最終話 エピローグ |未来《あした》へ
お待たせしました! アルカナ本編の続きです!! これまで読んで下さってきた方々に改めて感謝を! 最終話となりますが、どうぞ。
その日、沙樹達の通う高校は臨時休校となっていた。
世間を騒がせた少女四人が犠牲となる放火殺人事件は一応の終息を見せ、市内は落ち着きを取り戻しつつあった。学校側は生徒達への影響を考慮して、臨時休校を決定し、同時に父兄に対する臨時の説明会の開催が決定・案内されていた。
特に新三年生とその父兄などが大学受験への影響を心配して学校側に小火騒ぎに関する説明を求めていたため、その対応に充てたとも言える。
そのおかげもあって、光一は春香の入院した総合病院に見舞いのため訪れていた。
「ふーん。それが熊避けの鈴か」
清潔な病室内に、まるで興味のなさそうな返事が木霊した。光一が、適当に相槌を打ったせいだ。その態度に、病室で伏せっている少女が思わず激昂する。
「いったい何を聞いてたの? それは人払いの魔術専用の法具よ!」
「わかった、わかった」
今にも起き上がり詰め寄って来そうな春香に対して、少年が辟易したように返答する。
「……付けてれば効果があるんだろ? 山道で熊が避けるみたいに」
「だ・か・ら、クマ避けの鈴と一緒にしないで! いちいち勘に障るんだから!!」
春香のほうもヒートアップしていた。もとは或る少女を巡って仇敵同士のような間柄の二人である。そのせいか止める者もいない情況では、いがみ合うのも致し方無いと言えた。もっとも、二人をよく知る人物がいれば、じゃれているとしか思わなかっただろうが。
そんな二人のやり取りを余所に、綺麗な紅白の組紐に結ばれた鈴の音が涼やかに響く。
春香は、あの戦いの後に加藤の手配で市内の総合病院に半強制的に入院させられていた。評判の良い医師が多いことで有名な総合病院だ。最新式の医療機器と優秀なスタッフが揃っている病棟で、春香は検査に次ぐ検査を散々受けさせられた。
その白い監獄に、春香は閉じ込められていた。原因を作ったのは彼女自身である感が否めなかったが、彼女を心配する者達がよってたかって手続きを済ませ、気付いた時には春香はベッドの上にくくりつけられていたのだ。
抜け出そうとする彼女を母親の香織がにこやかに冷笑して止める一幕もあり、春香は渋々入院生活を送るハメになっていた。
当然の如く、諦めないこの少女は今も脱出計画を練っている最中だ。
「……お前、絶対カルシウム足りてないだろ?」
「人を欠食児童みたいに言わないで!」
白い病院服に手を当てて、春香が襟元を正す。清潔な服だが、検査を受けること等を前提に作られているため簡易なものであることは否めなかったし、見舞いとはいえ、同い年の少年を前にした乙女としては今一つ心許ないためか、彼女も着崩れしないように気を付けていた。
僅かに頬を朱に染めて、春香が怒気をあげた。
「何しにきたのよ? まったく!」
剣呑な雰囲気を隠さず、春香が毒づく。その毒気が拡がる前に、病室の入り口で明るい声が掛けられた。
「こんにちは。入ってもいい?」
人を惹き付ける笑顔を見せて、見覚えのある少女が入室してくる。
思いがけない来訪者は、その笑顔で病室の雰囲気を変えた。爽やかな制服姿の美しい少女がこちらを見ていた。大人びた雰囲気に長い黒髪がさらりと流れる。
首からは面会者用に配付されたセキュリティ用のIDカードが下げられていた。
「中条先輩、もう大丈夫なんですか?」
光一が、まるで来る事を知っていたように振り返りながら尋ねた。
生徒会の一員である彼は、実際に彼女が退院したことと、今回の事件関係者の見舞いに訪れていることを知っていた。そんな光一の質問にヒラヒラと手を振って応えると、来訪者である中条茉莉花は春香の側へと寄った。
明るい人柄がうかがえる笑顔に、春香もついつられて笑ってしまう。
「うん、元気そうね。良かった。最後に入院してるから、ちょっと心配してたんだけど、必要なかったみたい」
「あ、ありがとうございます。先輩も大丈夫そうで良かったです」
「ええ、ありがとう。おかげで体調はすっかり良くなったの。まるで入院していたのが嘘みたいにね。もっとも家族からは過度のストレスを心配されて困ってるけどね。はい、これ。後で食べてね」
眩しいほど明るい笑顔を見せて、中条は春香の前に小さな包みを差し出す。関東圏の百貨店にしかない包装が目につく。全国でも有名なパティシエの店の包装だと気付いた春香が、わぁと声を出していた。
大人びた先輩の来訪に戸惑っていたはずの春香は、手土産で1つで簡単に籠絡されていた。
「野瀬先輩達は、まだナースステーションですか? だったら呼んで来……」
立ち上がりかけた光一を茉莉花が制した。その瞳はイタズラっぽく笑っている。
「いないわよ、一人で来たから」
「「えっ?」」
光一が、驚いた声を出した。春香も意外な表情を見せている。
「大丈夫よ。心配してくれてるのはわかるけど、心配され過ぎるのも窮屈じゃない? 高校生なんだし。そう思うでしょ?」
生徒会副会長の意外な一面を見て、二人は唖然とした。この先輩は、どうも自分のことをよく分かっていらっしゃらないようだ。
「……まあ、そうですね」
「歯切れが悪いわね?」
中条の言葉に、光一は有耶無耶な相槌を打った。あまりにあっけらかんとした本人の様子に、誘拐騒ぎがあったことを心配していた光一達のほうが心配し過ぎかと錯覚する。
(野瀬先輩が言ってたことは、これか……)
光一は、彼女に振り回されていた生徒会の先輩達に聞かされていた噂を思い出した。思い出して、何故かため息しか出なかったが。
それはおいといて、と中条が急に真面目な顔になった。その顔には、真摯な態度が現れていた。折り目正しく、頭を下げて少女は後輩の二人に言った。
「ありがとう。私を助けてくれて。目覚めた後で聞いたわ。あなた達がいなかったら、私はここにいられなかったと思う。本当にありがとう」
突然の上級生からのお礼と謝辞に、慌てた二人が返答する。
「いや、先輩やめてください! お礼なんか言われるようなことは……なあ!!」
「そ、そうですよ! 私達は一年生ですよ!? 副会長に頭を下げてもらうなんて! そんな、おそれ多いです!!」
冷や汗を垂らす二人が、息を揃えた。春香など、寝ているのが悪いとばかりに跳ね起きていた。
その反応を見た中条のほうも申し訳ないといった表情を見せている。
「でも、命の恩人だわ。私としては当たり前のことをしているつもりなんだけど?」
どこまでも真摯に話す茉莉花に、春香と光一はいえいえと首と手を振る。二人の動きがシンクロするのは、どこかユーモラスでさえあった。
「なら、お礼はまた改めて。両親がお礼に伺いたいって言ってるから。あなた達から親御さんに伝えておいてね」
「先輩、お礼なんていいですよ!」
「そ、そうですよ! わざわざ来ていただいただけで有り難いのに!」
光一達が口を揃えて辞退しようとする。
「正直、今回の事件で色々と考えさせられたわ。少なくとも高校生活をやり直したいと思えるようになったのは、あなた達のおかげよ」
揃って頭に疑問符を浮かべた二人が、茉莉花の話に聞き入る。
それが合図であったかのように、中条が自身の身の上話をすることになった。
「私ね、父が大会社の経営者ってことで小さい頃から期待されて育てられててね、生徒会も大学に進学するために両親が薦めるから入ったの。でも、今度のことで私って何がしたかっかんだろう、自分の人生ってなんなんだろうって思えた。今まで早く大人になりたいと思って、早めに卒業しようとしてきたのが嘘みたい」
「……先輩、まさか飛び級だったんですか?」
恐る恐る光一が尋ねる。
「そうよ、知らなかった?」
目の前で才媛が優しく笑う。日本の教育現場では近年になって認められた飛び級制度。資源に乏しい日本が、海外との競争力を身に付けるため人材育成に重点を置いた事で認められた制度である。一定水準以上の学力を持つ秀才達を本人の望む教育水準に引き上げる事で未来の研究者や海外でも活躍できる貴重な人材を発掘する事を目的とする制度である。その制度内では、義務教育であっても必要な単位を履修すれば進級や卒業も可能にしている。
そして、中条茉莉花は既に高校卒業に必要な単位全てを修めていた。
「でもね、私もくよくよ悩むのは嫌いだし、もう決めた事があるの。私、ドロップするわ」
「「はぁ?」」
間の抜けた声が二重奏で響いた。
「じゃあ、またね。あ、ケーキ食べてね」
呆気に取られた二人を残して、中条茉莉花は退室した。明るい彼女の笑顔は、事件の影を引き摺っているようには見えない。それだけでも、幸せな事だと二人には思えた。
「まあ、良かったのかな? こっちの世界に関わって、あれだけ前向きな人も珍しいけど……」
春香の独り言のような台詞に、光一はドキリとした。それは、彼だけが持つ不安を揺らすような一言だった。
「ま、いっか♪」
手元の包みに上機嫌で注目する春香に、光一が尋ねた。少年が重い口を開いた瞬間だった。
「久和、ひとつだけ教えてくれ。あのとき見たあれは……、いったい何だったんだ?」
不意の質問に、少女の顔が僅かに引き締まる。榛色の瞳に、相手を射ぬくような鋭さが宿る。
暫し見つめ合う二人が時を止めたように固まった。
「あなた、意識があったの?」
春香の問いに、光一は頷いて肯定する。
少年の嘘を交えない答えに、少女は嘆息して俯いた。彼の知りたい事とは、春香にも分からない事だったからだ。
それでも少女は、少年の問いに答えていた。
「正直、 私も分からないわ。あなたも見たでしょう? 真っ白な光が、あの場の全てを包みこんでいくのを……」
首肯する少年を見て、少女は続ける。
「沙樹ちゃんの魔力は、普通の魔術師のそれとは何処か違う気がする。救われた私が言うのもなんだけど……。でも、あれは……言うなれば、そうね。全ての魂に救済を……。そんな魔術だったと思う」
沈黙が、二人の距離を僅かに縮めていた。
「……そうか」
光一が長い沈黙を振り切って、ようやく一言だけ呟いていた。
魔術の園の存在を知って間がない光一に、春香は比較的優しい対応をとっていた。今回の事件は、春香にも分からない事が多過ぎた。
「まあ、沙樹ちゃんらしいわ」
春香が息を吐く。病室の天井を見つめて、彼女は肩の力を脱いた。
そして自分自身を鼓舞するように、春香は光一につとめて明るく話し掛けていた。
「これからが本番よね、ホント。あなたも知らないふりは出来ないわよ? 一息ついたら、うちの道場でって……?」
「ん? あぁ……」
「さっきから、なに黄昏てるのよ?」
春香の問いに、光一は視線を床に落としたままだ。何かに思い悩む感情が、少年の横顔に出ていた。
「何よ? どうしたの?」
少女の短い問い。少年の態度を見て、少女の第六感が真実とそれ以外を選り分けていく。
「ねぇ……沙樹ちゃんのこと? 何があったの? 教えて、委員長?」
春香の榛色の瞳が強い光を宿す。黙り込んだ光一に、春香が不信感を抱く。
その意思が導いた結論は、春香にとっても見逃せない事実だった。
「支倉が、警察署に呼び出された……」
気迫に圧されて、光一は春香に話すことを決めた。彼が大切に思うものをこの少女もまた大切にしているからだ。
「えっ? いつ?」
驚いた春香の瞳が見開かれていた。
「今日……、というか今だ」
光一の返事を信じられないものだというように、春香が捲し立てた。
「なにしてるのよ、あなたは!」
突然、春香が光一を叱責する。
「私の見舞いなんかに来るより、早く沙樹ちゃん迎えに行きなさいよ!!」
驚いた少年に、畳み掛けるように少女は続ける。
「あなた、沙樹ちゃんのどこを見てたの? 沙樹ちゃんが魔術を使えるようになったなんて、つい最近なのよ? なんで一緒について行ってあげないのよ!? あなたに避けられたりしたら、悲しむに決まってるでしょ!」
「久和、お前……」
光一の瞳に意思の力が戻ってくる。
これだから男の子は、と呟く春香の姿に光一は言葉を失っていた。少年に現れた内面の変化を見て取ったのか、春香が激励を送る。
「いい? 今日だけよ! あなたに味方するのは今日だけだからね!! 早く迎えに行きなさい!」
「ありがとう」
春香の叱責に、光一は何故か感謝の意を伝えていた。自分が勝手に思い込んでいたものを、いとも簡単に論破してくれた少女。今まで光一が見てきた優しい少女の姿が、急に彼の脳裏に浮かび上がる。その表情が雲っているような不安に駆られる。
たまらず光一は立ち上がっていた。春香の助言に従うように、病室の外へと駆け出していた。
一息に総合病院の階段を駆け降り、正面玄関から大通りへと向かう。彼の頭にあるのは優しい少女への想いだけだった。
通りを歩く人に何度かぶつかりそうになりながらも、少年は走っていく。
一方、病室で光一を見送った春香は、息を吐いてベッドに倒れ込んだ。気持ちの切り替えが上手くない少年に喝をいれたのだ。そのせいで、今度は彼女が気持ちの切り替えに労力を使うことになった。
警察署での事情聴取は問題ではない。父親もいれば加藤もいるのだ。一番の問題である魔術は、概して警察や検察といった捜査機関が欲しがる証拠が残らない事が多い。後でフォローすることは難しくない。
春香にとって問題は、自分自身の感情だった。
日頃、彼女自身が光一に対して言っていた言葉に春香はジレンマを感じた。
親友の想い人は今回の事件を機に彼女達と同門となり、いずれはこの地を守る一員となるだろう。しかし、自分よりも優しい少女に一歩近づかれた気がして春香は嫌だった。そんな狭量な自分に無性に腹が立つのだ。
光一の背中を押したせいで、何かをやり遂げた達成感はあったが形容し難い感情だけが残り、ベッドに倒れ込むしかなかったのだ。
片手で顔を隠す春香の表情は、ついぞ誰にも読めなかった。
『身を引くって、こと?』
事件後、坂の上の館で沙樹は錯視の蛇に諭されていた。
それは、冷徹な魔術世界の掟。これまで沙樹の人生で対面することのなかった事柄だった。
自ら口にした後でも、沙樹は手が震えるのを抑えきれなかった。
『住む世界が違うのだ。彼らは主の良き友人になりうるが、同時に取り返しのつかない弱点にもなるだろう。魔術師として比較しても潜在的な魔力量やアルカナの級威も、比肩しうるべくもない。何もかも違う。主が守ってやっても上手くいくとは限らないことが、今回嫌と言うほど分かった筈だが?』
『でも!』
沙樹自身にも理解できない訳ではなかった。自分が身を置く魔法界の定石が、沙樹の肩にずしりと重くのしかかってくる。
自分が大切に思う人達を守り通せるか。それは、いまや”アルカナの魔女“となった沙樹にも難しい問題だった。
『まだ力不足なのだ』
錯視の蛇は沙樹に告げていた。最も現実的で、突かれたくない真実を忠実なる使い魔は主人に進言してくれていた。
数日前から何度も繰り返し考え続けた問題。答えの出ない其れに、沙樹の表情は雲っていた。美しく可憐な少女の憂い顔が、周囲に沈痛な空気をもたらしていた。
沙樹にしてみれば、突然告げられ、言い含められた友人達との別れの可能性に現実を受け入れられない気持ちが強かった。大切にしていた温かい思い出が、彼女の手をすり抜けていく、そんな虚無感が溢れてきて拭い去ることが出来なかった。
そればかりではない。
あの時、魔女ヘレナとの戦いの中で、沙樹は魔眼の力をふたたび見せ付けられていた。彼女の持つ“青眼”の力が見せたものは、沙樹の心の深い部分を揺さぶっていた。
『ありがとう……』
大魔方陣を使った魔術の最中に、憑依された少女の手が沙樹の手に触れていたのだ。
あの時聞こえた日野貴理子という少女の声が、まるで耳にこびりつくように頭から離れなかった。
沙樹が見た少女の姿は、明るい陽射しの中で笑うように、優しい笑みを浮かべていた。
重なる指は優しく触れ、死を迎える静かな瞳は感謝の涙を浮かべていた。
沙樹には、その口元が微かに、もう一度ありがとうと動いたように見えた。
冴え渡る白き光の中で、少女の顔は次第に光に溶け出すように見えなくなっていった。奇しくもそれは、魔女ヘレナの消失と同時に起こったことだった。
沙樹が気付いた時には、先ほどまで死闘を繰り広げた魔女の亡骸は、日野貴理子のそれとなって力なく校庭の一角に身を横たえていた。
戦いを通じて感じた、強い無常感。
なぜ、人の世に争いは無くならないのか。あの日、黒猫が言っていたことが、今になって沙樹の心に暗い影を落としていた。
「でも、私は……」
ポツリと出た自らの声のせいで、沙樹は我にかえった。
母親の背を追って踏み込んだ魔術と真実の世界。一般には認知されないそれは、計り知れない叡知とともに、不安や恐怖など体験したことの無かったものを沙樹に齎した。
見上げる空は、いつしか薄い茜色に染まりはじめていた。風が凪いだ午後の風景が少女の前に広がっている。
警察署での事情聴取が終わり、沙樹は途方にくれていた。
離れた場所から市内の喧騒が聞こえる。今まで当たり前に身近にあったそれさえも、少女にとって遠いものになりつつあった。何か、日常のほとんどが空虚に思えてくる錯覚に囚われようとしていた。
その時、沙樹の意識を呼び戻す声が彼女の背後から掛けられた。
「……支倉!」
遠く聞こえた少年の声。
かつて沙樹の心を救ってくれたのと同じ声が、耳に届く。
「……光一君?」
振り返る沙樹の視界に、駆け寄る光一の姿があった。
何処から走って来たというのか、息があがっているように見えた。沙樹の心音がドクンと跳ね上がった。
あれ以来、ほとんど話せていない少年。避けられていたのではと不安に思う気持ちがあった。魔術の世界に入って、彼がどう思うだろうかと思い悩む夜があった。もう一度、以前のように話したい、お互いに笑いあい、駆け換えのない日々を過ごしたい、一緒に過ごせた瞬間をいつまでも大切に自分の心に閉じ込めておきたいとの気持ちがあった。
もう自分の心を上手く制御出来なかった。
駆けてくる光一の姿が大きくなる。同様に自分の中で彼への気持ちも膨らんで大きくなる。
沙樹は自分から少年のもとへ駆け出したい気持ちに駆られた。きっと少年は迎えてくれるはずだ。あの日、自分に約束した少年の瞳は今も変わっていないのだから。
しかし、年頃の少女故に躊躇う気持ちがブレーキをかけ、光一のほうを向くに留まっていた。走り出したいのに、まだ踏み出せない自分がいた。
「……間に合った」
息を整えながら、少年は少女の前に立った。年頃の少年が他のものに眼もくれず、真剣に見つめてくる。
その瞳を少女が受け止めていた。
「その……、わざわざ来てくれたの?」
「一緒に……、帰ろう……!」
呟くような小さな問いに、肯定する光一の声が沙樹の耳に響いた。
「悪かった……。迎え、遅くなって……」
まだ息を整えきれないままの光一に、気持ちが溢れ、沙樹の心を締め付けてくる。
視界が涙でぼやけてしまっただろう少女を少年が慌てたように、気遣うように手を差し伸べる。
フルフルと首を振り、みっともないところを少年に見せまいと我慢する少女。
それでも少年の優しさに、溢れてくる気持ちが少女の心を揺さぶったのだろう。その歓喜の波にのまれて、少女が少年のもとへと踏み出す。
慌てたような少年の動揺が、影絵の中でぎこちない動きとなって現れる。
やがて二つの影が、一つに重なっていた。寄り添うように立ち、支え合う二人。
きっと始まったばかりの幼い恋は、これから大切に育まれていくのだろう。
(大丈夫かな? あの子の周りには面倒見がいい子や真面目な子が多いし……)
遠目から少女を見送っていた美佐子は、一人納得していた。その口許に、自然と笑みが溢れた。
長崎署の玄関口に立つ彼女は、沙樹に付き添って見送りに出ていた。上の空な沙樹に何度も送ろうかと尋ねたが、断られ、やむなく正面玄関から姿が見えなくなるまでと見送ったのだ。
事情聴取を終えた彼女は、沙樹の件を一人悩んでいた。悩み、そして今回の事件をそっと握り潰した。
今回の事件は、彼女にとっても謎ばかり多い事件であった。何の痕跡も残さずに消えた少女達。行き詰まり、難航を重ねた捜査。
その中で時に垣間見た不可思議な現象の痕跡。
美佐子の常識を根底から覆すような難事件に、彼女は悪戦苦闘を強いられたのだ。
そして、先日目の当たりにした超自然的な現象と、その原因となった一人の少女。
あの少女は全てを知っていたはずだ。あの火災現場で捜査官である自分を見つけた時の驚愕に満ちた視線が、何よりも雄弁にそれを物語っていた。
そのうえで、彼女は“何らかの力”を行使したのだ。全てが白日のもとに晒される危険性を理解し、それで被る結末を覚悟したうえで、だ。
あの少女が生きるために隠してきただろう秘密を美佐子は職務上の必要から暴こうとした。それは、果たして本当に正しい事だったのだろうか。
支倉沙樹は、その力を持つが故に消えた少女達を救い出そうと奔走していたのではないのだろうか。事件後の彼女の足取りを追った美佐子は、そんな疑問にぶつかっていた。
自身が拐われそうになりながら、その二~三日後には殺人犯が潜むとされていた市内の警戒箇所付近で目撃されている。とても、大人しく少し内向的だと言われた少女が取る行動ではない。しかも、火災の当日には、学校に現れた日野貴理子を守るかのように久和春香と一緒に講堂に残っている。
美佐子自身が、学校で彼女に話を聞いた時にも明らかに何かを隠していた様子があった。生徒達の証言に依らずとも捜査官なら誰もが感じるはずだ。
何故、そんな危険を犯してまで彼女は事件に関わろうとしたのか。本当に少女達を救おうとしていたのか。それとも、他の理由があったのか。あるいは、彼女はその力がある故に逃げることが出来ないでいたのか。
今となっては、もはや聞くことも出来ない問いに美佐子の胸はジクリと痛んだ。
立花美佐子は、少女達を喰い物にする犯罪者達を捕まえようと青雲の志をもって警察官になった。しかし、その彼女の矜持がいま揺らいでいる。
少女達を救おうとして自分のかかげた正義が、逆に一人の少女を追い詰めたのではないか。今回の事件では、そう思えてならなかった。
自分の信じた正義と、傷ついた少女を救いたいと思う気持ちのはざまに、美佐子は今も揺れ動いている。
沙樹の事を握り潰したのは、彼女にしても悩み抜いた末の決断だった。目の前の微笑ましい光景に、少しだけ美佐子も救われた気がして心が軽くなったように思えた。
優しい眼差しを向けたまま、美佐子は後ろに立つ青年に声をかけた。
「加藤君、もしかして……ぜんぶ知ってたの?」
彼女の質問に、後ろに立つ加藤は答えない。沙樹達に向けていた笑みを美佐子にも向けて、彼は口を開いた。
「先輩……」
「なに?」
「僕は、以前言いましたよね。先輩なら全てを知ってなお、前を向いて歩けるんじゃないかって」
振り返った美佐子の前に、まるで少年のように屈託のない笑顔を向ける加藤がいた。
「そんな先輩だからこそ、応援したくなるんですよ」
加藤の気障な台詞に、頬に赤みがさすのを隠そうと美佐子は慌てて顔を背けた。突然暴れだした彼女の心臓が言うことを聞いてくれそうもない。
そんな美佐子を置いて、加藤は先に戻りますと告げて庁舎内に入っていった。
「な、何よ、カッコつけちゃって……。ちょっとだけ格好良かったじゃないの」
少しだけむくれた美佐子は、加藤の歩いていったあとに視線を向けて歩き出した。
歩き出して、ふと立ち止まり、もう一度沙樹達の方向を見ると再び笑みを浮かべて二人の門出を見送った。
立花美佐子が関わった事件は、こうして結末を迎えた。そして、彼女もまた加藤と同じく長崎の闇を知る捜査官となった。
その後、沙樹が住む坂の上の館にも春らしい風が吹き、次の世代を予感させる者達が集い始めた。
彼女が踏み出した小さな一歩は、様々な意味で彼女にまつわる世界の新しい扉を開き、否応なく彼女はその中心に有り続けることになる。
少女は”アルカナの魔女“となり、やがて母親と同じ称号を贈られる。その輝くばかりに美しい魔女の隣には、過日の少年が常に寄り添い、彼女を終生守り通したと言われている。
それは、今日という日に手を取り合った小さな恋人達の近い将来の話であるーー。
「キリル様、どうなされましたか?」
爽やかな涼風が吹くテラスに、わずかな嫌悪が黒い瘴気となって零れ落ちた。それは、暗いインクの染みを思わせるように、ゆっくりとだが、確実に周囲へと伝播していく。
「クラテルに異変があったようだ……」
デッキチェアから気だるげに起き上がる姿は、二十代の青年のものだ。太陽のように輝く金髪と濃い灰色の瞳を持つ男だった。整った鼻梁や形の良い眉は、貴公子のようであった。だが、漂う雰囲気は魔力特有の気配を持っていた。
自然豊かなギリシャ様式の屋敷には、その広大さと反比例して彼と異変に気付いた主人に傅く数人の見目麗しい従者だけだ。
主人の異変に気付いた従者の一人が、慌ててスッと側に寄る。
「まさか、あれはシャルパンティエ様麾下のパペットマスターに預けていたはず!?」
「あれは、僕のおばあ様の血統だよ。間違えようがない」
「し、失礼いたしました!」
出過ぎた真似と従者が詫びるのを気にもせず、男は灰色の瞳で空中を睨んだ。
仄かに漂う魔力特有の雰囲気が怒りのせいか、赤い炎と熱を孕んでいく。ギりと口を固く結び、静かな意思を燃やす。
「僕とアーヤとの思い出の場所に、三流の奴が巣くう……。あり得ないよ!」
立ち上がり気炎を吐く姿は、魔術師のそれだ。ただ、その炎が尋常ではない熱量を誇っている。
「キリル様! お待ちを!!」
沙樹達に小さな幸せが訪れた日と同日に、遥か地中海に面したギリシャのデロス島でキリル・バルベイトスが出立を決めた。
それは、ただならぬ嵐の先触れに他ならなかった。
ーーTo be contineud.
改めて感謝祭りの報告をしたいところです。これまで、本当に遅筆な作品であったのに読んで下さってありがとうございました!




