その八(解決編)
18
チャイムが鳴った。
ドアを開けると、そこには松浦と各務の二人が立っていた。
「これから署まで御同行願えますかな?」
「はて、どういった理由でしょう」
「貴方には、吾妻彩子さんの遺体損壊に対する容疑が掛かっています」
「一応釈明しておきますが、私は彼女を殺したりはしていませんよ」
「その点は分かっていますが、彼女の所有物である『山菜入門』という本が消えた・・・と申し上げれば御同行いただけますか」
「刑事さんの仰られている意味が、私には解りませんが・・・」
その返答は、松浦の予想した展開を外れるものではなかった。松浦は自信を持って、予定していた次なる台詞を述べた。
「彼女の持参していた『山菜入門』が殺害現場からは消えていた。あそこにあった『山菜入門』は外見が同じように見えても、中身に大きな違いがあった。これならどうでしょう?」
「そこまで分かっているのならば、逃げ隠れしても無駄のようですね」
そう答えたのは、鐘見であった。
19
鐘見はほとんど抵抗も反論もすることなく、自分の犯した犯罪の全てを素直に認めた。
彼の自白から得られた事件の真相はこうだ。
5月1日の遅くにキャンプ場に到着した鐘見も、被害者と同じように鎧塚山の豊富な山菜を目当てにしてやって来たのだった。車に乗せた彼のバッグには『山菜入門』という本が2冊入れられていた。1冊は何度か読み返していたが、他の1冊は新刊のままの状態でポリ袋に包装されていた。
長時間の運転をしてきた疲れもあり、予約していたロッジに入ると直ぐに、早目のベッドに着いた。そのせいで翌朝早くから目覚めてしまった鐘見は、早朝から付近を散策することにしたのだ。
そして、あの現場に行き当たった。
そのロッジのテラスには、床に倒れて動かない女性の姿があった。
当然、警察に連絡しようと考えたが、その前に事実を確認しておいた方がよいだろうと考えた鐘見は、ウッドデッキのテラスに上がり込んだ。
そこで見たのは、既に死体と化していることが確実な女性と、テーブルの上に並べられている山菜であった。
鐘見には直ぐに死因が推測できた。そこにあった山菜の中にはトリカブトが含まれており、紙皿に盛られた天麩羅の中にも一見してトリカブトだと分かるものがあったからだ。
だが、それだけのことであったなら、鐘見もそのままで警察に連絡したことであろう。
ところがそのとき、鐘見の目にあるものが映ったのである。それは『山菜入門』というタイトルの本であった。
「まさか、そんなことはあるまいが・・・」
恐る恐るその本を手に取り、ある理由から『見たくなかった』ページを開いた鐘見は、呆然とせざるを得なかった。
確率は1%にも満たないはずなのに、その微かな望みが今大きな音を立てて崩れ去ったような気がした。
このまま放置したのでは、自分が過去に犯した失敗がこの死の原因とされ、我が身にその罪状が及ぶことになるのではないだろうか?
鐘見は混乱する中で、どうにかして安全圏に逃れる方法はないものかと思案した。
何があろうとも、この『山菜入門』だけは絶対に持ち去らなければならないということだけは、充分過ぎるほどに分かっていた。しかし、彼女と付き合いのある誰かが『この本を持参していたはずだ』ということを知っていないとも限らない。そこで、持ち去ることと同時に、その代わりとして、ちょうど持ち合わせていた『ポリ袋で包装してまでして大切に扱っていた山菜入門』を現場に置くことにしたのである。この本であれば、ほとんど指紋を付けていない。表紙を少し拭くだけで、指紋は消えてしまうだろうに違いない。
しかし、それだけではダメだ。トリカブトを残して置いたのでは、そこから破綻する恐れがある。そう考えた鐘見は、テーブルに残っていたトリカブトと天麩羅を、近くにあった袋に詰め込んだ。
これを捨ててさえしまえば、トリカブトを食したことが死因だということはカモフラージュできるだろう。だが、そこに別なる動機に誘うような情況を施しておけば、更にもっと安全になるのではないだろうかと鐘見は考えた。そこで、傍にあった包丁を使って死体の衣服を全部剥がし、『変質者による殺害』だと思わせるような細工を施すことにした。それが、あの『罰』という刻印だ。
誰にも見付からないようにして、現場にあった『山菜入門』を拾い上げると、玄関の鍵を内側から開けて、アプローチの砂利道を通って自分のロッジに帰り、『指紋の付いていない山菜入門』を持って来ると、あの現場に置いたのである。
その結果、八つ葉のクローバーは消えた。
誰にも見咎められることなく、鐘見の計画はあっけないほど無事に完遂した。
そこにおいて、あの不可解な犯行現場が出来上がったという訳である。
鐘見の狙いは想像していた以上に上手く運んだ。思ったとおり、警察はあの文字から殺人事件であると考えたではないか。
『山菜入門』の入れ替えに気付かない限り、真相に辿り着くことはないだろう。そして、事情聴取を受けた感じから、警察がそれに気付く可能性は相当に低いと思った。
では、あの現場を見たとき、鐘見がいったい何に恐れたのか? それは鵜川の推理したとおりであった。
出版社に勤めていた鐘見が、その人生でたった一度だけ犯した失敗があった。それは、写真を取り違えたことである。
その本は、山菜を趣味としてきた老人から、人生の集大成として依頼された自費出版物であった。そしてあろうことか、編集過程で『トリカブト』と『ニリンソウ』の写真を取り違えてしまったのだ。運悪くゲラ刷りが完成した頃には依頼人の視力が悪化していたこともあって、最後まで誰もそのことに気付かないままに出版してしまったのである。
ところが、ある購入者からの指摘によって写真の間違いに気付き、大慌てで回収に努めたのだが、最終的には何冊かが回収できなかった。
そのような中で、改めて修正版を発行した。
もしも未回収の本を持っている人物が、ニリンソウだと信じ込んだままで毒草であるトリカブトを食べてしまったりすれば・・・、ついつい最悪のシナリオを考えてしまう鐘見は、毎朝欠かさず各社の新聞記事を漏れなくチェックし、テレビのニュースも出来るだけ見る事に努めた。そうせずには不安で堪らなかったのだ。
鐘見の心配を他所に、何事もなく2年余りの月日が過ぎた。もう恐らく大丈夫だろうと思い始めていた矢先に、この事件は起こってしまったのだ。
鐘見は、眼下に倒れている女性の傍に落ちていた『山菜入門』という本を拾い上げ、あの『ニリンソウ』のページを恐る恐る開いた。
何ということだ。そこには、あの忌わしき『トリカブトの写真』が『ニリンソウの写真』として印刷されていたのだ。
そのとき鐘見を襲った驚愕は、想像を超えたものであったに違いない。あの未回収な『山菜入門』の1冊が人を死に追いやった場面に、まさかこの自分が遭遇してしまうとは・・・、運命の悪戯というだけでは済まされるはずもない圧倒的な衝撃を受けたことだろう。
どうすれば警察の目を欺くことができるのかと必死の思いで考えた鐘見は、
その本に『八つ葉のクローバー』が挟まれているとは知る由もなく、現場にあった『山菜入門』と、自分の持参して来た、改訂版である『山菜入門』とを取り替えたのだった。
テーブル上のトリカブトを全て片付け、死体の肌を呪いの文字で傷付け、これで安全圏に逃げおおせるに違いないと信じ込もうとしていたのである。
これが、この事件の真相であった。
20
松浦は鵜川に尋ねた、
「僅かあれだけの情報から、鐘見が犯人だと特定できたのはどうしてかな?」
「それは、それほど不思議なことではありません」
「いや、どう考えても私には分からないのだ」
松浦は、半分ほど頭を下げていた。
「八つ葉のクローバーが消えていると分かったことから、本が取り替えられた可能性に気付くことができました。そこから『本の中身に問題があったのでは?』と想像することは容易いことです。『取り替えられた山菜専門書』と『トリカブト』・・・このふたつのコードから得られるのは『毒草の誤食』でしょう」
「なるほど・・・そこまでは分かった」
「そうすると、それまでの基本的考え方というものが、根底から引っくり返ることになりますよね。つまり、彼女の死は事故によるものであって、決して殺人などではなかったのだということになるのですから」
「それも、認めざるを得ないな」
「誰かの手によって現場が加工されたために、警察は、あたかも殺人事件であるかのような錯覚に陥っていたのでしょう。まぁそれも仕方がないのかも知れません。それが犯人の目論見であったのですから・・・」
「うむ。君の言うとおりだ。衣服を剥ぎ取られて全身丸裸にされた女性と、その背中に刻まれた『罰』の文字に、我々は捕らわれ過ぎていたかも」
「ここまで推理できたなら、あとは簡単に犯人像が見えてきます。5月1日の午後7時から9時にかけての時間にここに居なかったとしても、そのことが容疑者から外される要件とはならない。また、5月1日の早朝にここに居たとすれば、容疑者としての要件を有することとなる」
「見方が変わることで、容疑者か否かを判別するための条件もガラリと変わってしまうということだな」
「ええ、その通りです」
「しかし、それだけでは犯人を一人に絞り込むことはできないだろう?」
「そうですね。それに、僕には捜査内容を何も知ることができないので、誰が容疑者とされていたのかは存じません。ただ、叔母と一緒にやってきたときに刑事さんから見せられた『山菜入門』のことは記憶していましたから、叔母を送り届けた後で市立図書館に行ってみたのです。そこからあとは簡単でした。あの本と同じ本を借りて、その中に記載されていた出版元に問い合わせてみたところ、あの『山菜入門』を出版する過程に起こったひとつのトラブルを聞くことができたという訳です」
「それが、『写真の取り違え』という訳ですな?」
「はい。出版社に掛けたとき電話に出た人も、あれからもう数年も経っているので安心しきっていたのでしょう・・・、まさかそのトラブルが原因で死者が出たなどとは思うはずもなく、何の躊躇いもなく洗いざらいを話してくれました」
「そこで鐘見という名前も出たということか?」
「いえいえ、いくらなんでもそこまでは・・・。彼の名前は僕の方から持ち出したのですよ。すると、その時になってやっと初めて、電話先の相手は『ただ事ではない何かがあったのでは?』と気付いたようでした。電話口で誰かと相談していた様子でしたが、しばらくして予想通り別人に代わったかと思うと、『あなたは誰ですか? その質問には答えられません』と返してきました」
「まぁ、そういうのが、大抵の会社における対応としては妥当なところだろうな」
「ですね・・・。しかし、そこで逃げられてしまうのも癪だから『お答えいただけないということは肯定であると受け止めてよろしいのですよね?』と言ってやりました」
「そこまで言うか・・・」
「はははっ、言ってしまいました。それでも相手が黙ったままだったので、事はついでとばかりに『お答えいただけないなら、警察の方から問い合わせが行くようにしましょうかね』と続けたら、何故か突然にあっけなく折れてしまいました」
「そのトラブルに鐘見が関わっていた、ということを告白したのだな?」
「そうです。それで、刑事さんにお知らせしようとして、こうして車を飛ばしてやって来たのであります」
そう言うと、説明することにもう飽きてしまったという態度を隠すことなく、鵜川が両手を上げて大きく欠伸をした。
松浦は丁重に感謝の念を述べ、鵜川を送り出した。
今日当りには、鎧塚山の斜面一杯にツツジが絢爛として咲き乱れていることだろう。そう思いながら、松浦は2階の窓からその方向に目をやった。
残念ながらそこから鎧塚山を見ることは適わなかったが、どこかからホトトギスの『包丁欠けたか?』という鳴き声だけが聞こえてきた