第20話 魔女ヘレナ1
このペースに、この文字数。今の自分の生活リズムに合ってます。今はこれで……。
其の場所は、光や熱、音といった外部から伝わるはずの何もかもが遮られていた。あらゆるものが届かない空間が、何処までも水平に広がっていた。一切の寄る辺も無く、時間の流れすら不確かな其処は、例えるなら牢獄であった。
(もう、やめて!)
何も無い空間に、悲痛な叫びが木霊した。
受け止める者の無い感情が、ただ暗い空間に消えていく。
(お願いだから、これ以上誰かを傷付けるのはやめて!)
何度でも繰り返される叫びは、喉が嗄れ果てるまで繰り返される。
少女の叫びを聞く者は、いない。
(誰かを傷付けるのを、私に見せないで!)
涙に濡れる少女の声は、暗い空間に消えていくように響いて、消えた。
何度目の願いだったのか。何度目の懇願だったのか。何度目の絶望だったのか。
少女は問う。自分が、いったい何をしたというのか。自分が、いったい誰に迷惑をかけたというのか。
誰の返事も無いまま、胸を焼くような狂おしい想いだけが出口を求めて彷徨う。
幾度も他人を傷付け、苛まれた。幾度も他人を嘲り、後悔に泣いて眠れぬ夜を過ごした。
言うことを聞かない身体は、まるで他人のように動き始め、やがて少女自身を責め始めた。うっすらと覚えている家族の姿形。今にも消えそうな、その記憶。
少女は、あまりにも多くのものを失っていた。
(もう、みんな無くしちゃった……。全部私のせいで……)
何もかも遅かった。少女の想いは、誰に届く事もなく、儚く消えていく。
いつまでも続く嗚咽が、悲痛な叫びにかわっていた。
(お願いだから、もう出ていって!)
繰り返す叫びを聞く者は、其の場所にはいなかった。
反響するように思えたそれは、暗闇に呑み込まれていく。
(これ以上、私を苦しめないで……)
吸い込まれるように消えていく少女の願いは、その場に何も残さず消滅した。
虚無感だけが、全てを支配する。それだけが、暗い空間で全てに等しく寄り添っていた。
「……さっきから五月蝿いね」
嗄れた声が、はっきりと明瞭な音を以て少女の耳朶に返した。
(あなたが! あなたが、全部やったんじゃない! どうして、私を苦しめるの? ねえ、どうして?)
「あんたは、もう出られないんだ。いい加減に諦めな……」
非情な科白が少女の決意を阻む。見えない壁が、暗闇の全てに回されていた。見えない壁があるように、少女は壁の向こうに行けなかった。
この空間の中心にある一条の光が知ろしめす場所には、先程の嗄れ声の老婆が座りこんでいた。
光はわずかな範囲しか照らさず、其処に居る事が出来るのは一人だけであった。
(あなたがそこにいるから、私は何も出来ない! あなたがいるから私は出られない! あなたが……)
「言い掛かりだね。此処には、アタシが居たのさ」
(そんなの嘘! 私の居場所を返して! 返してよ!)
少女の嗚咽を聞きながら、老婆は何も話さない。まるで意に介さないというのか、座ったまま、微動だにしなかった。
少女の声以外に音の無い空間に、わずかな衣擦れの音がした。顔を上げた老婆が闇の一点を見つめる。
「強い者だけが、優れた者だけが陽光の下に出られるのさ。実力が無ければ何も出来ないのさ」
(……※◇★▼▲@☆!)
光射さぬ暗闇に、少女の叫びが閉じ込められていた。いかにも気に障ったかのように、老婆が面を上げた。憐れな犠牲者に呪文を唱えるべく、意識を向ける。
暗闇の向こうに、明らかに動揺した気配があった。
老婆の口が動いた時、声にならない悲鳴が木霊した。
迸る魔力の紫電が、暗闇に拡散していく。
無意識領域の中にある暗闇の世界で、一人分の意識が沈んだ。
「フン、まだ意識が残ってるね。懲らしめないといけないかね」
向けられた老婆の視線の先には、何処までも広がる無明の闇があった。
ビジネス街の朝には、特有の慌ただしさというものがある。一日の始まりがもたらす喧騒は、職場の活気に繋がっていた。ここ、長崎県警長崎署の少年課でも同じような活気が溢れていた。
そんなオフィスの一角に、見知った二人の人物の姿があった。男は紺のスーツ姿が似合う人物で、爽やかな印象を与える好青年。女は明るいグレーのスーツを着こなしたキャリアウーマンといった印象を与える若い女性だった。
ただ、二人とも今日に限っては精彩を欠いていた。
「ねえ、加藤君。どうして、とは聞かないけど。良かったの?」
「何がですか?」
立花の唐突な質問に、加藤は気だるい溜め息を吐く。朝の執務時間に、二人の士気は最低まで低めだった。
「あのお嬢さんの容態、気になるんでしょ?」
「春香お嬢さんの事ですか?」
「春香ちゃん、か。はあぁ~」
立花は机に突っ伏して、項垂れる。頭を抱える素振りを見せながら、彼女は顔を上げた。
「先輩、どうかしましたか?」
「……ロマンスよねぇ。あ~ぁ、身分違いの恋かぁ。全然、羨ましくなんかないもんね」
「大丈夫ですか、先輩? その、主に頭のほうですけど……」
両手を胸の前で合わせながら夢見ていた立花は、暗鬱とした現実へと戻される。
「人のことを痛い子みたいに言わないで! ホントに。それより、この情報……。どこから取ってきたの?」
急に真面目な顔に戻って、立花は質問してきた。心なしか、ジト目になっている。その目を無表情に見据えて加藤が口を開く。
「僕も大変だったんですよ」
「……いま、私達も大変よね?」
「特捜班長から休日返上を言い渡されたのは、僕のせいじゃありませんよ?」
「でも、どう聞いても加藤君が一枚噛んでるでしょ、これ?」
追及する立花に、加藤が下を向く。
「だから、知りません。何度目ですか、もう?」
嘆息する彼の背中に、哀愁のようなものが漂う。
「だって、だってさぁ……。あたしだけ除け者みたいにしてさ、事件の情報を取ってきたじゃない。あたしだってさ、もっとさ……」
「あの女の子達が病院に運ばれたのは、病院で知ったんですよ。何度も言いましたけど」
加藤がもたらした情報とは、行方不明になっていた少女達の消息である。
具体的には、沙樹に告げられた或る事実を元に辿り着いた情報であった。
先日戦った悪霊達の正体が、敵の魔術師が操る生き霊だと知らされた加藤は、怪我も治らぬうちから市内の病院を総当たりで訪ねて回ったのだ。そして、其処に運びこまれた衰弱した少女達を見つけたのである。
自分の治療より、少女達の安否を優先する加藤に、病院関係者が後からVIP待遇で処置してくれる一幕もあった。
「それで、治療中に美人の看護婦さんから手取り足取り教えてもらったわけ?」
「手取り足取りだけ余計ですけどね」
意外としつこい追及に、加藤が自分のデスクで煩悶する立花に目を向けた。
「はぁ~。先輩、そんなに外に出たかったんですか? でも今度の事故で僕の車が全損したの聞いたでしょう? 怪我もしたし。その後も久和参事官に連絡取ったりと、大変だったんですよ」
さも億劫そうに加藤が話していると、立花は期待値以上のリアクションを返してきた。
「……ん? 誰、それ?」
話しの途中に、二人の視線がぶつかる。
「だから、春香お嬢さんは本部の久和参事官の一人娘ですよ」
「へーえ……えっ? ちょっと待って。久和参事官って、あの本部のシンクタンクの?」
「そうですよ。先輩も知ってますよね?」
噛み合わない話しに、加藤が聞き返すと、立花の顔に冷や汗が浮かぶ。
「あの長崎県警を支えてると言われる本部お抱えの五人のうちの一人ってこと……、だよね?」
「先輩、ひょっとして知らずに話してたんですか?」
「ひえ~。あの頭脳派のねぇ」
今一噛み合わない会話をする二人は、これもポイントがずれた結論に達した。
加藤には、ある意味どうでもよかったが。
昨夜から考え続けた思考が、同じように答えが出ないまま繰り返されていく。彼にとって、春香の容態も案ずるべき対象だったが、むしろ彼女の今後こそが、より重要な問題になっていた。
彼もまた、春香の呼び出しを予期していたのだ。そして、彼女の父親である久和隆則から館の住人からの呼び出しについて知らされた経緯があった。
そればかりか、春香は事件に関しても注目を集めていた。重要参考人の目撃者として、名前が捜査線上にあがってしまったのだ。それを何とか上層部の目から剃らさなければならなかった。
加藤の気苦労は増えるばかりであった。
(春香お嬢さんが、行方不明の少女である日野貴理子を見つけたのは、恐らく事実だ。問題は、彼女がどうして警察署から逃げ出したのか………)
加藤は少しのミスも許さないと自分に言い聞かせながら、これまでに分かった事実を検証していた。
彼が掴んだ事実とは、魔術の痕跡である。春香に聞いた話では、彼女は失踪していた少女を保護して自分に引き合わせるべく警察署まで連れてきたのだという。
しかし、実際には加藤は少女には会っていない。春香が連れてきた時、彼は捜査のため外出先にいたのだ。失踪していた少女を引き受けた署員の特定は出来ている。加藤の同僚だからだ。ただ、彼は少女に関する記憶を無くしていた。その日、その部分だけが、すっぽりと抜け落ちるかのように思い出せないようだった。
強力な暗示による記憶操作。これが加藤が掴んだ魔術の痕跡であった。
(せめてもの救いは、日野貴理子を引き受けていたのが、捜査本部の人間じゃないことだろうか……。魔術絡みである以上、一般人には荷が重い。しかも、この相手は危険な匂いがする。あの悪霊といい……。厄介な相手だ)
加藤の脳裏に鮮明に浮かび上がる過日の記憶。屈辱感と共に沸き上がる感情は、彼の闘士に火を着けるに十分だった。
「ちょっと加藤君、聞いてる?」
立花の声に、加藤が現実に引き戻された。頬を膨らませて、こちらを睨んでいる彼女は、十代の少女に見える。
「すいません。あんまり寝てなくてですね」
「むう。先輩の話を聞かないなんて、いい度胸だわ」
苦笑する加藤を年上の彼女が睨む。
「よおし。其処になおれ!」
まったく迫力の無い立花の啖呵に、加藤はニヤつく頬が弛むのを止められなかった。
「勘弁してください」
なんとも微笑ましいものを見る彼の目付きが、彼女の女の勘にヒントを与えた。
「何よ、その生暖かい目は! だいたい加藤君は私と同い年でしょ?」
「それが一番の不思議ですよね、ホント」
「ちょっと! 三ヶ月差でも私のほうが人生の先輩なんですからね!」
盛り上がり始めた二人の会話を遮るように、館内放送が流れた。心なしか、二人の士気に変化が現れる。
「捜査本部から連絡します。従事員は、会議室に集合してください。繰り返します。捜査本部から……」
待っていたものが来たのか、立花が手を止めて立ち上がる。
「加藤君、行くよ!」
「……ええ。行きましょうか」
デスクから立ち上がる二人の姿に、少年課の皆が叱咤激励の声をかける。
声援に応える二人の後ろ姿には、休みが無くなったとボヤいていた面影は何処にも無かった。
坂の上の館には、優しい午前の光が降り注いでいた。
館に主人が帰ってきた事実は、丘の上に建つ洋館に活気を取り戻させた。
館からの眺望は、風光明媚な自然の広がりと街の様子を一望にできる。逆に、街からも丘の上を仰げば視認できるそれは、この街の歴史に関わる偉容として人々に認識されていた。
そして、其処に住む者も建物と同じく街の歴史に関わる要人との認識が、いつの間にか人々の間で生まれていた。
明るい日射しが窓から差し込む広間で、男は椅子のひとつに深く腰掛けていた。魔術の園に関わる者で間違い無いのだろうが、年齢は三十代後半だろうか。背も高く黒い背広を着ており、目もとの涼しい理知的な雰囲気を持っていた。
紳士的な容貌が示す通り、物腰は品格を持ち合わせていた。
男は無言のまま、広間の時計に目を向ける。
三針が動いているそれは、正確に時を刻み続けている。
何かの合図を受けたのか、徐に男は椅子から立ち上がると正面玄関のほうに移動していく。
赤い絨毯の上を歩き、視線を玄関の扉に置く。まるで、そこから誰かが入ってくるのが解っているような動きだった。
程なくして、玄関の扉が開く。男は一礼した。
「これは遠路はるばるようこそ、支倉の館へ」
男のお辞儀を受けた者は、年老いた老婆と言える女性であった。
外の光に人影が浮かんでいる。丁寧な男の応対を意に介さず、老婆が切り出す。
それは、物騒な用件だった。
「さあ、小娘を出しな!」
「さて、そのような申し出を受ける謂れは有りませんが?」
男の応対を不満に思ったのか、老婆が感情を昂らせる。その声には、怒りが込められていた。
「一昨日、さんざん追い回しておくれだね! あんな屈辱は生まれて初めてさね」
眼前の男に言い放つや、懐から刃物を抜き出す。ギラリと光る刃先は、冷たい鋼の輝きを放っていた。
「片斧とは、珍しいものをお持ちだ」
「知ってるのかい?」
老婆が手元で片斧を振り回す。手慣れた様子から、老婆の殺伐とした”気“が漏れてくる。
「さて、困りました……。色々とタネを明かしてくださった御客様に何の歓待も無しでは、私が主に御叱りを受ける事になる」
漏れてくる殺気に、男は何の威迫も受けている様子はなかった。余程戦いに慣れた者か、自らの危機に鈍感な者か。表情が読めない男の振る舞いに、老婆が警戒心を露にする。
「……あんた。どうやら、見かけ通りの姿じゃないね? それに、その口振りじゃ、一昨日の事にも関わってる。だったら、あんたも殺るしかないかね」
シャラリと衣擦れの音が、男の耳に届く。戦闘体制に入った老婆の目に、現代人には無い殺戮本能の昏い情動が見える。
老婆の羽織る魔術師のローブには、生成りの麻生地に小さな黒い幾何学模様の細かい柄が見える。ギリシャ様式のそれを男は冷静に確認していた。
館に入り込んだ老婆の姿が、完全に男の視界に入った。
男の目に、魔術に絡む赤い光が宿る。
「私は一言も関わっているなど言ってませんが?」
「フン、惚けようってのかい?」
「これはなんとも気難しい方だ」
男は微笑みすら浮かべて、老婆の殺気を去なしている。既に館の広間には溢れかえるような殺気が充満し、今や遅しと放たれる時を待っていた。
そんな望まれない来訪者の放つ”気“を軽くあしらうと、男は改めて老婆に正面から向き合った。
上着のポケットから銀色の懐中時計を取り出して時間を見る。その目には、狂喜と取れる光が宿っていた。
「さて、確認しますが出直す訳にはいきませんかな?」
「なんだい? 今さら命乞いなら聞かないよ?」
「とんでもない。そのような無粋な真似はいたしません」
老婆の睨め付ける視線を流して、男は飄々とした口調で返した。しかし、そこを境に男の様子は一変した。
「主と猫が不在であったのは、私にとって僥倖だった。主は血を好まないからな」
声色も低く、明らかに口調の違う男の言葉に、むしろ老婆の口角がつり上がる。
「フン、言うじゃないか。どうやら、楽しませてくれそうだね」
利き手に持つ片斧の刃が、老婆の殺気を宿して鈍く光る。
戦いを控えた男の口から出たのは、また意外な言葉だった。
「ククク……。死者ごときに渡せるか。沙樹は、俺の獲物だ!」




