第32話 語られる事のない戦い1
お待たせしました!
虚ろな空間に、一本の樹木が聳え立つ。
身の丈を遥かに超す巨大な樹木は、大きく捻れた幹から、無数に続く枝を暗い天空へと伸ばしていた。
浮かび上がる全体像は、樹木の異様な大きさを露にしている。
いやが上にも目につく樹木は、ひとつを遣り過ごしても、すぐに次の樹木が現れる。逃げても逃げても、行く先々に現れる巨大な樹木は、見る者の心を揺さぶった。
追い立てられるような錯覚が、少女の心に不安の影を落としていく。
枯れ果てた枝には瑞々しい葉など一枚も無く、樹皮は乾燥して粗く捻れている。暗い空に浮かぶその姿は、不気味な雰囲気を醸し出していた。
まるで迫るような迫力を感じて、少女は幾つもの樹木を遣り過ごす。
重くなった足を、少女は無理矢理動かす。全身の疲労も激しい。そうしないと、堪えていた恐怖が溢れてきそうだった。
巨大な樹木には、こちらも普通では考えられないほど大きな木の実がぶら下がっていた。不揃いな形を見せる木の実は、遠目からも大きく、そして歪だった。
走り続け、逃げ続けた少女の足は立ち止まる。もう何時間、そうしていたのか分からない。長い逃避行が、少女の不安を煽り、次第に考える力を奪っていた。
あの老婆がけしかけた悪魔のような獣達から逃げて、いつの間にか迷い込んでしまっていた。
この虚ろな空間から出られない。
次第に心を占めていく最悪の未来予想が、それが現実だと言うように少女の精神を磨り減らしていく。
それでも、少女はなんとか逃げようと前を向いた。そうして、樹木の広げる枯れ枝の下にいる自分に気付いた。
(また、捕らえられた……)
茫然自失の少女が見たのは、巨大な樹木にぶら下がる歪な木の実。
暗い空に浮かび上がる影は更に暗く、一番近くにある木の実には妙に凹凸がある。思わず見入る少女が見たものは、大きな袋から飛び出した手足。
(ひっ!)
それが、人間のものだと理解してしまった少女は立ち竦む。
いびつな木の実は、死体が詰まった袋であった。巨大な樹木になる全ての実は、魔女が殺した犠牲者のものか。袋から飛び出した手足は、一様に青白く、生気の欠片も無い。
逃げ続けていた少女、日野貴理子は突然の水音を目で追った。水が跳ねる音に、少女は口元を手で覆う。
「……なにこれ、ぜんぶ血なの?」
足元を濡らす赤黒いものは、冷たく濡れた犠牲者の血だろうか。よく見れば、今も木の実から滴り落ち、ポタリポタリという音が聞こえてくる。
俄に充満する血の匂いに、貴理子は思わず顔を顰めた。
「もう、いいかい?」
不意にかけられた声は、もう何度となく聞いた人物のもの。そして、少女に絶望をもたらすものだった。
少女の周囲に、生臭い匂いが漂う。何かの生物の目が、暗闇に赤く浮かび上がる。黒い体毛は、薄暗い空間でも更に黒く蠢いているのが見える。
背筋に走る悪寒に、貴理子は気丈にも堪えていた。
何度も追い掛けられた悪魔のような獣達だ。吐く息に籠る獣臭さが、フッ、フッ、フッ、フッという息遣いの音に混ざる。
「気が済んだかい?」
老婆の言葉に、嫌悪感が湧く。優しい口調だが、それは鳥の巣にある玉子を狙った蛇の見せるそれと同じだ。
「諦めて、こっちへおいで。悪いようにはしないよ」
「いやよっ、誰があなたの言いなりなんかに!」
構えた貴理子の前方、暗闇の中から嗤い声が漏れる。
「私を此処から出して!もう、私を自由にして!」
貴理子は叫んだ。絞り出すような涙声が、暗闇に消えていく。
「ここは、私が造り出した空間さ。でもね、あんたのものでもあるんだよ……」
貴理子は喉まで出掛かった声を呑み込む。今まで見てきた景色は、何処かで見覚えがなかったか。鎌首をもたげる疑問に、首を振って否定する。
この老婆の言う事を認めてはならない。
「その樹木にある袋が気になるかい?あんたが嫌ってた奴が入ってるといいねぇ」
飛び出した手足の中に、指環をはめた手首があった。先程見た、その指環に見覚えがあった。
背筋に嫌な悪寒が上がってくる。
「もう分かってるだろう?」
「……違う、ちがうっ!」
「違わないさ、あんたは口煩い母親が気に食わなかったんだろ?」
歪んだ口元が、赤く開く。遠目からしか見えないというのに邪悪な笑みを浮かべているのが分かる。
「何処かで見覚えがなかったかい?此処は、あんたの心の闇が、澱となって形をとった場所さ」
老婆の嗤う声が、虚ろな空間に響く。
人間の持つ負の感情が反響するような厭らしさに、貴理子は耳を覆った。
「さあ、もう分かっただろう?誰も助けには来ないって事が……」
少女の心が軋みをあげる。貴理子の疲労は限界に達していた。身体的にも精神的にも、まだ16歳の少女には辛すぎた。
嗤い声が、木霊する。此処にはお前の味方はいない、と老婆は続ける。
(……嫌だ、嫌だ、嫌だ、いやだ、いやだ、いやだ!)
此処から出て自由になりたい、と少女は願う。つい先日まであった、当たり前の事を切実に求めた。
明るい陽光の下、両親と過ごした時間が、脳裏を過る。友達と学んだ学校の風景が浮かんでは消える。幸せだった頃の記憶が、少女の心を支える唯一の救いだった。
「此処からは出られやしないよ。死なない限り、ね」
優しい声が、告げる。少女にとって、耐えられない事実を見せつけるように。
身体から、何かが抜けていくような錯覚があった。血の気が引いた少女の事を気遣って、大丈夫と老婆は続けた。
「あんたは生まれ変わるのさ。そう、私にね」
嗤う老婆が見せるのは、狂気に染まる自分の未来だったのか。貴理子の心は、もうこれ以上耐えられなかった。
放課後近くに目覚めた光一は、早々に生徒会に合流していた。
全身の疲労感も無くなり、怪我したはずの箇所も擦り傷ひとつ無い。違和感を感じた筈の右手は、痺れや不具合の跡形も無い。自分で歩く足取りも確かだ。
事の顛末が気掛かりな彼は、見回りに来る教師より早く、自分のほうから先に職員室を訪れていた。
大丈夫と言う彼に、学校側は聞き取り調査を行った。調査は短時間で終わり、光一はすぐに放免された。知る限りの事を話す光一の態度に不信感は無く、むしろ念のためと医師の診察をすすめられたくらいだったからだ。
そして、中条が病院に運ばれたと教師達から聞いた光一は、見舞いに行く予定だった生徒会のメンバー達とも職員室で会う事ができた。
そのため、むしろ生徒会のメンバー達に、彼は預けられる形になったのだ。
顔色が戻った光一に、上級生である野瀬が尋ねた。
「しかし、本当に大丈夫かい?」
「はい、鍛えてますから」
何気ない会話を続けながら、光一も自身の健在を主張する。
「まあ、茉莉花が気に入るくらいだからね」
「えっ、そうなの?」
市内の歩行者用道路を歩きながら、会話を楽しむようにメンバーの一人が言った。通路に設置された自光式パネルが、観光案内の表示を多国籍言語で映している。流れる観光案内のプロモーション映像は、観光業が盛んな都市ならではの風景だった。
先程の不穏当な発言をしたのは、書記をしている三年生である。そして、すぐに他の女子生徒が反応した。
上級生とは言え、女性陣の会話は姦しい。
光一は口にしないまでも、そう思った。それに、彼もそれ以上は流石に恥ずかしいというか、面映ゆいようだ。次に彼が見せたのも、思春期の少年らしい反応だった。
光一は、話題を切り替えるように野瀬に話しかける。
「野瀬先輩、僕より中条先輩の怪我のほうが心配なんですが、怪我の程度は分かりますか?」
「うん、僕も運ばれるのを見た訳じゃないし、君の話を聞いただけだから、まだ何ともねぇ。たぶん、大丈夫と思うよ」
野瀬が痩せた肩をすくめてみせる。楽観視している様子が分かる。
「あっ、それあたしも聞いたわよ!」
光一の思わぬところで、話がつながりを見せた。書記の三年生が、また会話に入ってくる。
「茉莉花の怪我、校内に不審者が入って来たからなんでしょ?だけど、柳楽君がかばってくれたんだよね?」
「なにそれ!」
「しかも、一年生の女子が助けようと必死になっててね。多分あれは、日頃から柳楽君に想いを寄せる娘が……」
黄色い歓声と共に盛り上がる上級生の少女達に、その場にいた少年二人は圧倒された。
少女達のパワーに勝てず、光一は閉口する。呆気に取られたと言う方が正しいか。好奇心に満ちた目を向ける先輩達に、暫く光一は話のネタに質問されるがままだった。何か自分も知らない事があったように聞こえたが、光一はその後の歓声で上手く聞き取れなかった。
「もうすぐよね?茉莉花の入院先の病院……」
先頭を歩くメンバーの一人が、振り返って皆に尋ねる。
場所を知る野瀬の案内で、彼等は救急指定の総合病院に到着した。まるでホテルのような明るい内装のロビーを抜けて、受付に行く。
こちらに気付いたスタッフが先に頭を垂れた。
「すいません、面会をお願いします」
野瀬が代表者として一歩前に出て聞いた。こういう時、男が前に立つのは常識だという無言の圧力があるように光一は思った。上級生の少女達の笑顔が怖い。
「入院している方のお名前をいただいてもよろしいですか?」
清潔感のある服装をした女性が、年下の自分達にも丁寧に対応する。柔らかい口調で対応するスタッフに好感を持ちつつ、彼等は用件を話した。
「今日、入院した中条茉莉花です。学校の同級生と生徒会なんですが……」
「確認しますので、あちらに掛けてお待ち下さい」
ロビーのソファで待つように指示され、少年、少女達が従った。革張りの高級感があるソファは、座り心地も良い。何分も待たず、彼等はフロントのスタッフに呼ばれた。
「それでは、1104号室になります。面会の方は、このセキュリティカードを守衛に見せて下さい」
「はい、分かりました」
人数分のセキュリティカードを受け取りながら、野瀬が返事をする。他にも注意事項が書かれた紙も手渡されていた。
「11階にナースステーションがあるので、面会者はそこで受付をしてください」
システム的な大病院の対応に従い、彼等は中条茉莉花への見舞いに行った。
「エレベーターがあるのは、あっちだね」
野瀬が案内図を見たのか、ロビーからエレベーターがある場所を指す。
他の女子生徒も心得たもので、その案内に従うように歩いていく。その波に、光一も続く。
光一は、歩きながら考えていた。
(茉莉花先輩は、結局入院になった。俺のやった事は……)
心の中で渦巻く不安をもて余しながら、光一は歩く。先輩達に言う訳にはいかない、彼だけの事情があった。
中条が襲われた状況は、彼だけしか知らないのだ。あれが彼女の知り合いだなどと思えないが、中条本人から聞かない以上、光一も一抹の不安を拭えなかった。
(無駄じゃなかったと、思いたいんだけどなぁ)
喉が渇き、手が汗ばむ。内心を隠したまま、光一はエレベーターに向かった。
(取り敢えず、先輩に会ったら謝るか……)
いよいよ面会という段階にきて、彼も心配になったのだろう。光一は、落ち着かない自分を鎮めようとしていた。
そんな彼等を見送る複数の目があった。
市内の大病院を眺めるように、光学的な電子の目が、ロビーを横切る光一の姿を捉える。
電子双眼鏡を持つ者の手が、ゆっくりと降ろされる。
黒いスーツに身を固めた、春香の姿が其処にあった。
ブラックスーツは難燃性と伸縮性等を併せ持った特殊素材のもので、その下には薄型の対弾・対刃プロテクトジャケットを装着していた。
耳元には携帯端末と連動する衛星通信用端末を装着している。足元は消音、対滑に優れたソールを使用したタクティカルブーツ。
坂の上の館に行った時、守護者として着ていた服装だろう。剣呑な雰囲気を隠さず、少女は何かを待つ。
左手の携帯端末を見て得心がいったのか、おもむろに春香は耳元の通信端末に触れる。
「こちらフロントロー、配置完了。作戦参謀よろしいか?」
感情を抑えた声が、少女の口から発せられた。
乾いた風が吹く。それは柔らかい栗色の髪を揺らすが、春香の瞳は厳しい光を宿したままだ。
「こちらセカンドロー、同じく二名配置完了どうぞ」
「こちらサードロー、二名配置完了」
春香の声に続けとばかりに、無線通信に複数の男性の声が流れた。
守護者達の動きが、会話を受けて慌ただしくなる気配があった。先程から流れる双方向型の超短波無線通信の内容は、警察や自衛隊の行動に近いものを感じさせた。
「こちら作戦参謀、No.2からNo.6までの配置を確認。コントロール、開始の指示を出せ」
無線通話による意志の疎通が行われる。何らかの集団行動が、今まさに行われようとしていた。魔術師集団である守護者達の息を潜めるような行動が続く。市街地での魔術戦の予感があった。
夕暮れの街に、覚悟を秘めた眼差しがあった。耳元に右手を添える少女の姿が、沈む夕陽に映えて美しい。
閉じた目尻は決意と緊張を、固く結ばれた唇は強い意志の力を秘めていた。
「こちらコントロール。目標は、既にエリア内に侵入した。対象は新館11階の南側、1104号室に確認。対象と一般人を守りつつ、目標を撃破せよ。各員、戦闘配置につけ!繰り返す、各員、戦闘配置につけ!」
祈りにも似た、春香の静かな時間が破られる。
もう戦闘まで、時間が無い。呼吸を長くゆっくりとしたものに意識する。
「こちら作戦参謀、マーシャルによる保安上の安全を確認。フロントローの合図をもって作戦開始とする。各員、見逃すな!」
作戦参謀である浦の声が無線機から響く。
高まる緊張感のなか、春香はゆっくりと瞳を開けた。静かな闘志を燃やしていたのか、少女の顔は魔術師のそれに変化していた。
「こちらフロントロー。間もなく目標を圏内に捉えると思われる。捉え次第、合図を送る」
「コントロール、了解。幸運を祈る!」
間もなく夕陽が落ちる。その直前の僅かな時間に、空が黄金色に染まっていく。古来、人間と魔物が交差する唯一の刻限をこう呼んでいる。
逢魔が時ーー。
魔との邂逅をみる刻限に、周囲の空は近づきつつあった。
沈む夕陽に何を見るのか。それまで険があった少女の瞳に、本来のヘイゼルの輝きが戻る。
「さあ、行くよ春香」
金色に近付く夕陽の色合いを見ながら、少女は小さく呟く。自らに課せられた使命は、この手で果す。そう誓った日を忘れたことはないのだ。
少女の感覚に、僅かな違和感が引っ掛かる。段々と大きくなる魔の気配に、春香は手に力を込める。
知らず笑みを浮かべる。
「狩りの時間よ。悪く思わないでね、お邪魔虫さん」




