第17話 魔術戦Ⅱ1
まだまだ、と思いながら……。時間がアリスの兎のように逃げて行く。何故?
高まる興奮と熱を冷ます悪寒が、波のように際限なく不安を掻き立てる。市街地から逃げ出した沙樹は、南山手にある観光地の一角に辿り着いていた。
グラバー園。
日本最古の木造洋風建築として有名な、貿易商トーマス・ブレーク・グラバーの住居を始めとした建築群。長崎市が造船所や個人から譲り受ける等して、観光地として開発したそれは、現在では施設の年間入場者数が百万人を超える。
その園内に、陽光傾く空を背景にして、一人駆けていく沙樹の姿があった。
観光客から伸びる人影の合間を縫うように駆ける彼女は、周囲とは存在感が乖離していた。まるで咲き誇る花の上を飛び跳ねる泡沫の妖精のように、音もなく移動する。
人々の目に触れず、止まる事なく駆けゆく様は、ライトアップが始まった園内の景観とあわせて、人に有らざるかのような一種幻想的な趣さえ見せる。
黒髪の緩やかなウェーブが風に煽られ、まだ柔らかな赤光をはじいている。影絵のように陰影を濃く描いてなお、少女の美貌は可憐で、そして凛としていた。
淡くアークライトが点灯し始めた園内に、黄昏時の景色が浮かび上がる。
逢魔が刻。僅かな時間だけが織りあげる自然の魔術に、見る者全てが魅了されずにいられなかった。
園内の何者にも捉われず、軽やかに妖精が走る。
如何なる魔術によるものか、少女の存在感は稀薄となり、人目につかなくなっていた。その証拠に、通常の入園時間を過ぎているにも関わらず、個人識別票無しで入園ゲートに何の障害も発生していない。電子の目を欺いてなお、急ぐ理由は余人には分からなかった。
妖精のような少女が立ち止まったのは、園内の奥まった場所にある施設、旧三菱第二ドッグハウスの前であった。
ハウス前に広がる池の水面に、美しい黄昏時の風景が映る。
「……もう、いいでしょ?」
息が上がる沙樹の声に、傍らから別の声が応えた。
「まずまずの広さではあるか……。主よ、ここでよい。非常時にと渡していた硝子瓶はあるか? あれば、その封を切って中の液体を地に落とすのだ」
沙樹は言われるまま、昨夜のうちに館で渡されていた硝子瓶を取り出す。大きな魚がハート型の容器を下から支えているデザインのそれは、薄い赤色の硝子細工で出来ていた。
其の封を切って、瓶を逆さまにする。
容器に入った粘性の高い液体が、ゆっくりと膨脹していき、地面に一滴の大きな雫が落ちる。
鈍色の雫が、沙樹の足元へと落下する。
ポタリ、と小さなはずの水滴の音が、やけに響いた。その残響が波紋となり、沙樹の足元に多重円型の魔法陣が発動していた。
色彩の無い魔術の行使を主人と従者が共に確認する。
「主よ、後は魔法陣から出ないことだ」
先ほどの声の主が、彼女の足元に現れる。白と黒、斑と縞の織り成す肖像は、蛇の姿を与えられていた。
「すごい……」
「幾つかの金属を混合して、密封した容器の中で融解させる時に発生する金属蒸気から作られる触媒だ。精製された水滴が、単純化された詠唱を与えると、反響を繰り返す効果を持つためにこのような事が可能になる」
錯視の蛇が、放射円状に何重にも広がり、今も蠕動する魔法陣を指して沙樹に講釈する。魔法陣には見たことも無い文字や図形が並び、パズルのピースが埋まっていくように内側から完成していく。
充分に広がった自陣に、錯視の蛇が気を良くした。
「主よ、『魔法の書』をしかと持っておくことだ」
「これのことね? うん、分かった」
沙樹は、学生鞄から取り出した黒革の装丁が施された本を手にした。本は薄く、鍵こそ付いていないが、表面に装飾が施されており、上質でありながら魔術の園に関わる独特の雰囲気を放っていた。
「その魔術媒体を手放せば、主の身に危険が及ぶ。その本は魔術行使のための触媒であり、また安全装置でもある」
不安な顔を見せる沙樹に、錯視の蛇がゆっくりと頭をもたげ、視線を合わせた。
「主よ、心配無用だ。我が身体が千切れ飛ぶか、魔力が涸れ果てるまで魔法陣が破綻する事はない」
「うん……。頑張って、ウロボロス」
「ククク……。我が魔術の一端、篤とご覧あれ」
思わぬ主人からの激励に、蛇が蠢く。
(主と我の間には、使い魔となった時から既に魔力供給の回路がある訳だが……。後は、主に捧げる贄として、相応しいものであれば良いが……)
迎え撃つ魔法陣は万全。主の庇護を受け、錯視の蛇は北叟笑んだ。
(来るがいい……。汝等は反逆者にして、哀れな神の子羊にすぎないと知れ!)
蛇の目に、赤い光が宿る。凶悪な笑みを中断させたのは、主人の一言だった。
「なにかしら?」
沙樹の指し示す方向に、迫り来る悪霊の影を捉えた。蛇の眼に、空間の歪みが見える。夥しい魔素の尾を引きながら、此方に向かって線を引くように近付いてくる。遠目にやっと見えていた程の影が、みるみるうちに距離を詰めて増殖していく。
全方位から集まる影は、大小あわせて軽く二十を超えている。
その様子を見て、蛇の口から低い威嚇音が漏れる。
衝突は、まさに邂逅と共に始まった。
魔法陣最外円の模様の上を光の粒子が走ったかと思うと、見えない壁が侵入者を阻む不可視の壁を生み出す。
何者をも寄せ付けない防御効果は、風の流れすら遮断している。蛇が自慢するだけの事はあった。
「ククク……」
不気味に笑う蛇の目に、赤い光が明滅していた。その赤光に、狂気が見え隠れする。
複数の効果を持つ多重円型魔法陣が、一次術式を発動していた。
威嚇を続ける蛇に気付いたのか、悪霊とおぼしき霊体が集まるや、猛然と円の中心部へ殺到する。耳障りな金切り声をあげて、見えない障壁に突入していく黒い霧の群れは、次々と見えざる手に払われるが如く、力を削がれ、去なされていく。
次々と魔素が弾け、飛び散る様は、甘い蜜に群がる蟻の群れを連想させた。広がる魔素のためか、周囲の気温が下がっていく。
沙樹は自分を取り巻く光景に、息をのみ立ち尽くす事しか出来なかった。
迫り来る黒い霧の群れが、おぞましい霊体である事を示す確かな証拠が見えているのだ。魔法障壁にぶつかるたびに悲鳴を上げる悪霊の姿が、次々と沙樹の瞳に写し出される。
自身の持つ魔眼の力がそうさせるなど思いもよらず、沙樹は手に持つ魔術媒体を落としそうになっていた。
(あの夜、私を襲ってきたのって……)
魔術媒体を持つ沙樹の手に、あの日の冷たい感覚が甦ってくる。手に力が入らず、震え出しそうになる。
魔法による戦闘を初めて目の当たりにするが故に、彼女は目を逸らす事が出来なかった。卒倒してもおかしくない光景に、頭がついていかないのだ。彼女を知る者がいれば、パニック状態だと言うかも知れない。
それでも、沙樹は耐えるしかなかった。
その主の傍らで、悪霊共を殲滅すべく錯視の蛇が気色ばむ。
蛇の眼が赤い光を放つと、魔法陣が反応して障壁の内側に新たな効果を生み出していく。
足元の模様や文字が入れ替わっている事に、蛇の敬愛する主は気付かない。
「ククク……。主よ、見ているか?」
蛇の呼び掛けに、沙樹は返す声も出ない。
障壁の向こうでは、とても常人には耐えられない大量の魔素が溢れ返っていた。急激に下がり続ける気温差に、沙樹は身震いして我に返り、慌てて魔術媒体を持ち直した。
「さあ、踊れ!」
蛇の放つ声に、魔法効果が切り替わった。二次術式の発動により、障壁が消え、悪霊が拡大した魔法陣の内側に入るや魔素を減らし、そして消滅していく。
黒い霧状の魔素が、一瞬で消滅する。
霊体に対するエナジードレイン。蛇の仕掛けた魔法陣の真なる効果が、悪霊達を衰弱させ、一気に殲滅していく。
「反逆者共よ! 我らの主に刃向かう罪、万死に値する!」
錯視の蛇の声が届いたかどうか。沙樹は視界から消え失せる霊体群の消滅に、やっと自分を取り戻した。目の前には、魔素を減らして消えていく霊体が踊るように足掻いている。
声無き断末魔に、沙樹は思わず耳を塞いでいた。目を閉じ、瞳に写り込むものを否定しようとする。足掻く悪霊達の姿に、女性的なシルエットが幻影のように重なって見え隠れする。
自分の従者である蛇が行使した魔術に、沙樹は魔術の園に関わる非情な現実を見た気がした。
「まだ、何匹か残っているか……」
錯視の蛇の低い威嚇音が、沙樹の意識を現実に引き摺り戻した。
「主に敵意を向けた以上、帰すわけにはいかぬからな」
「……ウ、ウロボロス、待って」
沙樹の声は力無く止まり、従者には聞こえていなかった。
「お前達など、主に踏み潰される価値すらない」
多重円型魔法陣の上を光の粒子が再度なぞり、エナジードレインが発動した。黒い魔素が、空気中に溶け出すように拡散していく。暴力的なエネルギー転移を強制する魔術に、巻き込まれた全ての存在が悲鳴を上げる。
「まだ足りぬ! 我が主に捧げる贄は、まだ足りぬぞ!」
軋みを上げるように悶える悪霊達が、霊体ごと分解していく。
「仲間を呼べ! 抗え! お前達の魂に、恐怖と絶望を刻め!」
「ウロボロスっ、待って! もうやめて!」
沙樹の声に、錯視の蛇が従いながらも赤い双眸を向ける。窘めるような口調に、隠しようもない怒気が含まれている。
「主よ、そうやって情けをかけて後で生命を落とした魔術師は星の数ほどいるのだぞ!振り上げた刃物が当たらなかったからと、自分の生命を狙った殺人犯を逃がすつもりか?」
「違うっ、違うの!あの黒い霧みたいなのは、違う……。殺さないで!」
「主よ、何を言っている? あれは亜流の魔女が使役するものに間違い……」
「あれは、魔女の使い魔なんかじゃない!ただ、巻き込まれてるだけよ!」
沙樹の証言に、錯視の蛇が沈思黙考を始めた。続けられる彼女の独白に、無視出来ないものが含まれていたからだ。
「見えたの。あの黒い霧は、私と同じ……。行方不明になっていた女の子達よ」
沙樹の瞳に、青く揺れる輝きがあった。彼女の魔眼に映された真実が、残酷な事実を告げていた。震えだしそうになるのを堪えながら、沙樹は固く右手を握りしめた。
どうすればいいのか答えが皆目わからない問いに対して、彼女は必死に考え続ける。
数時間前、高校の応接室で見せられた写真の中にあった女子生徒達の姿が、彼女の脳裏に浮かんでは消えていく。
「お願い、助けてあげて! 出来ないなら……、せめて逃がしてあげて!」
主人の懇願に錯視の蛇に否もない。唸りを上げる魔法陣を一瞥して、蛇は主人の顔を見た。
「……主よ、敵が利用した者達を助けよと?」
「だって、あの子達は利用されてるだけなんでしょう?助けてあげて……ウロボロス」
迷いの無い沙樹の瞳に、蛇の赤い目が次第に色を失っていく。彼女の魔眼が齎す副次的な効果に、使い魔の精神をある程度だが制御する作用があったことが幸いした。
「主命とあれば、やむを得ぬが……。では主よ、この魔法陣の魔術媒体である『魔法の書』をこちらへ」
「……うん。お願い。これでいい?」
手渡された『魔法の書』を頭上に出した小さな魔法陣で受け取ると、錯視の蛇はエナジードレインを無効化した。足元の魔法陣に浮かび上がる文字や図形が、目まぐるしく代わる。
「我が主の慈悲に感謝する事だ」
いまだ魔素を散らしていた数匹の霊体達が、蛇の言葉を聞いたかどうか。魔術の楔から解き放たれた黒い霧は、その密度を減じて黄昏の空に消えていった。
最早、大きく力を削がれた悪霊達には空が茜色に染まり始めたことさえ分からなかったことだろう。霞むような姿は、魔法陣の束縛を逃れて直ぐに掻き消えていった。
今、沙樹達の周囲には茜色に染まり始めた空が池の水面にまで映り混み、輝くような光が溢れていた。魔法陣の紋様は、光の粒子と共に小さく、細く消えていった。
その場には、沙樹達の姿だけが残った。彼女の華やかな顔立ちも、精神的な消耗が見て取れる。
「……終わったの?」
「いや、まだだ。主よ、もう一度妖精の輪を使う」
「どうするの?」
主の問いに、使い魔が答えた。
「この地に潜り込んだ亜流の魔女に、一泡吹かせるのだ」
どうやって、とは沙樹は聞けなかった。魔術に疎い彼女が知る範囲では、ここに来る時に使用した妖精の輪さえ神秘のひとつなのだ。
錯視の蛇が告げる言葉に、沙樹は驚嘆するしかなかった。
「このまま、亜流の魔女とやらに会いに行くとしよう」
月が代わる前に、と頑張ってましたが本当にギリギリでした。




