第30話 異変2
師走って、忙しいですね。
急激な気温低下が起こっていた。
光一の吐く息が、見る間に白くなっていく。寒さのせいばかりではない、止めどない悪寒が走る。
(なんだ、これ……?)
パキパキと、真昼の校庭に霜が降りるような音が響く。たちまち白く変色していく世界に、黒い影が降り立っていた。
いつから其処にいたのか、音も無く幽玄に立つ黒い姿に、光一は何故か死神を連想していた。
温かかった手が、途端にヒヤリとした冷感に変わる。
握っていた筈の少女の手が、するりと離れていた。
「あ……」
光一の口から漏れた声は、力無く途絶えた。
周囲の空間に何かが這いずるような音がする。影の頭に相当する部分が小さく蠢く。囀ずるような音が、耳についた。
「……待って。待ってください」
ふらふらと歩き出した中条の身体が、見えない力に引っ張られる。まるで黒い影が、待ち望んだ恋人であるかのように少女は光一など一顧だにせず影の胸へと飛び込んでいく。
それが、自らの生命を刈り取る死神だと知らずに、だ。
「……」
少年の身体は固まったままだ。
目の前には、知人を連れ去ろうとする黒い影ーー。
光一は彼の姿を確かめようとするのだが、揺らめく陽炎を見るように、黒い影の姿がぼやけている。魔術でも見ているかのように、目の前の現実が視認できない。
細長い影の手足が、いやに長く映る。影の顔は見えない。
霞む目を擦って前を向く光一は、不気味な黒い影との距離を測る。
動き出そうと身体に力を込めた光一の全身が緊張したのは、次の瞬間だった。
目の前に閃光が弾ける。
音が伴わない爆発が、辺りを凪ぎ払う。それが、魔力光だと分かったのは黒い影のみ。一切の熱を持たない冷たい光が、その場を制圧した。
咄嗟に後退できたのは、どこかで警戒していたからだろう。ガンガンと響く頭痛に、光一は頭を押さえていた。
いつの間にか倒された身体は、地を這わされていた。
(いきなり、何だったんだ!?)
頭に掠ってでもいたのだろうか。年齢の割には背も高く、体格がいいと言われる光一を吹き飛ばしたのは何だったのか。あの光が何かの現象を現していたのだろうが、それが自分を吹き飛ばしたと考えるには無理がある。
(なんだ? こいつは、何かがおかしいだろ……)
立ち上がったものの、霞む目を前に向けて光一は唸る。
しかし、普段は冷静な彼の思考をか細い声が遮った。
「待って、私も行きたい……」
惚けたような中条の声は、逆に光一の危機感を煽った。
コレは、危険だ。この状況は危険だ。この黒い影は危険だ。この雰囲気は危険だ。
光一は、そう判断した。判断して、行動した。本能的な警鐘が鳴り響く。まだ重く感じる身体に鞭打って、光一は前に出た。
「先輩! だめです!!」
高まる危機感が彼を突き動かしていた。
再び彼女の手を取るべく突進したのは、決して悪い判断ではなかった。たた、相手が悪かったのだ。
伸ばした光一の手は見えない壁に止められる。
中条が、影の元に到達した。寄り添うように立つ二人の姿が、次第にぼやける。少女の顔色がみるみる青白く変わっていく。
(あれは恋人同士とか、そんなんじゃない……。どう見てもヤバすぎだろ!)
少女の吐く息が白く変わる。
もはや、光一にも時間は残されていなかった。影の胸元にいる少女を視界に捉えて、被らないよう死角から肉薄する。一刻の猶予も無かった。
無理矢理動かした身体に、何かを突き抜けたような感覚があった。自分でも危険を顧みない行動だと頭では理解している。
ぬるりとした、嫌な触感が彼の手を阻む。
無礼を承知と放った掌底は、影の胸を捕らえる事は無かった。
「なっ!」
武道館で鍛えた打撃を往なされ、光一は驚愕した。驚愕して、不意に罪悪感が頭をもたげる。
彼は、この世界の住人ではなかった。そして、それが命取りになった。
右手を掴まれる。黒い影が、不機嫌に顔をしかめたように見えた。
その途端に、強い力で光一の右手は引っ張られた。彼の体重など無いかのように影は振る舞う。その余波を受けて、少年は吹き飛ばされた。
同じ方向に自らを飛ばしたのは、光一の驚異的な反射神経だった。判断する時間は無かった。
「うが……、腕が……」
痛みに溢した一言が、影の顔を愉悦に歪ませた。
光一は、右手の変化に目を見張った。感覚が消えていくのだ。
影が掴んだ箇所から、腕の感覚が痺れたように、消えていく。
彼の戦意は萎えていた。痛みと罪悪感から、思考が止まる。二度も地面に投げ飛ばされ、身体にもダメージが蓄積していた。
立ち上がり、この場から撤退するべきだと、本能が繰り返す。
(無理矢理すぎだろ!? 人の利き腕を……)
折れていても不思議ではない先程のやり取りに、光一は唸る。唸りながら、再び立ち上がっていた。
どうするつもりなのか、彼にも分からなかった。
このまま行かせてはいけない、本能的な警鐘だけが彼の味方だった。
(警戒されたし、あと一回だろうな……)
身動きすらしない少女の様子を見て、光一も悟った。彼も馬鹿ではない。むしろ、自分の行動が不当だと分かっている。それでも何かが込み上げてくる。それが純粋な怒りだと分からなかったが、今はそれで良かった。
強い衝動が、自分の中にある。光一は、感覚が無い右手を押さえて意を決した。
黒い影が、ゆっくりと動き出す。立ち去ろうとする影を少年が追う。
怒りに昂る精神が、きっと恐怖を麻痺させたのだろう。光一は、追い縋り、そして黒い影を歪ませた。
痺れた右手で殴りつける。
感覚が無い腕を強引に影と少女の間に割り込ませる。ついに少年の手は中条茉莉花に届いた。
その背後で、異様に長い影の手足が反撃に備えたのもかまわず、光一は言う。
「茉莉花先輩!」
彼の声は、少女の心に届いたのか。
振り払おうとする黒い影の魔手が、少年を襲った。
赤い光が、光と闇を分かつ。
一瞬の錯綜に、理解が追い付く者はいなかった。周辺の魔力が打ち消されていく。
ギチギチと、何か昆虫の鳴き声のようなものが影から聞こえた気がした。それが、影の悲鳴だとは後で知った事だ。
光一は倒れながら、意識が飛ばされそうになるのを堪えるだけで一杯だった。
薄い硝子細工が壊れるような音が響いた。
三度、地面に投げ飛ばされたせいで光一も受け身など取れなかった。喧騒が頭に響く。
痺れた右手を感じないな、と思いつつ少年は意識を失った。
騒ぎを聞き付けた生徒達が駆け付けてくる。
「おい! 君、一年生だろう? どうした?」
「怪我してるんじゃない? ほら!」
「茉莉花先輩!」
口々に上がる異常な光景への反応が、すぐに悲鳴となって真昼の校庭に木霊した。
重苦しい空気が、部屋の中を埋め尽くしていた。
高校の一階にある応接室で、二人の男女が緊張に身を強張らせていた。加藤と春香の二人だ。
高校からの通報を受けて、地元警察署少年課の加藤達が到着したのが30分ほど前の事だ。最初に駆け付けた交番の制服警察官が、事態の不明瞭さに応援を要請し、本署にいた加藤達が来たというわけだ。
現在も事情聴取や現場見聞などが続けられている。
「まずいですね……」
「うぅ……。すみません。やっぱり足りなかったですか?」
加藤が漏らした感想に、春香が敏感に反応する。
「いや、大丈夫ですよ。お嬢さん。僕が言ったのは、今後の状況的な事です」
すぐに気遣ってくれる加藤に、彼女も安堵する。胸元を押さえる仕草が、少女らしさを見せていた。
しかし、疑問は解消しておくべきだと、春香は質問した。
「どう見ますか?」
少し見上げてくるヘイゼルの瞳が愛らしい。
「高校に浸入したのは間違いなく、亜流の魔女が放ったものですね」
加藤の言葉は、二人に逃れようがない事実を突き付けた。
「魔術の痕跡からすれば、彼はよくやりましたね。立派なものです」
「加藤さんも、そう思いますか?」
「ええ。彼は、全くの素人ですよね? その彼が状況は分かりませんが、魔女の放つ刺客を撃退したんですからね。僕らが苦戦した悪霊並みだったかも知れません」
「そんなに!?」
加藤の語り口は穏やかだ。ともすれば、納得してしまいそうになるが、春香は不満顔だ。
「あの魔女は手強い。これで終わりじゃないですよ、お嬢さん?」
「……私は残るべき、なんでしょうか?」
春香は無意識に尋ねていた。仲間意識が強い守護者として身に付けた感覚が、何もできない現状を良しとしないことが伺える。
「それは勿論。そうじゃないと僕らが動けませんからね」
明るく優しい口調は、彼の思いやりか。
「すみません。加藤さん」
「今は他の門弟達が、捜索に参加してくれてますからね。一人じゃありませんよ」
春香は、魔物が少年に向けて放った魔力波動を感知して、現場に駆け付けたのだ。人払いの術式に近い魔術が発動していたが、彼女とて本業なのだ。最短時間で特定し、最短距離を踏破してきたのだが。
そこで見つけたのは、傷つき倒れた二人の生徒だった。
一見して魔物による被害と断定し、他の生徒達に指示を飛ばすや、すぐさま救命措置を施したのが春香だった。
見せる訳にはいかなかった。とても優しい、あの純粋な少女に、直視させられる光景ではなかったのだ。
倒れた少年は、他でもない沙樹の想い人、柳楽光一であった。
そして、少年は魔術による襲撃を受けたものか、右腕が機能不全を起こしていた。組織が壊死しかけており、危うく右手を永久に失うところだったのだ。
(そして、あれは……)
倒れた少女も無事ではなかった。生徒会副会長の中条茉莉花は、昏睡状態なのか倒れたまま呼び掛けにも応じなかった。
そして、その首筋には特徴のある傷跡が残されていたのだ。
「お嬢さん。被害者の少女にあった傷跡の事ですが、気付いてますか?」
「はい……。魔術刻印、ですよね?」
二人が確認する傷跡とは、少女の首筋に刻まれた魔術の痕跡。
「ええ、あれは亜流の魔女が残した魔術刻印。いわゆる”魔女の口づけ“です」
知りたくなかった事実が、二人の会話にのぼる。
春香にとっても同じ高校の生徒、しかも顔見知りに刻まれた魔術刻印など許せるものではなかった。
「まだ意識がありますが、このままだと次第に生命力が低下し、意識混濁を起こして衰弱死するでしょう」
加藤が語る中条茉莉花の容態は、吸収か枯渇の魔術式が発動しているのだろう。守護者の見立てでは、魔女の口づけとは、エナジードレインの一種に他ならなかった。
春香の表情が苦悩に歪む。
(よりによって、沙樹ちゃんが悲しむようなシチュエーションになるなんて……)
光一の怪我は、魔術によるものだと見る者が見れば分かってしまう。親友もまた、看破するだろう。そうなれば、自分に聞いてくる事は明白だ。その時、自分でも嘘をつけない自信がある。
「参ったな……」
光一の怪我や罪悪感など放っておいても良かったのだが、それで沙樹が悲しむのは見たくなかった。春香とて、年頃の少女なのだ。恋する人の身に何かあれば、女心に波風が立たない筈が無いのだから。
「お嬢さん、取り敢えず連絡は密にお願いします。僕も仕事に戻ります」
「はい、加藤さんも気をつけて下さい」
「ここは心配要りません。あなたのお父さんが全て対処してしまいますから」
情報交換と今後の方針を確認して、春香は幾分胸を撫で下ろしていた。後は彼女の領分だ。
春香は加藤を見送り、一礼して退出した。
黒い服の男が、先輩を拐おうとした。そいつにやられた。
意識が回復した柳楽光一が話す事件の内容に、学校はまたも戦慄した。彼の話や目撃状況から、愉快犯などではなく、以前、学生寮に侵入して沙樹を拐おうとした犯人では、との憶測が流れた。学校側は警察に通報を決め、生徒達に全校集会の開催を通知した。
その少し前、誰もいない医務室で光一と相対する春香がいた。
まだ意識が戻らない彼に、ベッドの側まで歩み寄る少女は無言だった。手元にある鈴の音が鳴る。少年を見つめるヘイゼルの瞳は、険を孕んだものだった。
春香は口を開いた。
「……この街はね、もう何年も前から戦場だったのよ」
誰に告げる訳でもない独白は続く。
「いつ終わるとも知れない、誰が勝つとも分からない戦場だったの……」
少女の手が震える。
「ようやく、ようやく私達に希望が見えた矢先に、あなたのせいで台無しになるところだったのよ」
一度強く握りしめられた拳は、仕方なく開かれる。抑えた感情が、少女の胸中で狂おしく波打つ。
「本当に、お邪魔虫よ。あなたなんか……」
固く唇を結ぶ春香の表情は伺えない。それでも、少女は術式を編む。
手元の呪符は、無色の蒸気をあげて少年の右手へと落ちる。誰にも聞かれない少女の言葉は、ただただ中空へと消えた。
新しい年が、良い年になりますよう。




