第11話 覚醒:青眼の魔女1
今回、はじめて二話同時投稿です。
「それでは沙樹様、準備はよろしいですか?」
翌朝、坂の上の館に黒猫の姿があった。既に館の一室には、沙樹の教導を始めるための準備が整えられていた。陽も高いというのに外光を遮って、間接的な照明のみが室内を照らしていた。
薄明かりが灯された室内には、家具や調度品が一切なく、在るのは床に敷かれた黒い絨毯だけという有り様だった。
部屋の中央部分に敷かれた絨毯には細い金線で魔法陣が描かれ、その中心に沙樹が立っている。
黒い瀟洒なワンピースを身に付け、緊張した面持ちで沙樹が頷いた。
「だ、大丈夫……」
沙樹の返事に、猫が丁寧に説明する。
「沙樹様、これから行うのは儀式魔法です。定められた作法に従い、行うもので危険性は有りません。ただ、沙樹様の適正が分かるのです」
「うん。分かってる」
「古くから魔術に携わる者が通る通過儀礼です。我等がついております。ご安心を」
猫の声が終わると同時に、蛇が首をもたげ円環魔法がゆっくりと作動する。
ボウっと何か火が着いたような音と共に、魔法陣が輝き始める。一辺が2メートル以上ある絨毯に描かれた精緻にして複雑な紋様は、魔力を集め、空間に固定しようとしている。
周囲の空気が、熱を帯びたように舞い始める。
徐々に熱気を帯びていく室内に、沙樹の表情は涼しいままだ。彼女の変化を見逃すまいと、黒猫と蛇が注目する。
魔法陣は蛇が敷いたもので、気圧差を利用して微物を集めるかの如く、周囲に変化を起こさず円環内の魔力循環を制限していた。魔力の放散を規制して指定された圏内に留める。
その術式がもたらす効果は、沙樹の身に熱気に似た感覚として体感されていた。
付与された効果を受けて、魔法陣の中は次第に魔力が高まりつつあった。
その様子を注意深く見つめながら、猫が傍らの蛇に言った。
「魔力溜りの中で、精神の均衡を保っていられる時間は短い。亜也様を凌ぐ才能と資質がどう現れるか……」
猫の心配を他所に、蛇が魔法陣を制御しながら返答する。
「主は十分安定している。心配あるまい……」
「それでも、だ。沙樹様個人の臨界量が分からない以上、心配は尽きないのだ。とにかく、無事に儀式を済ませていただかなければ……」
使い魔達の予想を超えて、沙樹は魔法陣の中心で微動だにしなかった。魔力溜りはいよいよ密度を上げ、魔術の深奥へと近付いていく。深奥とも根源とも呼ばれる領域に向けて、沙樹を包む魔法陣が静かに唸りをあげていく。
「沙樹様、まもなく一般的な魔術師達が持つ魔力の飽和量となります。変わり有りませんか?」
「肌に何か熱っぽいものを感じる。でも、熱くないわ」
「では、そのまま身体の内に意識を向けて下さい。呼吸を、脈動を感じるのです」
儀式魔法は正常に発動している。沙樹から感じる波動には、まだ変化は無かった。高まり続ける魔力の渦が密度を上げていくなか、涼しい表情をした彼女の顏が印象的でさえある。
まだ館に来てから一日。沙樹の踏み込んだ世界は、今や人智の及ばぬ世界へと変貌しつつあった。
「身体中を廻る血液の流れを感じたら、次は血流に沿って動く気の流れを感じてください」
使い魔の言葉に、沙樹が反応する。
「そして、身体の中心に流れが集まる箇所を見つけるのです」
心配する黒猫の様子を見て、蛇が告げる。
「猫よ、魔力溜りは通常の二倍近くに……」
「分かっている。沙樹様の体内魔力が高いせいで生半可な魔力量では変化が訪れないのだ。沙樹様ご自身が、内なる領域に到達出来なければ儀式は失敗する……」
黒猫の翠の双眸は、魔力溜りの中に立つ主の体内魔力が反応しつつある事を捉えていた。
「チャクラに霊光の兆しさえ出れば、私が補助することも可能だが……」
心配する使い魔の呟きなど聞こえる筈もないのだが、主を見つめる二匹の眼は沙樹の一挙手一投足を確認している。唸りをあげる儀式魔法は、魔法陣の中に濃密な波動を練り上げていく。
集まった魔力の塊がいびつに歪んで、魔素が生まれる。少しずつ魔法陣の中で数を増やし、黒い霧のように靄がかかる。既に魔力濃度の差異から対流が起こっているため、魔法陣の中は黒い魔素によって視界が悪化していた。
魔法陣を制御している蛇が、物質が崩壊する際に出る特有の魔力波動の波に反応する。
「猫よ、そろそろ魔力過多による影響が出る。主の身が危険だが……」
「分かっている。私の眼も捉えている」
集中した沙樹の表情を見つめたまま、使い魔達は体内魔力の”螺旋“の動きを待っていた。
「沙樹様のムーラダーラ・チャクラが回りさえすれば、稀代の魔女が誕生する。全てが変わるぞ」
使い魔達の期待から数刻前、沙樹は黒猫による教導を受けるため、この館の一室を初めて訪れた。飾り気の無い室内は、ネオバロック様式の建築物に相応しい質実剛健な造りから、むしろ重厚な雰囲気を感じるものだった。
沙樹が受けた印象そのままに、広い室内に敷かれた高価そうな絨毯には二重の円陣が描かれている。黒地に繊細な金色のラインと見たことも無い文字が描かれ、絶妙なバランスを構成している。
使い魔に言われるまま靴を脱ぎ、素足を載せた沙樹は、ふわりとした感触を足裏に感じた。
(何だか気後れしそう……)
しかし、戸惑う暇もなく、儀式魔法の始動に備えて使い魔の声が掛かる。慌ててOKだと告げる彼女の声は、裏返ってしまっていた。恥ずかしさに鼓動を速める胸を抑えて、沙樹は意識を儀式に向けて集中した。
自身の内部に意識を向ける。今までやったこともない課題に、沙樹は自分が挑戦者のような気持ちで、儀式に臨んだ。そうしなければ、不安に押し潰されそうだった。
(落ち着いて、動きを止めて。先ずは心臓の鼓動を聴いて……)
ボウツと何かが音を立てる。しかし、周囲の音に意識を向けると内なる領域に踏み込めない。使い魔達の教えた通り、沙樹は眼を閉じて課題に集中した。
長く感じる時間と共に、何かが彼女の回りを取り囲む気配がする。眼を閉じているため、見ることはできないが、確かに感じるものがあった。
風の流れを感じるように沙樹の周囲に高まるものを感じていた。
「沙樹様、まもなく一般的な魔術師達の魔力飽和量となります。変わり有りませんか?」
黒猫の声を聞いて、沙樹は先程から感じる周囲の変化を告げた。
「では、そのまま身体の内に意識を向けてください。呼吸を、脈動を感じるのです」
難しい事を簡単に、事も無げに説明する黒猫の声を聞きながら、沙樹は自身の内なる声に耳を傾けていた。心臓の鼓動に合わせて、自らの意識を集中させていく。
使い魔達が告げた自身の素質が本当なら、母親の進んだ道を辿る遍路となるはずだ。
音もなく、光もない内なる世界。
沙樹は、自分がこれまでにないほど難しい課題に挑戦した事を知った。
(考えちゃダメ。鼓動を感じて……)
まだ内なる領域に踏み込めない彼女の思考は、ひたすら同じ事を繰り返した。
全神経を頭の先から爪先まで張り巡らせる。
何も見えない内なる世界は、彼女の不安を写しとるかのように暗い。その世界で最初に知覚できたのは、沙樹自身の呼吸だった。やがて胸の上下動が呼吸に合わせて感じられるようになり、確かな体感が暗闇の中にあると実感した。
そこで、何か閃くものがあったかは分からない。ただ、彼女は得られた体感から意を強くして、両腕を広げた。
沙樹は知る。眼を閉じた世界が、これ程険しいのかと。
本能が闇を恐れる。生物が持つ本能的な衝動を理性と意思の力で捩じ伏せなければならない。
彼女が眼を開ければ光は戻るだろうが、儀式は失敗するのだ。沙樹は、自身の呼吸と脈動を辿り続けた。血管の中を流れる血液が走る度に、心臓から指先まで流れていく感覚を追う。そうする事で、初めて脈動を捉えた。
(さっき儀式前の説明の時に、身体には血の流れに合わせて気が流れてるって。体内にもあるはずだから、きっと気の流れを掴める。ううん、掴まなくちゃ……)
体内における血液の流れとは、違う流れを沙樹は懸命に追った。
確たるものを目指して、沙樹は利き手に集中した。右腕だけに意識を傾ける事で、さっきより効率的に探れているはずだ。目に見えない世界の事象を感覚を頼りに見つけていく。
魔術の基本的な考え方に通じると、黒猫が言っていた。頼るべきは自分だけ。厳しい言葉だが、彼女にとっては当たり前の事に思えた。
沙樹自身の思考は、内なる領域を探る事のみに費やされた。
高まる圧力のようなものを肌に感じて、冷めた意識で懸命に集中する。
しかし、その努力は両腕に感じるの痺れのような疲労に塗り潰されていった。彼女の意思とは裏腹に、広げていた両腕が重力に抗えなくなってくる。
(両手が……)
沙樹は息を抜くように両手から力を抜き、重力に引かれるままにする。自然と深呼吸の要領で両手は身体の前で交差した。
(いまのは?)
室内に風は吹いていないが、何か利き腕に感じるものがあった。
(今、右手に何か……)
沙樹は右腕だけ肘を曲げて掌を顔の前に持ってくる。見ている訳ではないが、手を握りこぶしを作ったり、また開いたりする。そして、再度その手を重力に任せてみた。
彼女の表情に変化があったのを使い魔達は見たかどうか。
蛇が魔法陣に表れる物質の崩壊に特有の波を見つけて猫に告げる。
「猫よ、そろそろ魔力過多による影響が出る。主の身が危険だが……」
「分かっている。私の眼も捉えている」
使い魔達の心配を他所に、ゆっくりとした動作で沙樹が両手を広げていく。
確信めいたものを心に宿して、彼女は内なる領域へと意識を傾ける。
時間が刻々と過ぎていく。
沙樹を中心に構成された世界の中で、視覚では捉えられない領域における魔力と時間の鬩ぎ合いが続く。使い魔達が見守る中、儀式魔法はいよいよ佳境に入っていた。
「沙樹様のムーラダーラ・チャクラが回りさえすれば、稀代の魔女が誕生する。全てが変わるぞ」
黒猫の言葉をきっかけとなったのか、沙樹自身の内なる領域の一点に魔力が集中し始めていた。次第にはっきりとした気の流れを形成しながら、沙樹の体内魔力が中心に向けて動いている。
「沙樹様のクンダリニーが動いた! 蛇よ、捉えているか?」
「魔力の波動が理想的な形に近づいていく……。何故だ?! まさか、覚醒前から人体の黄金比を体現しているのか?」
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた〈ウィトルウィウス的人体図〉には、裸体の男性画だけではなく、人体が持つ神聖比率こそが描き示されている。
黄金比。1.618。
頭から床までの長さを計り、その長さを臍から床までの長さで割る。他にも肩から指先までの長さを計り、その長さを肘から指先までの長さで割る。そこには必ず、黄金比が表れる。
身体の各部の関係性を発見した古代人は、隠されていた世界の基本原理を見いだしたと確信した。誰の眼にも明らかなそれは、古代ローマ人建築家の言葉以外にも様々な人物が後世へと遺している。
沙樹の周囲に表れる波動。濃密な魔力が満ちる魔法陣の中だからこそ視覚的に捉えることができないが、先程までの彼女のそれとは比べ物にならない波が周囲に起こりつつあった。
起点となる一列のチャクラが、いまや魔法陣の中にあってなお、鮮烈な波動を放っている。七つの花弁が花開き、互いに共鳴し合っている。そのさまが、魔法陣の中に立体的な光の波動を産み出す。その一部始終を結界の扱いに長けた蛇の視覚が捉えていた。
「蛇よ、魔法陣を開け! 沙樹様の補助に入るタイミングだ!」
黒猫の一声が合図となって、魔法陣の陣形が変わる。
紡がれた光の糸が煌めく星を夜空に編むように、黒猫の魔法が集積した魔力の塊を解いていく傍らで、中心にいる沙樹の発する波動がいよいよ輝かしい夜明けの光であるかのように強く、強く輝き出す。
「チャクラの霊光が、これ程までに強く輝きを放つとは。やはり亜也様の血筋だ」
「猫よ、急げ! 主が自らを恐れる前に早く!」
「分かっている。」
変容した魔法陣から一気に大量の魔力が流れ出す。黒い霧が部屋中に拡散し、同じく大量の魔素が辺りに飛び散る。
その魔素の最も濃い場所へ、黒猫は一瞬で駆けていった。高濃度の魔素を浴びて平然とする黒猫は、闇の一点を見ていた。翠の双眸が怪しく光っている。
「沙樹様、大丈夫ですか? 儀式は無事に成功しました。沙樹様、お声を!」
「うっ……。メフィスト、なの?身体がいきなりで、私このままじゃ……」
「無理に止めようとしてはいけません! 魔力が身体を流れるままに任せるのです! 直ぐに身体に何らかの兆候が現れます。それまでの辛抱です!」
沙樹の波動が脈動に合わせて大きく揺れる。
「メフィスト……。でも、さっきから眼の奥が熱い。なんとかして!」
「眼を押さえつけてはプラーナの流れが狂います。あと少しの辛抱です、沙樹様!」
「でも、眼がっ……。ああっ……」
ようやく晴れた魔法陣の中では、沙樹が両目を手で覆っていた。使い魔の声にも反応する余裕がないのか、身を屈め、痛みに耐えている。
「蛇よ、主は無事か?」
魔法陣の制御のため遅蒔きながら、沙樹の元へと参じた蛇が尋ねる。
「七つのチャクラが活性化している。視神経にプラーナが影響を与えているのだ。沙樹様の御様子が……。これでは、視力に何かしらの影響が出るかも知れぬ」
使い魔達の声も届かぬまま、沙樹は一人で何時終わるとも知れない痛みに耐え続けていた。




