その五
12
午後になって、海崎奈央美が到着したという情報が伝えられた。
真っ先に花を手向けたいという本人からの強い希望もあって、まず現場に立ち寄って簡単な弔いを済ませた後で、こちらの仮設捜査本部にやってくる予定だという。
そして数分後、ドアが開かれた。
各務に案内されて入ってきたのは、上品な身形をした純和風といった風情の、松浦が予想していた通りの女性であった。しかし、続いて度の強い眼鏡をかけた青年が彼女に付き添うようにして入ってきたのは想定外であった。
早速、松浦による事情聴取が開始された。
「お疲れのところ恐縮ですが、最初にお名前からお伺いしましょう」
「鵜川世範・・・長良川風物詩鵜飼の鵜に」
何故か青年がそう答え始めたので、
「いや、そうではなくて、こちらの女性に尋ねたつもりですが」
あわてて松浦が制止した。
「それは失敬」
と、青年は数センチだけ頭を下げてから続けた。
「叔母さんの方なら、海崎奈央美・・・異常海面上昇現象の海に長崎名物カステラの崎。奈良県明日香村の奈に中央大学合格の央、それに美人局の美と書いて奈央美」
松浦には、彼の例示する熟語の持つ役目がよく分からない。
「君に訊いたのではないが、まぁ本人確認といっても形式的なものなので、代返でも認めましょう」
「またまた失敬しました」
鵜川という青年は、子供のような笑顔で謝った。
「叔母さんということは、あなたの甥子さんというわけですか?」
邪魔されては堪らないとばかりに、海崎の眼前にまで顔を寄せて、松浦が訊いた。
「ごめんなさいね、刑事さん。わたしがのんびり屋なもので、この世範君がイライラして先に答えてしまいたくなるらしいです」
海崎がそう擁護すると、鵜川は頭を上下に動かして、うんうんと頷いた。
「では本題と行きましょう。あなたと吾妻彩子さんの関係について教えてください」
「関係と言われても、それほど特別なものではありません。中学で同級生となったのが最初の出会いで、たまたま家が近かったこともあって、お互いに成人してからも、ときにはカラオケに行ったり食事をしたり、たまにはふたりで旅行もする・・・そういったお付き合いですけど」
「中学のときからだと、かなり長いお付き合いとなりますな」
「20年くらいかしら」
「ところで、現場を見ていただけましたかな?」
「ええ。見たくはなかったというのが正直なところですが、彼女がこの世に生きていた最後の場所なのだからと思って、しっかりとこの目に焼き付けてきました」
「親友の目を通した景色として、何か感じたことはありませんか?」
「特にはないです。こんな淋しい場所で・・・と思うと、ただただ無念さが込み上げてくるだけでした」
海崎はハンカチで目頭を押さえた。
「では、ここからが大事な部分なので、よぉく考えてからお答え願います」
そう言うと、何枚かの写真を机に並べた。
思わず海崎は目を背け、鵜川は顔を近づけて食い入るように見ている。
「申し訳ないですが、友人を殺めた犯人を捕らえるために、ここはひとつ耐えてくださいな」
「ごめんなさい・・・。私が出来る限りの御協力をしないと、本当に彩子には申し訳ないのですよね」
「既にお聞きになったかも知れませんが、お友達は全裸で発見されました。そしてこれは背中を写したものです」
「何てひどいことを!」
小さく叫ぶと、海崎は両手で目を覆った。
「我々の経験から申し上げると、このようなことをされるということは、怨恨の線もありと考えておりましてね。そういった心当たりはありませんか」
「それはありません。彼女は誰からも好かれていました。誰かから恨みを買っていたということは絶対にないです」
「この『罰』という漢字から、何か思い当たることはないでしょうか?」
「彼女には一番似合わない言葉・・・としかお答えのしようがございません」
海崎が、不快感を隠そうとせずに松浦を睨み付けた。
「それでは話題を変えましょう。お友達は独身ですか?」
「彩子は24歳のときに一度結婚しました。夫婦ともに子供を欲しがっていたのですが、残念なことにとうとう恵まれないままでしてね。そして5年前に良彦さん・・・これは旦那様のお名前ですが・・・その良彦さんを交通事故で喪くされてからは、一人暮らしの生活にじっと耐えていました」
「すると、ついつい淋しさに耐えかねて・・・ということもあったのでは?」
「淋しそうにしていた点については否定いたしませんが、だからと言って、刑事さんが想像されていらっしゃるような類の話は、たとえそれが根も葉もない噂程度のものであろうと、ただの一度も耳にしたことはございません。良彦さんをとてもとても愛されていましたから、あの彩子に関してはそのようなことはないと断言できます」
「お友達もなかなかの美人ですから、当人がいくらそのように考えていたとしても、周りの男からすれば口説きたくなることもあったのでは?」
「あったかもしれませんが、それなりに防御の手を講じていました」
「たとえばどのような?」
「そのような事態になることをなるべく避けるため、男性の集まる席にはできるだけ参加しないよう努められていました」
「では質問を変えますが、被害者は山菜に詳しかったですか?」
「私なんかとは比較にならないくらいに詳しかったですね。彩子さんはもともとガーデニングが趣味だったので、植物を覚えるスピードは人並み以上のものがありました。何度か同行させていただいたことがありますが、私なんかは間違ってばかりで、ドクニンジンとセリの区別が付かずに叱られたこともございます。・・・でもそれが何か?」
「それがですね、直接の死因は、どうもトリカブトの毒らしいのです」
「トリカブトですか・・・。彩子さんが山菜採りを始めたのは2年くらい前からですので、私よりは格段に詳しいとは言え、こういうものは経験によって学習していくものなので、初めて見付けた種類のものだと、やはり写真と見比べながら確認しなくてはなりません。だから彩子も、常に専門書を携行していました。先ほども申し上げましたが、植物の特徴を見分ける才能には恵まれていたので、採取を数回経験したあとでなら間違えるなんてことは考え難いですね」
「おっしゃられる通り、ロッジ内にあった持ち物の中には『山菜入門』というタイトルの本がありました」
そう言って、松浦は一冊の本を取り出した。
「その本というのがこれなんですが、見覚えはありますか?」
「ええ、彩子がいつも携帯していたのはその本です」
「トリカブトはここに載っています」
と言いながら、松浦が付箋の付けてあったページを開く。
「このページはニリンソウの説明のためのものなのですが、間違えやすい毒草ということで、トリカブトの写真が右ページに並べられているんです。これを見る限りにおいては、かなり似ているとは言え、互いの特徴を見比べれ間違えそうにないですよね」
「彼女の才能をもってすれば、写真を見れば一目でその違いは分かったはずです」
「そうでしょうな。ところで、不思議なことなのですが、この本の内側からは指紋が一切検出されなかったのです」
「それは単純に、犯人が不用意に本を触ってしまって、これはマズイと思って拭き取ったということではないのですか?」
ここまで何とか大人しく聞いていた鵜川が、とうとう耐え切れなくなったのか口を挟んだ。
「全ページを拭くのは大変だぞ。それなら一層のこと本を持ち去れば済むことだ。その方が簡単だし、時間も必要としないだろう」
「なるほど、流石に本職だけのことはありますね。ブラボーです」
何故か愉快そうに軽く拍手しながら、鵜川が言った。
それを意識的に無視するかのように、松浦が。
「要するに、被害者が男性問題を抱えていたとは考え難い。そして、トリカブトを間違って採取したという可能性も、ほぼゼロに近い確率ということですな?」
と、海崎の証言から得た内容を簡潔にまとめると、もうこれ以上は訊くべきことも思い付かず、御礼を述べてからふたりを帰した。
13
海崎奈央美から得られた情報によれば、ガイシャには特定の男性と諍いを起こすような問題があったようには思えない。そうだとすれば、毒草を食わされて裸に剥かれて背中を刻まれて・・・そのような悪意に満ちたかのような犯行を、いったいどこの誰が行なったのだというのだ。
そう・・・、不可解なのは動機だ。
ただの平凡な32歳の女性を殺すことに、どういう動機が存在するというのだ?
強盗、愛情のもつれ、金銭問題、衝動的な性犯罪、そのどれでもないとすれば、他に何が考えられるだろうか。
もう一度、最初から考えてみよう。
このキャンプ場にひとりで遣ってきた吾妻彩子という女性が殺された。発見したのは北側に数えて2軒目となるロッジを借りていた鐘見隆広。だが、このふたりの間には接点となるものは皆無である。また、南隣のロッジを借りていた高野とその愛人寺沢が、生前の被害者との間に些細な問題を起こしていた。これが犯行に結びつく可能性に関しては、まだ結論が出せるまでには至っていない。被害者は裸にされたうえ背中に「罰」という文字を刻まれた。傷口に生活反応がないことから、死後数時間経ってから刻まれたものと推測される。性的被害は受けていない。現場から失われたものはない可能性が高い。犯人のものと確定できる指紋は発見されていない。犯行に使われた凶器も発見されていない。凶器は被害者が持参した包丁という可能性が高い。犯行を目撃した者も異様な物音を聞いた者もいない。死因はトリカブトを食べたことによる中毒である。しかし海崎によれば、被害者は専門書さえあれば山菜を間違うはずがないという。そして、現場には『山菜入門』という専門誌があった。ということは、犯人がトリカブトを持ち込んだということになる。死亡した事を確認してから着衣を切り刻んで裸にした。それなのに暴行したという形跡はない。裸にした理由は『罰』の文字を刻むことにあったのだろうか。
今までに得られた情報から考えられるのは、まぁこんなところか。
「さぁ、ここからどう推理する?」
誰にも聞き取れそうにない音量で、松浦は独り言を吐いた。
背中の文字に何かの鍵が隠されているはずだ。『罰』とは何を意味しているのだ?
これまでの捜査では、他人から恨みを買うような悪い情報は浮かんでこない。そうなると、ごく最近に何かがあったのかも知れない。しかし、決して人目に付き難い場所とは言えないキャンプ場まで追いかけて来てまでして、あのような犯行に及ぶものだろうか。もっとやり易い場所は他にいくらでもあるではないか。
場所を選んでいる余裕もないくらい焦っていたと考えればどうだ。たとえば、このキャンプ場に着いてから後に、殺意を抱かれるような何らかの出来事があったとすれば・・・。
たとえば、ガイシャが見てはいけないものを見てしまったとか、聞いてはいけないものを聞いてしまったとか。
「死体発見の前日に、キャンパーの中で何か揉め事があったという情報はなかったか?」
報告書を書くためにパソコンを打っていた各務に向かって、松浦が問いかけた。
「そういう報告は、何ひとつ聞いていませんね」
パソコンのモニターから目を離すことなく、各務が答える。
「そうか・・・」
よく考えれば、それもそうだ。あそこまでの残虐な装飾を施そうとする強い執念が、昨日一昨日に起こった出来事を原因として生じるはずもない。
すると、どういうことだ? 動機は怨恨などではないということか? 怨恨でないのだとすれば『罰』の目的が分からない。
「まるで堂々巡りだな・・・」
大きく溜息を吐いてから、松浦はとっくに冷めきった湯呑みを口に運んだ。