第54話 日野貴理子2
大変遅ればせながらの更新ですが、なんとか上旬までに投稿できて良かったです。
徐々に膨れ上がる悪意に、貴理子は呑まれてしまいそうな自分を感じていた。
己の胸に巣くうどす黒い塊は、あらゆる負の感情が凝り固まったよりもなお、醜く感じられたからだ。
(くっ……。なんでこんな……)
訳が分からないまま、貴理子は波打つように繰り返される悪意に翻弄される。気付いてしまってからというもの、このどす黒い塊は少女の中で、否応なしに大きくなっていくのだ。
肥大化していく其れは、まるで自分を内側から喰い破らんとするかのように容赦なくこの身を責める。
吐き気にも似た不調に、貴理子は顔を顰めた。
(どうして? 身体が言うことを聞いてくれない……)
膨れ上がっていく悪意の嘲笑が、何処か遠くで木霊するように思えた。
「わたし、は……」
上手く声にならないもどかしさに、貴理子は悲嘆する。否、声を上手く操れないとは如何なる変異か。
(また! まただ……)
身体に現れ始めた変調のひとつが、貴理子の心を抉った。
途端に息が苦しくなる。繰り返し受けてきた虐待に、身体が反射的に痛みを訴えるような感覚があった。しかし、彼女にはそんな過去は無い。なのに、自分の身体に起こる変調の原因がそれだと少女は直感した。
誰にも話したことはないが、誰にも話せないことがあった。ただ、それが何なのかが貴理子自身にも分からなかった。
震えて逃げ出したい自分がいるのに、何故かその足を止めている。意に反する行動に、自分の身体が自分のものではないような錯覚に、少女は怯えていた。
(さっきまで、何ともなかったのに!? どうして……?)
沙樹達の隣を歩く自分は、この迷宮の外側に行きたいのだ。それなのに足取りは重く、身体は疲労を訴えてくる。
まるで、この場を離れたくない自分がいるかのような 事態に、他ならぬ貴理子本人が驚いていた。
「これでようやく外に出られるな。支倉、急ごう!」
「待って、光一君! 離れると危ないと思う。みんなで一緒に行くのが、一番安全な方法だから」
二人の先を急ぐ会話も貴理子には届いていない。
やっと見つけた筈の出口に、彼等だけがはしゃいでいた。その彼等に置いて行かれそうな気がする。突き刺さるような不安ばかりが、何故か少女の胸の内で次第に大きくなっていくのだ。
「日野さん、あと少しだから頑張ろう」
沙樹の優しい笑顔が勘に障った。明るい人柄が恨めしかった。思うように動かせない身体が、どうしようもなくもどかしかった。
ええ、と応えようとして少女は止まる。
「……アァ」
沙樹の優しさに貴理子が答えようとした瞬間、何か別のものが口をついて出ていた。
あまりの出来事に、貴理子は凍り付く。異様な感覚が、少女の持つ暖かさ一切を奪っていく。
なんとも形容しがたい不快な感覚が、貴理子の全身を這いずっていく。悪意だけではない異変に、彼女は一人身体を強張らせていた。
そんな彼女の危機を知らず、沙樹と光一は互いを気遣っていた。
自然とお互いが助け合い、声を掛け合っている。特に沙樹は光一の背後に周り、気を失って眠る親友に手を伸ばして背中を擦る。春香の容態を気遣って、沙樹は寝顔を覗き込んでもいた。
「光一君も、大丈夫?」
「ああ、まだ大丈夫だ。それに、本人には絶対言わないけど、こいつ意外と軽いのな」
場を明るくしたいからか、沙樹に向けて光一が冗談を飛ばす。
「もう、女の子にふる話題じゃないから」
漸く緊張が解けたのか、もとの明るい雰囲気が二人に戻ってきていた。少し困った様子の沙樹にも、思わず苦笑が漏れる。
反抗する身体を引き摺るようにして、貴理子は彼等に付いていく。動かない足を無理矢理動かして、必死に出口を求めていた。
(このまま……。このまま行けば、あと少しで出られるはず……。それまで我慢すれば……)
貴理子の表情からは、辛そうな顔は見えない。既に身体の一部は何者かに奪われてしまったかのような錯覚さえあった。
「日野さん、もう少しよ」
不意に響いた声は、爽やかな鈴の音にも似て、少女の心を慰めてくれた。
「えっ……、あ!?」
突然巻き戻った自分の時間に、貴理子は自らの声が戻ったと驚く。
「あ、ありがとう……。声が戻ってる!? 痺れも、ないみたい……」
「どうしたの、大丈夫?」
「いえ、ちょっと気分がすぐれなくて……。一時はどうなるかと思ったから」
彼等のおかげで、貴理子は窮地を脱していた。身体の不調は、嘘のように収まっている。
お荷物でしかない自分までを気遣ってくれた沙樹達の気持ちに対して、貴理子は純粋に応えたかった。それでも、何か良くないものが内側から溢れてくるような、そんな一抹の不安が拭えなかった。
やがて、霧は後方に去っていた。
少なくとも沙樹達三人は、自分達の歩みを確かなものに感じていた。
講堂内の建物の壁や天井など、視界に占める見覚えのある建材の割合が明らかに増えてきていた。それは即ち、“四面廻廊”から脱出したことを意味していた。
「なあ、これはもう大丈夫なんじゃないか?」
「ええ、私もそう思う」
光一の言葉に、沙樹も応えた。次第に明るい展望が見えてきていた。
沙樹はこれまでも幾度か足元と出口を見比べて進行方向と速度を気にしていた。時には何かに聞き耳を立てるように足を止めていた事もあった。
「あと少しだから、日野さんも最後まで頑張ってね」
「ありがとう……」
最後まで気遣ってくれて、と口に出したつもりの貴理子に異変が襲った。
再び、声を失っていた。
『本当に、ねえ……』
首をもたげる悪意は、貴理子の知らない外国の言葉を喋っていた。
(な、なんで……! なんでこんな!?)
段々と大きくなっていく悪意の塊は、やがて少女の心を呑み込もうとするようだった。
貴理子の抵抗が虚しく空回りする。
(いや! やめて、お願いだから!)
突如として湧き出したどす黒い負の感情。それが、貴理子の抵抗を嘲笑い、膨らみ続けていた。
反抗する身体に何とか抗おうとする貴理子に、現実は非情な刃を突き付けてくる。
凍り付いたように強張る表情は、蒼白に変わっていた。
まるで彼女の存在を否定するような事態に、声にならない声を枯らして叫び続ける貴理子がいた。
(あああぁ……。もうダメ! 二人とも逃げて!!)
だが、貴理子の全てを呑み込むような悪意が、何も知らない少年・少女達に静かに躙り寄っていく。
「あっ!」
それは、不用意に告げられた一言。そして、周到に仕掛けられた罠。
まるで謝罪にも聞こえる貴理子の声に、沙樹達が振り返った。
項垂れた感じの貴理子が告白する。その様子は、子供が自分の悪戯を親に告げる時のそれに似ていた。
「あ、あの……。実は、家の鍵を落としたみたいで……。あなた達に会う時に走って来たから、そこでだと思うんだけど」
ワナワナと小刻みに震える貴理子の手が、彼女の口元を覆う。所在なげに宙を彷徨う視線が、申し訳ないというばかりに沙樹達に向けられた。
「なくしちゃったの!?」
「おい、嘘だろ!?」
光一達も、これには驚きを示した。
「どうしよう? やっぱり、引き返すしかないのかな?」
考え込む沙樹の様子に、光一が助言を与える。
「……流石にやめた方がいい。此処までも危険だったんだ。引き返すのは無謀だろう」
「私もそう思うんだけど……」
悩む沙樹の耳に、使い魔の声が響いた。
「主人よ、再び”四面廻廊“に踏み込むなど愚か者のすることだぞ」
「ウロボロス!」
驚かさないで、と非難する沙樹の声も聞こえないとばかりに従者たる使い魔が主人に告げた。
「主人よ、再び”四面廻廊“に踏み込むというのなら、死ぬ覚悟が必要だ」
青い双眸に、怜悧な光を湛えている。彼が告げるのは魔術世界の冷徹な掟。
「この霧の迷宮は、間違いなく現代の神秘と同等の魔術……。二度目も無事に抜け出せるとは、誰も保証できぬ」
いつの間にか、錯視の円環が沙樹の周囲に拡がりを見せている。常人には焦点を結ぶ事すら出来ない魔術の顕現に、貴理子ならずとも言葉をなくしていく。
唯一、沙樹だけが使い魔の力を知って聞き返していた。
「……何か別の方法はない、ウロボロス?」
主人の問いに、錯視の蛇は自らの姿を晒して答える。
「放っておくことだ、主人よ。あまり時間も無い。一刻でも早く完全な安全圏に避難するほうが先だ」
「でも、やっぱり助けられるなら助けたいの。ああ、私が頼りにならないのは分かってる。実際問題として、あなただけが頼りだし……」
意外な主人の言葉に、使い魔たる彼が珍しく動揺する。
「ム……。待て、主人よ」
探し物は物体でよいのだな、といつになく念をおす使い魔に、沙樹も頷く。
錯視の円環の外縁に、突如として現れた物体を認めたのは直後のことだった。
俗に超能力と呼ばれる異能において、引き寄せと言われる能力がある。いずことも知れない場所から、物体を引き寄せる能力として認知されているものだ。特定の物体のみならず、本人にも予測出来ない物体を自らの近くにもたらす能力だ。
また、アスポートと呼ばれる異能は、逆に物体を何処か別の場所に飛ばすことが分かっている。手当たり次第に物体が何処か別の場所へと消えていく様は、まさに驚異であった。
錯視の蛇は、沙樹の膝元で魔術の効果を確認している。
「主人よ、これらの中に探し物はあるか?」
いきなり行使された未知の魔術に、彼女も驚愕の表情を表していた。それでも、自分を頼る少女のためにと考えたのか、すぐに貴理子のほうを向く。
「日野さん、どう?」
尋ねる沙樹の視線上に、困惑する貴理子の顔があった。
現れた物体は、魔術戦の傷跡も生々しいものも含まれていた。ただ、大小様々な物体の中に金属製のものも混じっている。小山のようにうず高く積み上げられた物体に、沙樹は視線を戻した。
「こ、これは……」
明らかに狼狽える少女の様子に、沙樹も心配して気遣う。
「ウロボロス、その……少し下がって。これでいいかな? 日野さん、びっくりしただろうけど探し物はあった?」
「えっ、ええ。大丈夫」
そう言った貴理子の手が、瓦礫の中に入れられる。やがて彼女は、其の中からひとつの金属片を掴み取っていた。
「ありがとう。これよ」
そう言って差し出された彼女の掌上には、一本の鍵が載せられていた。
「良かった」
「そうだな。探し物が見つかったなら、なによりだ。支倉、早く進もう」
「ええ、日野さんもいい?」
無言で首肯する貴理子に、沙樹は安堵からくる笑みを見せていた。
『ちっ……、忌々しい蛇め!』
そう言った貴理子の肌が粟立つ。
それは、先程から彼女の口をついて出る異国の言葉。
沙樹達の親切を踏みにじる悪意の現れに、彼女の精神は再び凍り付くかのように震えていた。
身体が言うことを聞かなくなるのは度々あった。それでも、自分の意識に無い事を口に出した現実が、彼女の精神の異常を示していると思われた。
(私、なんでこんな!? ほんとに何かの病気なの?)
口元を両手で押さえる貴理子の肩が、小さく震えていた。
蒼白となった顔からは血の気が失せ、貴理子の全身を頼りなく見せていた。小刻みに震える手が、彼女の精神の不安定さを顕著に顕していた。
涙が、自然とこぼれる。
彼女の顔色は、ますます酷くなる。まるで、何かに思い至ったかのように。
(わたしは……、いままで……!)
恐怖に怯える少女は、同時に逃げられない現実に観念したかに見えた。その頬は土器色のように悪くなる一方だ。
涙が溢れる事を貴理子は止められなかった。
全てを悟った彼女が見せた行動は、沙樹達の予想を超えて事態の急変を告げていた。貴理子は叫ぶ。それしか解決する方法が無いかのように。
「お願い……して……」
乾いた空気が張り詰めていくような感じに、前を歩く二人の身体が反応した。
「なあ、支倉……。あの娘、様子がおかしいんじゃないか?」
「ん?」
呼び止められた沙樹は、後方にいる貴理子の様子を見た。
「おねが……。こ……し……」
絞り出すような悲痛な声は、よく聞き取れなかった。
それでも、彼女は叫び続ける。それしか解決する方法が無いのだと訴えながら。
「お願いだから……!」
声を限りに叫ぶ貴理子に、二人は戦慄を覚えた。
「殺して! お願い、いっそ私を殺して!!」
涙ながらに訴える少女の姿が、其処にあった。
まだ続くアルカナ本編であります。あと二つ、三つの章しかありません。ラストに向けて有終の美を飾れるように頑張ろうと思います!




