その四
9
松浦の前に、何だか落ち着かない男が座った。
「まずはお名前から伺いましょう」
「高野誠二と言います。ついでに職業も申し上げた方がいいのでしょうか?」
「そうしていただけると有り難いですな」
「S市にある電器量販店で支店長を任されています」
「どうしてここに呼ばれたのかは分かっていますよね」
「いいえ、全く予想外のことで、正直言って困惑しています」
「おやおや、それは困りました。あなたとお連れさんが被害者と何か話しているのを目撃したという情報がありましてね。ところが、あなたへの聴き取り調査では、そのような話は一切なかった。これはいったいどういうことなのかと、小さな疑問が湧いてきましてね」
「そのような無責任なことを言っているのがどこの誰かは知りませんけど、全く身に覚えのないことです」
「ほほぉ、あの夫婦が証言されていることは嘘だと?」
「きっと何か勘違いされているのでしょう。私は一人でロッジを借りていて、最初から連れなんておりません」
「そうですか。我々の調査では『寺沢のりか』という女性が、あなたの隣のロッジにお泊りでして、その女性は恐らく高野さんと同じ会社にお勤めだと思うのですがね」
「・・・」
案の定、高野は黙り込んだ。
「どうなんです? 被害者と顔見知りだったのではありませんか?」
「申し訳ないですが、私は本当に被害者の方を全く知りません。ただ・・・」
「ただ、なんですか? 正直に話した方が楽になりますよ」
松浦が畳み掛ける。
「ただ・・・」
机の上に置いた高野の手が、僅かに震えている。
「事件と関係がないのなら、包み隠さずに話された方が良いですよ。我々はこの凶悪な犯人を探し出すためであれば、貴方の勤務先にもお邪魔いたしますからな」
「お願いです刑事さん。これから話すことは家内と会社には内緒にしてくれますか?」
高野が消え入りそうな声を絞り出すようにして、頭を垂れながら言った。
「それはあなたが話してくれる内容次第ですが、事件と無関係であれば希望に沿うことも吝かではありません」
松浦には、高野が言わんとすることがどういうもの、大方の予想が着いていた。間違いなく女性関係だろう。
「昨夜は寺沢君とここで一晩過す計画でした。下手にラブホテルなどに行くよりも、こういう場所の方がむしろ安全なのです」
「寺沢は、あなたの部下なのですね?」
「ええ、3年前に入社した女性で、仕事を覚えるのも早いし性格も良くて、常々から可愛がっておりました」
「そして気が付けば、可愛さがついつい愛情に変わっていったという訳ですな」
「言い訳はしませんが、刑事さんだってそういうこともあるでしょう」
「ひとりの男として理解できないとは言いませんが・・・、それが被害者とどう繋がるのかを説明してください」
冷静を装うかのように、松浦は次の質問に移った。
「私は普通に昨日の昼間にやって来ましたが、彼女には夕方に到着するよう伝えておりました。日が暮れてからであれば、誰かに見咎められる可能性は低いだろうと考えたのです」
「さぞや彼女の到着が待ち遠しかったことでしょうな」
松浦の言葉には、若干の厭味とささやかな妬みが込められているようだ。
「寺沢君が到着したのは夕刻の6時過ぎでした。辺りは薄闇に包まれ始めようとしていたので、彼女は私のロッジ前に車を停めてしまったのです。私も安心しきった状態で、彼女を出迎えるために表に飛び出して行きました。その時、お隣のロッジのテラスに人影が見えたのです」
「それが被害者の吾妻さんだったという訳ですね?」
「ええ、車のドアを閉めた音に反応したのでしょう、ちょうどこっちを見ていました。それだけならまだ良かったのですが、その人影が彼女に向かって『あらぁ、寺沢さんですよね?』と声を掛けてきたのです。その時の我々はと言えば、大パニックを起こして頭の中が真っ白になっておりました。予想外の出来事に2人とも慌ててしまい、後先のことも考えずに咄嗟でロッジに逃げ込んだのですが、後になって落ち着きを取り戻すと、何と拙い行動をしてしまったのだろうと後悔しまして・・・」
「不倫の場面を目撃されたので、口封じのために犯行に及んだのですね」
「ちょっと待ってください。それは完璧に違います。神に誓って申し上げますが、私は絶対に殺人などしていません。あの後で少し冷静さを取り戻してから、二人でいろいろと相談しました。彼女が言うには、吾妻さんは近所に一人住まいしている女性で、無闇に他人のプライバシーを言いふらすような人ではない、どちらかと言えば心優しい人らしい。そこで、ダメモトでも仕方ないではないかと開き直った私達は『ここで見掛けたことを内密にしてもらえないか』と、二人揃ってお願いに伺うことにしたのです。そのときには外灯が点されていましたが、あの人はまだテラスで何か料理をしているところでした。恐らくは軽蔑されるだろうと思わなくもなかったのですが、あの時の私たちにとってそんな事はどうでもよい些細なことでした。ただ『分かりました』との一言だけが欲しかったのです。何度も何度も頭を下げ、最後には土下座までしました。私たちにとってはとても長い時間に感じましたが、やっと『分かりましたから頭を上げてください』とおっしゃっていただいた時には、ふたりで抱き合って半泣きしていました」
「もし本当にその通りであったとしても、あなた達ふたりは100%の安心ができなかった。だから、やっぱり殺してしまおうと考えたということも考えられます」
「いいですか、刑事さん。私たちの行動が道義的には罪と呼ばれるものであったとしても、たかが不倫ではありませんか。殺人という大罪を背負ってまでして守らねばならないこととは思いません。もし家内にばれたとしても離婚すれば済む訳だし・・・」
「そんなもんかね」
「好きな女と愛し合うことが、それほど悪い事だとは思っていませんし、妻にばれて離婚ということになったとしても、そのときは彼女を新しい妻にすればよいのですから・・・。そりゃあ、いくらかの慰謝料を払わされることにはなるでしょうが、それを避けるために殺人という方法で解決しようなんてことを考えたりはしませんよ」
「それは立派なお考えだ。それはそれとして昨日の午後7時から9時の間、どうされてました?」
「吾妻さんのロッジから戻ってきたときには7時近くになっていたと思います。それから予定通りに寺沢君と一緒に料理をして、ワインを飲みながらの食事を終えた時には9時前になっていたと思います。それから風呂の用意をして、その後は・・・。そこまで答えないといけませんか?」
「今回はそれくらいで結構でしょう。ただし、あなた達への嫌疑がこれで晴れたとは言いかねますので、またお尋ねすることがあれば御協力をお願いします」
松浦はそう釘を刺しておいてから、高野を解放した。
10
高野が帰ったあと、松浦は彼の証言を分析する。
それなりに一応の辻褄は合っていた。次の手順としては、寺沢のりかという不倫相手を取り調べておくべきかと考えた。その証言と突き合わせることで、どちらかが嘘を吐いていれば自ずと矛盾点が浮き出てくるものだ。
それとは別に、鑑識からの報告書について松浦は考える。
現場近くに残されていた足跡は、ペアのもの思われるものが一組と、単独のものがあったということだが、ペアの方は恐らく高野と寺沢がガイシャに『ここで見たことは内緒にして欲しい』と懇願しに行ったときに付いたものであろう。そして、単独の方は鐘見が発見したときに付いたものと考えられる。
それ以外に、これといって怪しい足跡は発見されていない。
犯人が彼ら以外の誰かだと想定するなら、ガイシャに近付くためにどこから入ったというのだ?
論理的には玄関から入ったということになるのだが、十数人のキャンパーが同じキャンプ場に居るとしても、余程の大声でもない限りは届かないくらいにあのロッジとはかなり離れている。そのような場所で女性が一人だけで過ごすというとき、果たして玄関の鍵を掛けないものだろうか? いや、普通の神経なら必ず掛けることだろう。
ということは、安心して招き入れても構わないという関係の誰かが訪れたとでもいうのだろうか? そして、その人物が犯行に及んだのか?
そう考えれば、3人以外の足跡が残されていなかったとしても何ら問題はない。どこからも怪しい指紋が発見できなかったことも、最初から殺害目的で訪問したのなら、手袋を嵌めるくらいの準備はしていたことだろうから、そう考えれば矛盾はない。
犯人は正々堂々と玄関から入り、ガイシャの隙を見て、或いはテーブルから離れさせるような巧みな話術でガイシャを移動させ、その間に隠し持っていたトリカブトを天麩羅にした。そして、それとは気付かないままに、ガイシャは天麩羅を食べてしまった。やがて毒が廻ったガイシャは、床に倒れ込み息絶えた・・・。
死亡したことを確認してから、証拠となるトリカブトを急いで掻き集めると、犯人は再び堂々と玄関から出て行ったということか。
そうだとしても、あの背中に刻み込まれていた『罰』という文字の謎を解決できる訳ではない。死後8時間以上も経ってから、あの文字は書かれたらしい。それはいったいどういう訳なのだ?
そういうことが有り得るのかどうかは別として、何らかの恨みを原因として殺したのでなかったということ・・・、それも有りなのか? 怨恨で殺したのだと思わせるために『罰』という文字は刻まれたのだと、そう考えれば何となくそのような気もしてくる。
だが、怨恨で殺したのでないとすれば、他にどういった動機があるのか?
世の中への不満を晴らすために殺したかった? 理由もなく兎に角殺したかった? 殺すことで性的快感を得ようとした?
確かに、最近の殺人事件における動機は、これまでの我々の理解を超えている・・・。
それにつけても、よくよく考えてみれば、玄関から入ることが可能な人物が一人存在するではないか。
「おい、今から出掛けるぞ!」
各務に向かってそう言い放つと、松浦は勢いよく椅子から立ち上がった。
11
「昨日の午後7時から9時に掛けての時間、あなたはどこに居ました?」
相手を睨むようにして、松浦が訊いた。
「どこにって、もちろんここに居りましたよ。ずうっと」
「それを証明してくれる人が誰か居ますか?」
「ここは私一人で切り盛りしていますから、誰か居るかと言われましてもね」
「あなたは職務上、全ロッジの合鍵を持っていますよね?」
「それは当然でしょう。それがどうかしたとでも?」
「いやぁ、あの事件のあったロッジなんですが、外のテラスに近付いた足跡は3人分しか見付からなかったのですが、その3人が誰かは既に判明しておりまして、犯人である可能性はかなり低い。そうすると、もしかして玄関から入った第4の人物が居たのでは?という疑問が湧いてきたという訳です。被害者が招き入れたという線も考えられなくはないのですが、鍵を開けることができる人物という線も視野に入れなくては・・・と、まぁそのような考えも成り立つのではという訳です」
「ほほぉ・・・、つまりこの私?」
困惑したように答えたのは、ここの管理人である宮岡重里であった。
「端的に申すなら、そのとおり・・・あなたのことです」
どや顔で、松浦が詰め寄った。
俯いたままの体勢で頭をポリポリと掻きながら、宮岡は何かを必死で考えていたようだったが、しばらくすると顔を上げ、
「証人というのは居りませんが、別の方法でアリバイを証明できればいいのですよね?」
と、丁重な言い方で、念を押すかのように尋ねた。
「ああ、証明できるというのであれば、我々もその方法如何にまで拘ったりはいたしません」
「それならば、証明できますよ」
そう言うと、宮岡は1冊の帳簿を松浦の目の前に置いた。表紙には『宿泊予約簿』と記されていた。
「ほら、ここを見てください。ここには宿泊予約の電話を受けた時刻も書かれています」
松浦が確認すると、宿泊予定年月日と予約者の住所氏名といったデータの他に、予約電話を受け付けた時刻も記入されていた。
「それで、これが証明になるというのはどういう意味ですかね?」
「分かりませんか? この帳簿は予約のあった順に記入するように出来ています。つまり、受信時刻を見ていただければ、いつ私が電話に出ていたかが一目瞭然ではありませんか」
宮岡に説明されて、再び松浦が目を通す。
7時から9時までの間には、予約の再確認電話も含めて全13回の予約電話があったようだ。
「ゴールデンウィークのこの時期・・・特に3日から5日に掛けては利用者が多いので、あの夜は何本も予約電話が入りまして、一番長い間隔のときでも、14分間しか開いていません。会話時間が5分以内ということはないので、私が電話に出ていない時間は最大でも9分ほどだということになります。この管理人棟からあのロッジまでは片道でも5分は必要ですから、往復だと10分。すると犯行に使える時間はゼロ分以下ということになりませんか?」
傍に置いてあった電卓を叩いて、その答え表示した液晶画面を宮岡が翳した。
「計算は合っているようだな」
『-1』と表示された電卓を確認した松浦は、短くそれだけ言うと、肩を落として回れ右せざるを得なかった。