第45話 破滅の予兆2
お待たせしました!今回は出来立てであります。
「誰だ? お前はいったい……?」
完成しつつある特殊な魔法陣に束縛されながら、黒猫は声を振り絞って問い質していた。それだけが、彼に出来る最後の抵抗であるかのように、だ。
黒猫の姿をとる身体が崩れ始め、その輪郭がぶれ始めている。精霊である本来の自分に戻りつつある事を彼も理解していた。
ただ、理解はしても心が抵抗するのだ。高潔な彼の精神が、亜也を主人と定めた時から彼の矜持を形作っているためだ。
その足元からは、魔法陣へ向かってもの凄い勢いで黒い霧状の魔素が流れている。
只の使い魔だと思っていた蛇に不覚をとった事実が、かつて黒猫と呼ばれた彼に、はっきりとした動揺を与えていた。
その間隙を突くかのように、低い男の声が辺りに響いた。
「亜也の使い魔よ、言葉に気を付けることだ。我もまた支倉の一族なのだぞ」
いつの間にか室内に浮かび上がっていた、ひとつの影。
錯視の蛇の背後に浮かび上がる、見覚えのある姿。まるで、幽霊のように不確かで、気味の悪い印象を与える影。
だが、黒猫にとっては見覚えのある男だ。
その男は、異端の魔術師であり、かつての主人と親交を持つ数少ない人物でもあった。
「バカな!! では、モーフィアス様に討たれたのは?」
今度こそ、黒猫の顔が驚愕に震えた。
「ククク……。それこそ、お前の預かり知らぬことだ」
赤く染まる邪悪な眼光が、身動きできぬ彼を射抜く。
ただならぬ雰囲気を纏う男に、黒猫は我が身の苦境を呪った。
(……このままでは、何も出来ぬままベルタ様の処へ!?)
魔三角陣。
別名、魔術の三角とも呼ばれるそれは、祭儀的魔法における記銘された三角のことを言う。
そのなかには精霊、あるいはデーモンが呼び出されて身体を備えた姿を現し収容される。不可視なものが可視なものに顕現する事の象徴と言われている。
魔三角陣のそれぞれの角は、神の偉大なる三つの名前によって仕切られており、精霊は魔三角陣の内側にいる限りは、魔術師や魔法使いの命令に従う。また、その精霊は三角陣の内側から魔術師が解放、または放免してやらなければ逃れる事は出来ず、精霊を三角陣から逃亡させてしまう事は危険であると見なされている。
近代において、精霊と契約しようとした魔術師達が果敢に挑んだ高難易度の祭儀的魔法であり、現代においては、逸失魔法に分類される魔法であった。
男の影が言う。
「トライアングルの術式は完璧だ。最後に何か言い残す事はあるか、猫よ?」
歪む口元に邪悪な気配を漂わせて、錯視の蛇を従わせた男が笑う。
「ほざけ……。貴様が主人に伝えるはずも、無い……だろうに!!」
黒猫の双眸が、男の目を見返す。
ますます濃くなっていく男の影は、高まっていく魔力の密度を示していた。
寄り集まった魔力が、確かな人の姿を形作っていく。年の頃は三十代半ばくらいか。きっちりとしたスーツに身を包み、均整の取れた身体は鍛え上げられている。
名家の執事に酷似した隙のない立ち姿。
男は、ゆっくりと両目をあけると淡々と告げる。
「まあ、お前なら死にはすまい。跳ばされても生き永らえる事が出来るだろうとも。そう……」
薄い笑みに口元を綻ばせた男が言う。
「塩の国でな」
男の術中にまんまと嵌まり、黒猫に抗う術は無かった。
(このままでは、沙樹様の身辺にも魔の手が……!)
拘束された自らの身体を顧みず、黒猫が暴れもがく。
大量の魔力を失いながらも、主人のために抵抗し続ける。精霊にとって生命力そのものと言える魔力を失いながら、なお男に対する敵意を露にしていた。
「……お前の、好きにはさせぬ!」
邪悪な気配を隠そうともせずに、影は黒猫だったものに話し掛ける。
「そう暴れるな。かの野獣の言葉を借りるなら、マギをその紛い物一切から区別するため必要不可欠な事なのだ」
魔三角陣の前で、異端の魔術師はさも滑稽だとばかりに笑う。
雌伏の時代を抜け出した為政者のような野心に満ちた笑い声が響く。
(大、魔法……を……。早く、動か……蛇に、気を付け……!)
黄金の光帯に境界を分けられた二匹の使い魔。
館の中に流れる魔力は、此処へきて益々荒ぶる動の側面を見せる。
支倉に所縁を持つ男の声が、何時しか黒い精霊には聞こえなくなっていた。
赤く染まる室内に響き渡るのは、ぞっとするほど冷酷な声であった。
(我が……、主人よ!)
魔法陣は、闇の精霊から魔力を吸い続ける。それこそ、砂時計の砂が落ち続けるように。
翠の双眸が闇の中で狂おしく輝き、声にならぬ叫びが木霊する。
血を吐くような叫びも届かず、黒猫と呼ばれていた彼は、黄金の光帯と共に忽然と姿を消した。
沈黙が降りた室内で、男は満足そうな笑みを浮かべていた。
「ククク……。さて、永きに亘る雌伏の時代も終わった。目障りな檻には消えて貰うとするか」
足下に残る錯視の蛇だったものの残滓に、男が冷たい視線を落とす。横たわる蛇へと向けた掌に魔力が集中する。
「消えろ」
抑揚の無い声が、訃の調べを運ぶ。
放たれた魔力の干渉を受けて、錯視の蛇だったものが崩壊を始める。
その破壊現象を見ていた男の視界に、微かな魔力の発露が揺れる。
「ん!? これは?」
一見すると、小さく魔力も内包しない未完成な魔術回路。
とるに足りないと思わせるそれが、男に不可解な行動を強いた。落ち着いた素振りなど、捨て去り、何かを振り払うような仕草を取る男に纏い付く小さな魔法陣。
狼狽する男の様子など意に介さないかのように、未完成だった魔術が完成する。
「なんだ、これは!? 私の魔力に絡み付くだと! こ、こんな事が!?」
青い光が、蛇を中心に明滅する。
小さな輝きが、やがて薄いヴェールのように不可触の技となって男の周囲を包んでいく。
「な、なんだ!? これは……! 何故私が……! この感情は、なんだと言うのだ!?」
苦痛に苛まれる男の顔には、玉の汗が浮かんでいた。
(馬鹿な! 魔法界に生きるため、故郷も親兄弟さえも捨てた私が、今更昔の事等を思い出すだと!? 血の力は無力化したはずだ!!)
先程まで黒猫に対して見せていた姿が嘘のように取り乱していた。まるで悪夢を見るかのように、男は前後不覚に陥りつつあった。
「鬱陶しい!! 何故、愛など……。ううっ、まさか亜也の仕業か!?」
自らに掛けられた不可思議な魔術。その効果を体感した男は、見えない敵の魔術師に思い当たった。精神を侵食する魔術によって、男は膝を着く。
苦悶に顔を歪める男は、朦朧とする意識の中で足下に浮かぶ召還魔法陣を目撃した。
「速っ!」
咄嗟に捻った身体を邪気の塊が襲う。
受ければ即死ものの攻撃を躱して、春香は構えを取る。制服の裾や袖に、襲撃の痕跡が残る。
(強い! あの時より魔力上がってるし!!)
本来の力を取り戻し始めた魔女に、少女は戸惑う。連戦続きで気持ちが弱っていたのだろう。そんな自分を認めたくないと、春香が気持ちに渇を入れて魔力を練り上げる。
『ほら! まだ本気じゃないでしょう?』
翻るローブをそのままに、魔女である貴理子が踏み込んで来る。迫る彼女の攻撃を春香が捌き続けていく。
危険な綱渡りのような攻防が、周囲に殺意と邪気を振り撒いていく。
(大切なものを守れなくて、何が守護者よ!! まだまだいけるんだから!)
劣勢に身を切られ、遅まきながら少女の闘志に火が着く。昏い炎が榛色の瞳に灯る。
滾る闘志に印を切る姿も凛々しく、春香が魔女を前に立ち塞がる。
「……例え貴理ちゃんでも、指一本触れさせないから」
鬼気迫る少女の瞳に、魔女が笑う。
『ようやく火がついたのね……。フフフ、そうこなくちゃ』
紅蓮の炎を思わせる春香の魔力に、魔女が対抗心を燃やす。
『面白くないわ!』
加害魔法。
まだ魔術が悪魔の影響下にないとされた時代に、他人に害悪を与える呪術的なもの一切は法に触れる犯罪行為であった。
邪視による健康への被害。まじないによる他人の畑作に対する悪影響。
現代では、凡そ信じられないような事柄が、歴とした成文法により禁じられていた。
魔女の力は、間違いなくその古き時代のものだ。
二度にわたる戦いを経て、春香はそう確信していた。
邪視によって引き起こされる行動制限や魔力が込められた声によって魅了される精神干渉など、発動のタイミングが全く読めない攻撃が続くのだ。
坂の上の館で本物の守護者が言っていた言葉が甦る。
使う魔術は古いギリシャ様式のもの。本場欧州の古流魔法の使い手ーー。
その実力の片鱗を嫌というほど見せつけられていた。
休息を取る間を許さず、魔女が先に動いた。
(仕掛けるタイミングは一度だけ……。先ずはアドバンテージを奪い取る!)
十二天将を率いて立つ少女に、迷いが無くなった。
息吹きを調え、初めて春香が迎え撃つ。彼我の距離を一足で詰め、叩き付けるは破魔の法。
攻勢に出る白い一撃に、魔女の表情が凍りつく。
邪気による防御を知りながら、春香は敢えて真正面から挑む。渦を巻く濃密な邪気をものともせず、少女の掌底が突き抜けていく。
「歳破ァーー!!」
その純白の衝撃に、邪悪な気配は断ち切られた。
空気を震わせる震動が、短く野太い衝撃音となって鳴り響く。幻想の夜に見せた技とはタイプが違うそれは、出力こそ及ばないが一点から放射状に爆発する威力を秘めていた。
交差する二つの影が、再度離れる。
かたやニヤリと笑う魔女の顔は、残忍さを隠そうともしなかった。伝い流れる血潮が、講堂の床板を穢していく。
かたや無手の構えを崩さず、冷徹な魔術師の顔を見せる春香。
彼女の攻撃は、狙い通り魔女から片手斧を奪っていた。血溜まりに魔女の得物が沈んでいる。
幻想の夜に見せた活躍が、此処に来て開花したものか。これまで防戦一方だったものが嘘のように、戦いの局面は大きく転換していた。
その親友の戦いを、沙樹もまた固唾を飲んで見守っていた。
(お願い、もうやめて!)
戦いに不馴れな少女から見れば、息が止まるような戦闘が繰り広げられているのだ。
まして自分を庇い、親友が危険な目に遭うのは見ていられなかった。そんな沙樹の心情など無視する高笑いが、室内に響き渡った。
『アハハハハハハハハーーーーー!!』
天井を見上げて魔女が笑う。気味の悪い声に不快な魔力を感じて、沙樹が身をすくめた。無意識に自分の肩を抱く。
二人の獲物に向けられた歪んだ瞳に、狂気が燻る。狂った感情が犠牲者となる相手を求めていた。
『ああ、これだよ。この興奮があるからいいのさ!』
ぞっとする笑みに、沙樹は目を離せない。彼女の魔眼が見せる魔女の真の姿に、血の気が引いていたのだ。
それは、魂の相克。
『ああ、そうよ! そうしようじゃないか!!』
一つの身体に、二つの魂があるが故に起こる不幸。それが、目の前にいる魔女の真実だと気付いていた。
沙樹の瞳が、青い揺らめきを見せる。
魔女の瞳に映る狂気が、魔力を伴って周囲を威圧する。狂気に目覚めた魔女の誕生であった。
『最高の力を見せようじゃないか! 神よ、ディロス島にまします神よ!』
魔女の様子に警戒する。春香は、かつて見た貴理子の未来を思い出していた。
「沙樹ちゃん、気を付けて! 様子がおかしい……」
「春香、あの娘ね、あのままじゃ危ない……」
人の生は、ディオニソスの祭壇。
ホメロスの詩には、神々による呪われたとしか思えない逸話が数多くある。
「下がってて。今度は本気で危ないから……」
「待って! 聞いて、春香!!」
心配する友の声も届かぬほど、少女は緊張していたのか。
沙樹の声に反応を示さぬまま、距離感が移ろう。まるで忍び寄る悪夢のように、講堂全体を包む空気が変わった。
春香の背中が、遠ざかる。薄く掻き消えていく、その影。桃源郷にでも迷い混んだかのように、唐突に薄れていく後ろ姿。
「……春香?」
震える声で親友の名前を呼ぶ沙樹の目の前で、それは起こった。
久和春香は魔女の術中に落ち、文字通りその姿を消したのだった。
戦いが続くアルカナ本編です。三人の運命はどうなるのか? また次回もお付き合いください。




