶やかで、白くて柔らかそうな喉がコクンコクンとうねる様子に目が離せなかった。
「ねえ、なんで畳の目を削っていたの」
「集中していると色々と考えなくても済む」
「でも他人の家の物を削っちゃあダメでしょう」
「やっぱり、ここに住んでいるの?」
「うん、まあね」
彼女はそれ以上畳の目を削る行為を咎めはしないものの、こんな状況で逃げもせず取り乱しもせず、ただシュリンコキ、シュリンコキと爪で擦っている僕を不思議に思っているようだった。そこで僕は今更ながら彼女がいなくなった間にプラスチックの紐をほどいて、来た道を戻れば家に帰れたことに気づいたのだった。逆に言えば彼女は僕が逃げ出すと思わなかったのだろうか? いや、それはない。いくら今まで従順について来たからといって、彼女は一応手錠をかけたままにした。全てを信用しているわけではなさそうだ。じゃあ逃げ出していたらどうだったのだろうか。その時、僕の頭の中では庭で万歳をしたまま死んでいるオッサンの姿が浮かんだ。
「あのオッサンは、誰?」
「私の父親」
「お父さん?」
「そう」
「いいの? 助けなくて」
「助けるって、何を。死んでいるのに」
確かにそうだ、と質問してから自分で納得してしまった。彼女は畳に落ちた水滴を布巾で拭いながら、僕のグラスをお盆に戻す。「やっぱり死んでいるんだ」と僕が呟くと、彼女は「ここまで来るのにトンネルをくぐってきたよね。木の」と手で丸い軌道を描く。それに僕は無言で頷くと「途中で落ちた跡があったでしょう。落ちて頭が割れていたから、私が庭まで運んできた」
「じゃあ……首の傷は」
「私がやった」
そう、と僕は反応したけれど正直判り切ったことだったし、質問なんてしなければよかった僕の馬鹿野郎と後悔していると、女の子は「そんなことより、君の事の方が聞きたいな」というので、僕は無理に明るく振る舞って小南の外れに住んでいて中学三年生で水泳をやっていて変なオッサンを追っかけているうちにここに辿り着いたと言うと、彼女は「変なオッサンって庭の人のこと?」とけらけら笑っているので僕も気分が良くなるけれどやっぱりおかしいと思うのだった。そもそも父親が死んだのに、「そんなこと」で済ませることが正常なわけない。この女の子は自分の父親であるオッサンの首を掻っ捌き、オッサンが落ちて死んでいなければとどめを刺したってことだし、死んだとしたらさらにもう一度殺したってことだ。どちらにしてもまともだとは思えない。
「町の子だったら、この辺は来たこと無かったでしょう。全然違う世界みたいでしょ、ここ。なんだか不思議の国のアリスみたい」
「オッサンがウサギ?」
「あの人、ウサギ好きよ」
「掛軸はオッサンの趣味?」
「そうね」
じゃあ髪飾りも? と僕は質問しようかと思ったが、やめた。
そう言えば彼女の名前を僕はまだ知らなかった。名前なんて言うの、と尋ねたら「コウ」と答えたので、僕は「コウちゃんか、いい名前だね」と歯が浮くようなことを言ってみるのだけれど、すると女の子はくすくすと笑って「コウは父親の名前。私はウサギ」と言った。
彼女は僕を縛っていた簡易手錠を解き「赤くなってるや。ごめんね」と笑いかける。どうせならご飯食う前に外してほしかった。そして一組の布団を持ってきて、部屋の中央部にどっしりと敷いてくれた。ここで眠れってことらしい。気づけば部屋も薄暗くなっていて、彼女は時代劇なんかで見る灯籠を持ってきた。電気は通っていないのかもしれない。「蝋燭が勿体ないから、早めに寝てね」とだけ言って彼女は部屋から出て行ってしまった。なんだ一緒の部屋に寝るんじゃないのか、なんて呑気な事を考えていたが、二の轍を踏まず、もしかして今のうちに帰れるんじゃないか? と思い立ったのはいいのだけれど、手首に残っている手錠の跡を見ちゃうと、なんかウサギが信用してくれたのを裏切るような気分がしてきて、僕はとりあえず布団の上に寝転んでみた。
するとなんだかずしんと体が沈み込むように眠気が襲ってきて、自分が存外疲れていたことを知った。そう言えば山の中をバット振り回してオッサンと追っかけっこしてたわけだし、それから木登り? みたいにトンネルを潜って、オッサンみーつけたと思ったら死んでいて、いきなり現れたウサギに捕まって拉致監禁。自分で言っていてよく判んねえや、と考えることを放棄して、僕は重たい目蓋に抗うのを止める。
すると僕の躰がすうーと吸い込まれるように畳に埋没していくので、呼吸が乱れながら、その場に留まろうとするのだけれど、手足が消えてしまうかもしれないほど痩せたり、破裂してしまうんじゃないのか心配になるほど膨張したり。僕の躰は不安定になっていて、吸い込まれるよりももっと恐ろしくなるのだけれど、そう言えばいつの間にか畳は普通になっていて、身体を起こすと、僕は荒い息遣いで汗をかいている。四肢が元通りになっていたけれど、やっぱり僕は不安定であった。
そして目の前にはウサギがいた。
「おはよう」
僕は途端に心が安らかになって、激しい鼓動を誤魔化すように、笑った。
朝起きて布団を畳むと、ウサギが朝御飯を運んできてくれる。食べ終わったら食器を片付けに部屋を出て、右手にある廊下をずうっと進むと日本家屋らしい傾斜の急な階段があるので体の向きを斜めにして気をつけながら一歩一歩下りていくと、そこには台所があるから、食器をシンクの中に入れて、ウサギが洗って僕が拭く。洗面所は向かいの廊下を突き当たったところにあるから、そこで顔を洗って、そう言えば昨日お風呂に入ってなかったなあと思い、ウサギに「風呂入ってもいい?」と尋ねると、歯を磨いていたウサギは口に歯ブラシを咥えたまま、ニコッと笑うので白い歯に粒入りの歯磨き粉が付いていた。
ウサギが歯を磨き終わり、僕も歯を磨いているといつの間にかウサギはいなくなっていて、風呂に入るのだから出て行ってくれたのかなあ、一緒に入ってもええんやけどなあ、なんてくだらないこと考えて、少し酸っぱい臭いのするTシャツを脱いでから七分丈のズボンとトランクスを一緒に脱ぐと、僕は裸になっていた。ちょっと華奢な体を鏡に映して「ふむ」と頷くと、アルミサッシの扉をガラリンと開けて、浴室に這入った。
「ああ、こっちのタイプか」と僕は今更ながらに呟いた。そこには鉄釜のような大きい塊が設置されていて、簀子が敷き詰められていた。五右衛門風呂と云う奴か。さすがに小南が少子高齢化の一途をたどる田舎とはいえ、このタイプの風呂は見掛けなかった。勿論うちもシャワー付き、一つ穴式のセラミック製浴槽だ。僕は風呂釜の蓋を開けて中を覗き込んで見るが、どう見ても中身のお湯はぬるかった。てゆーか冷たい。どうしたものかと悩んでいると、換気用だと思われる柵の付いた小窓から、ウサギの声が聞こえてきた。
「入り方、わかる? その簀子を踏みながら入るんだよー」
「え、そうなの。蓋かと思った」
「五右衛門風呂に入るの初めて?」
「石川五右衛門が処刑された風呂でしょ?」
「初めてなんやね。じゃあ今から火、焚くから」
するとパチンパチと火をつける音がして、コソンコソンと薪をくべる音、シュホーシュホーと息を吹くような音がして、これってもしやウサギが竹筒とかで火をつけているんじゃないよな、女の子にそんなことさせて風呂入るのか僕、と情けないような気持ちが湧いてくるのだけれど、段々と風呂釜のぬるま湯が温度を上げて湯気を立てる様子に、僕は素直に感動を覚えた。ていうか、はしゃいだ。「ほんまか、こんな風呂があんねんなー」と言うと、ウサギの笑い声がして「温度、丁度良くなったら言ってー」という呼びかけに、僕はオッケーなんてウキウキしながら答えた。簀子を踏んづけて入る風呂はなんだか怖い気もして、急に簀子が僕ごと浮きだしたら火傷しそう、なんて自分の質量を弁えないことばかりに考えを巡らせていた。「温度、ちょうどいいよ」と僕は通気口に向けて声を張る。
「ねえ、何で逃げなかったの?」とウサギは訊いてきた。
「んー、なんでやろー。逃げて欲しかった?」と僕が訊く。
「どうだろう、わかんない」
「風呂、ちょっと熱くなってきたー」
はいはい、と返事するウサギ。それからウサギの気配がしなくなったので、僕は躰に染みてくるような熱を感じながら、数分間入っていたのだけれど、とうとう我慢できずにふいーと風呂釜から脱出した。入るより出るほうが難しい。僕は置いてあったシャンプーと石鹸で体中を洗って、そういえば風呂釜に身体洗う前に入っちゃったなー、まあいいかー、とわしゃわしゃ擦って、風呂釜の水を桶で掬って洗い流す。もう一度ガラリンとサッシを開くと、腰の高さの箪笥の上には、バスタオルと着替えが用意されていた。ウサギが用意してくれたんだなと漠然に思い、いたせりつくせりだと思った。少し大きめのシャツとパンツはコンビニとかで売っていそうな未開封の物、あと室内着のような短パンだった。それを着て外に出ると、ウサギが台所にあるパイプ椅子に座ってお茶を飲んでいたのを見つけて、僕は「ありがとう、いい湯だった」と言った。ウサギは首だけこっちに向けて満足そうに微笑むから、僕はそわそわして、ウサギの額を見ながらなんだか汗かいてるよなーと思い立ち、誤魔化すように「じゃあ次はウサギが入んなよ。僕が焚くからさ」とぶっきらぼうに言ってみる。ウサギは「じゃあお願いしようかな。……覗かないでね」とからかうように言うものだから、僕は声が上ずってしまって「み、見るかよ!」と言っても説得感が無かった。
ウサギは僕に竹筒を渡して、着替えを持って脱衣場の方へ行った。焚くとはいっても先ほどまで僕が入っていたのだからそうそう冷めることもないだろうし、たぶんウサギも余熱で入るつもりだったかもしれないけれど、僕は汗をかきながら火にシュホーシュホーと息を吹き続けてくれたことに恩を感じていて、感じた恩には報いたいとも思っていた。察してくれたのかなあ。わかんない。台所から裏口で外に出られるようで、僕は足にサンダルを引っ掛けて、扉のドアノブを回した。すると眼前には生物の体内のようにざわざわと蠢く森に包まれていて、あらためて僕はここにいる経緯を思い出していた。あのオッサンの事も。オッサン、オッサン……そういえば、あのオッサンはどうしたんだろう? 家の外側を辿ってみれば、あの庭に行くのは簡単だった。二つ目の角を曲がった時、見覚えのある庭と木によって出来たトンネルの入り口があり、蔦が這う巨大な木も厳かに構えていた。
しかし、オッサンの死体は消えていた。
僕は周りを探してみるけれど、オッサンの死体どころか赤黒く変色しいていた土も消えてしまっている。まるで何事もなかったかのように、巨木が佇んでいるだけだ。
なんでオッサンが消えたんだ? あのオッサン、確かコウだっけ? へんちくりんな最低の名前をしたオッサンはもしかして揮発性物質で構成されていて、あれから僕がウサギに拉致されて、シュリンコキして、飯食って寝ている間に蒸発したのか? そういえば近所の金藤の婆さんにオッサンは蒸発しやすいって聞いたような……いやいや、冷静になれ僕。それは金藤の婆さんが夫に逃げられただけやないか。すーはー、すーはー。すると冷静になった僕は森林が吸い込むように構えているトンネルの入り口付近の土がわずかに湿った黒い腐葉土が露わになっているのに気付き、もしかして掘り返した後じゃないのかなと疑って近づくとやっぱりそうだって確信に変わって、昨日ウサギを初めて目撃した硝子戸の窓から少し離れたところに設置された物置を見つけた。錆びて少し硬い戸をゴロリンと開けてみると、そこには矢張り黒い土をべったりと付着させたシャベルが立てかけられている。血が付いた刃物も。おいおい、これって鉈ってやつだろ? 木の枝とか切る奴なのに、なんで血がべっとりなんだよ。事故ってわけじゃ……ないよなあ。乱暴に放置されている女物の可愛らしいTシャツとプリーツスカート、なんとか工務店とかぷりんとされているタオル、割れた兎の髪飾り。どれもが血によって鮮やかな赤色が散りばめられている。証拠を棄てるなりなんなりしないのかね、あの子は。
僕はシャベルをガッと握り、変色した地面を勇猛果敢に掘り始める。その作業中にも「やめろって、そんなもん見んくてもわかるやろ」とか「お前なら大体理解しているんだろう? ウサギとオッサンがここに住んでいて、オッサンは兎が好きで、ウサギはオッサンを憎んでいて。掻っ捌いて埋めたのも、きっと」とか、ぴーちくぱーちく騒ぎ始める僕を無視して、それでも知りたいねん、ここに何が埋まっていてここに何が埋められたのかを、必死にシャベルを掬って捨てて掬って捨てて、何か柔らかい弾力を感じるまで掘り返して、風呂に入ったばかりなのに汗だらだらもう一回風呂入れさせてくれってウサギに頼んだら入れてくれるだろうかー入れてくれないかもなーなんて朦朧とした頭で、それにかかった土を手で払ってやると、やっぱり憎たらしい顔のオッサンがいて、僕は「なんで、なんでなん……ウサギ」と嗚咽しながら呟いていた。
「なんで砂遊びなんてしているの?」
ちゃんと乾かすどころかろくに拭いていない髪は露が滴るようで、風呂にはいってたんやなーって感じに肌が紅潮している。艶っぽいウサギを目の前にして、僕は涙を拭く。やべ、手が泥だらけやった。パンダみたいになってるんじゃないのかな、おれ。
「してへんよ、砂遊びなんか」
「もう泥だらけじゃない。もう一回お風呂入る?」
「ウサギは、オッサンが憎いの?」
「オッサン? コウのこと?」
「そう、ウサギの父親」
「うん」
「なあウサギ、自首しよう。ほら、もしかしたら落ちた時に死んでいたかもしれへんし、そうなったら何の罪になるんやろう? まあ、でも殺人ではなくなるから、オッサンがウサギになんかしていたのなら防衛になるかもしれないから。だから、だからさ、僕とトンネル潜って、小南まで下りて、警察に行こう。な?」
早くこの山から下りないと。僕はもう駄目だよ、ウサギ。この家から、この世界から抜け出さないと。
「行かない」
なんで、と僕が涙声で聞き返してもそれっきりウサギは俯いたまま黙っている。
何で黙ってるんだよ、答えろよウサギ。ウサギ!
「だって、とどめ刺したのは、私だから。コウを殺したのは、私だから」
「そんなこと言うな。ていうか父親をコウって呼ぶなよ、お父さんって言え」
僕は崩れるように泣いて、ウサギは優しい顔をする。シャベルを拾って、オッサンに土を掛ける。
僕は泣く。ウサギは土を掛ける。僕は泣く。ウサギは優しく微笑んだ。
もう一度風呂に入ると膝小僧とか腕とか擦りむいて沁みるから、僕は思わず二回ほど鼻を啜った。湯気を立てる釜から掬った水で身体を流すと泥色の泡が排水溝へ吸い込まれていく。その様子を眺めながら、少し白い部分が長くなった爪に気づき、間に詰まった垢なのか泥なのか判らない汚れを反対の手の爪を使って弄っていた。親指なんかで取ろうとすると取ろうとした方の爪に汚れが詰まって、なんだか木乃伊取りが木乃伊になるってことわざを思い出して、僕はつくづく惨めな奴だと打ちひしがれるのだった。
浴室から出るとウサギはまた僕の着替えを用意してくれている。それは少しばかりサイズが大きくて、僕には緩いのだけれどせっかく用意してもらった物にケチをつけるなどできるはずもなく、僕は少しくたびれたそれの袖に腕を通すのだった。色合いがオッサンぽいなあ、ウサギには今度からもっと明るい色にしてもらおう。
台所に続くひんやりと冷たい廊下は、僕がはじめてこの家に踏み込んだ時と同じく、耳が痛くなるような静寂とキイキイと床が軋む音で、僕を無言のまま責め立てている。電気の通っていない家は想像以上に暗く、冷たい。台所ではウサギが昼ご飯を作っているようだ。空気に漂う匂いが僕の鼻腔をくすぐってお腹が鳴る。やっぱり生きてるんだなあ、なんて照れ臭いことを考えながら、僕はそれでもこの家に居続ける。逃げようと思えばいつだって逃げられるんだ。蠢く森のトンネルへ駈け込んで、帰り道を辿って小南にある父親と母親と弟と、それから学校の友達や先生が待っている家に、僕は帰れるんだ。でも僕はウサギと二人きりの世界で、味噌汁を啜り塩鮭の身をほぐし白米を咀嚼して笑って話して時々喧嘩したり仲直りして、いつまでもこの家に居続ける将来を想像している。そして今度は僕が兎になる番だ。それまでウサギは僕の物だった。
でも、こんなのは間違っている。帰るんだ。僕はみんなの下へ帰るんだ。この世界から、逃げなくてはならないのだ。髪は濡れたままだった。靴下も履かずに、サンダルを足に突っかけて駈け出した。地面はぬかるんでいて。森のトンネルの前で転んでしまった。アルミのサッシがガラリンと開く音。ウサギが僕を呼んでいた。振り返ってはダメだ。後ろを見るな。僕は枝を登って。巨大な塊のような森に吸い込まれていく。足元の感覚が消失する。狙いすましたように一本の枝が折れていたのだ。僕は踏み外し、真っ逆さまに落ちる。お母さんお父さん、そして弟よ。みんな、ごめんなさい。そう思った瞬間、目の前が真っ暗になった。鈍い音が頭の裏側で響いて、途端に意識が遠くなった。霞む視界にウサギの哀しげな顔が僕を覗いていた。今度は僕の番だ。意識が奈落に落ちていく時、僕はそれでもいいかなって思っていた。
了