その二
4
「こいつは・・・」
その死体を目にした瞬間、佐々木検視官は思わず唸った。
二度と動くことのないその裸体は、テラスへの出入り口である吐き出し窓とテーブルとの中間辺りに、身体の左側を下にして横たわっていたのだが、その背中にはこれまでに見たこともない異様な装飾が施されていたのである。
背中一杯に大きく『罰』という文字が刻まれていたのだった。
刃物の切っ先を使って皮膚に刻み込んだのであろうと思われた。しかし出血の程度はごく微量で、切り口の状態もエッジが綺麗に立ったままだ。これは明らかに死後に付けられた傷であろう。
セミロングである髪の中を覗く。左後頭部に若干の打ち傷らしきものが見られたが、そのうっ血程度はかなり軽く、恐らく倒れたときに地面に打ちつけて出来たものだろうと思われた。
背中側からの観察を終えると、今度は慎重に身体全体をひっくり返した。既に死後硬直はピークに近く、仰向けにしても母胎内の赤ん坊のように丸まった姿勢を保ったままだ。
平均サイズより少しばかり豊かな胸部起伏から、死体が明らかに女性であることは疑いようもなかった。
下半身へ向かって目線を移動させていく。
「おかしいぞ・・・」
佐々木は思わず呟いた。
胸部から腹部にかけてのどこにも、全く傷跡が見当たらないのだ。
背中の刻印を見たときには、これは刃物を使用して殺害したのだろうと勝手に推測していたのだが、その予想は完全に外れたことになる。
腰から下にも目を遣ったが、やはり目立った外傷は無いようだ。外見からの観察では、大腿部から爪先にかけてのどこにも、致命傷となるような損傷は見当たらない。
そこで佐々木は、腕を押し開いて脇の下を覗くことにした。ここから細身の刃物で心臓を刺すという殺害方法があるからだが、その結果は薄目の無駄毛と対面しただけに終わった。
最後に残された場所は、閉じられて密着したままの股間部分だけとなった。同僚の助けを借りて両脚を開いていく。思いっ切り力を込めると間接の壊れるような軋む音とともに、やっと10度くらいの角度まで開くことができた。
だがそこにも、死に至ったであろうことを示す痕跡は何ひとつ見当たらなかった。
外傷が見当たらないとすれば、死因はいったい何だ?
そして、着衣はどこに行ったのだ?
佐々木は膝の埃を払いながら立ち上がると、ロッジへの入り口である吐き出し窓から室内に移動することにした。まず、入り口に頭だけを突っ込ませて中を覗いてみた。入って直ぐのとこに大きく引き裂かれたシャツと切り裂かれたジーンズ、そして女性特有の下着類が、まるで捨てられたゴミの如くに散らばっていた。
死体周辺の調査を一通り終えると、続いて足跡を調べることにした。
室内の足跡は、フローリングの床とあって、靴下を履いた場合には期待するほどの鮮明さでは出てこないだろう。案の定、何箇所からは採取できたものの、辛うじて足のサイズがある程度まで判別できるといった程度だ。
佐々木は屋外に出た。玄関からは木製の階段があって、その先は砂利敷きのアプローチとなっている。ここから足跡を採取するのは諦めて、テラスのある南側にと回った。
そこは地肌を見せたままの平らな地面となっており、何箇所かからかなり鮮明な足跡を採取することができた。
足跡は、全部で3人分のが確認できた。
そのうちの2人分は、常に同じような間隔と位置関係で残されていることから、2人揃って同じ行動を取ったときに付けられたものと思われた。南隣のアプローチを出発点として、現場となるロッジの数m手前まで進んだあと折り返して、最後には元の出発点にまで戻るように続いていた。
あとの1人分は、ロッジ前の簡易舗装道から始まっており、道路からほぼ垂直に進んだあとで少し方向を変えて、最後にはテラス下にまで到達していた。だが、帰りの足跡は発見できなかった。
5
「所轄から中年の女性だという報告は受けたが、ガイシャの身元はもう判明したのか?」
県警から駆けつけたばかりの松浦警部補が、管轄署の若い巡査に訊く。
ここは一番南に位置するロッジである。たまたま空室であったので、そこを急ごしらえの仮設捜査本部として借りたのである。
「はい。宿泊名簿と携帯電話から確認したところでは、吾妻彩子、32歳、現住所はF県Y市といったところです」
「32歳なら中年と呼ぶのは少し可哀想だな。最近の初婚年齢を基準にすれば、まだまだ適齢期の範囲内だろう・・・。こいつは異性関係という線が充分に考えられるな」
「その辺の捜査は、これからということになります」
「ここへは誰かと一緒に泊まっていたのか? それとも一人でか?」
「管理人の証言によりますと、ガイシャはひとりでやって来たようですが・・・明日には連れが到着して合流する予定になっていたようです。ガイシャが宿泊名簿を書くときに『明後日から友達が合流するのでついでに書いておきました』と言って、連れの名前も記入したということです」
「ふーむ。連れとはどういう関係?」
「ただの友人だと思われますが、氏名は海崎奈央美、年齢はガイシャと同い年です」
「男じゃないのか?」
残念そうに呟いてから、
「で、初見による死因の方は?」
と続けて訊く。
「外傷として一番大きいものは背中に文字として刻まれた傷なのですが、どうやらそれは死後に付けられたものらしく、その他に死に結びつくような外見上の傷は見当たらなかったこと。死体の近くには嘔吐物があったこと。これらから、死因の特定は司法解剖のあとになるとのことでありますが、現時点では毒物による死亡の可能性が高いと考えられるようです」
ひととおりの報告を終えた警官が去っていくと、松浦はプリントされたばかりの現場写真を机の上に並べた。
「この背中の文字は一体どういうことだ?」
松浦がテーブルの上に並べられた現場写真の中の一枚を手に取って、隣に立っている各務刑事の眼前に翳して見せた。
「犯人の意図はわかりませんが、鑑識班からの報告書によると、傷口からは生活反応が見られなかったようですね」
結構ですとばかりに写真を押し返しながら、各務が答えた。
「しかし如何にも酷過ぎる仕打ちだと思わないか。この何とも屈辱的なというか加虐的なというか、死体の皮膚を切り裂いてまでして悪意の含まれた漢字を書き残すとは、ガイシャは余程恨まれていたということだな」
「検視の結果、暴行された形跡はなかったようなので、襲おうとしたところ騒がれたから殺害した・・・といった単純な事件だとは思えませんね。もしかしたら、犯人は知り合いかも知れませんね」
「まぁ、行きずりの犯行ではないと考えて、ほぼ間違いないだろう。ただの暴行目的犯なら、このような落書きをする時間があったなら、きっと他の行為に及ぶだろう」
「相手は32歳の女性ですからね。手間を掛けて裸にまでしておいて何もそういう行為の跡がないってのは・・・、やはりこれは怨恨の線でしょうか?」
「恐らくな。で・・・このキャンプ場に来ていた全員に対する身元調査は終わったか?」
「はい、ちょうど今さっき終わったところです」
「管理人のところに行って宿泊名簿と突き合わせるんだ。確認漏れはないか、犯罪歴のある者が居ないか、そして重要なのは名簿の中にガイシャと知り合いの人物が存在しないか、それを急いでチェックさせるんだ」
「はい、既に指示してあります」
「よし、ある程度は状況が把握できたところで、次は目撃情報といこう。まずは第一発見者に会おうではないか」
松浦は気合を入れるためか木製のテーブルを拳で叩いて、すっくと立ち上がった。
6
「鐘見隆広さん・・・ですね。あなたが目撃された経緯とそのときの様子について、できるだけ細かく説明していただけますかな?」
丁重な口調で、松浦が切り出した。
「こと細かくとおっしゃられても、そんなに細かいところまでは覚えていませんが、記憶の範囲で精一杯お答えさせていただきます」
やや薄くなった前頭部の汗を拭きながら、鐘見が抑えた声で言った。
「ええ、それで結構です。では、あなたが被害者のロッジに到着した前後のことについてお話ください」
「私が借りているロッジを出発したのは、午前6時をある程度過ぎたときのことだと記憶しています。途中で景色を眺めようとして立ち止まったり、軽く体操をしたりという感じで歩きましたので、例のロッジに辿り着くまでに5分くらいは経過していただろうと思います。だから、私が現場に到着したのは、6時20分前後だったのではなかろうかと思います」
「鐘見さんがロッジを出てからあの場所に到着するまでの間に、あなた以外の誰かを見ましたか?」
「いいえ、近くには誰も見かけませんでした。見渡せる範囲には私だけしか居なかったようでした」
「途中で何か物音を聞いたりとかしませんでしたか?」
「特に記憶していませんね。もっとも、ここはすぐ近くを七瀬川が流れていますから、四六時中、昼夜の別なくせせらぎの音が聞こえていますので、ある程度大きい音でなければ消し去られてしまいますし・・・」
「それでは、鐘見さんがあそこで目撃したことを話してください」
「あのロッジ前を通り掛ったときには特に何も感じませんでした。ところが、こういうのを神の啓示とでも言うのですかね・・・二三歩前進したときに、何かが視界の端っこに映ったのです。日の出時刻を過ぎているとは言え、ここは山の中にある所為でまだ薄暗い状態でしたから、普段なら気付かなかったのかも知れません。しかし、何故かあのときは鮮明に映って見えたのです。暗い地面に何か白い物が落ちているようだ・・・何故か気になって近寄って行き、それを拾い上げてみると1枚の白い布巾でした」
「布巾?」
「何の変哲もないただの布巾でしたが、それが布巾だと分かった時点で、同時に、これがどこから落ちたのかということも推測できますよね。そう、すぐ近くのウッドデッキから落ちたものだろうと・・・。それで、立ち上がってロッジの方に目を遣ったとき、テラスに置かれているテーブルの、その脚の向こう側にあのおぞましい光景を見てしまったのです」
その光景を思い出して汗が吹き出たのか、鐘見がハンカチで何度も額を拭う。
「それは、それは・・・さぞや驚いたことでしょう」
「驚いたと言うよりも、世にいうところの『頭の中が真っ白になった』状態でした」
「心中お察し申し上げます。で・・・他に見たものは何かありますか?」
「テーブルの真ん中付近には携帯コンロが置いてあって、そこに天麩羅鍋が架かっていました。その近くに塩や醤油といった調味料が並んでいて、その他には小麦粉を水溶きしたボールと天麩羅油・・・、それといくつかの食材を載せたパットやお皿などがありましたね」
「ほほう、食材というのはどんなものでした?」
「そのほとんどはこの近辺で採取してきたと思われる山菜でしたが、イカやエビなどもあったかと思います」
「包丁はどうでした? 見ましたか?」
「さてどうだったか・・・、残念ですがそれは記憶していません」
鐘見は額にハンカチを当ててしばし考え込んだ後、やがてそう答えた。
「何かまた思い出されましたら、ぜひご連絡願います。ところで、ロッジ内も覗かれましたか?」
「あ、ええ・・・ほんの少しだけですが」
「どんなものを見ました?」
「最初に目に入ったのは、被害者が身に着けていた衣服だと思われるものでした。『思われる』と申し上げたのは、それらがとにかくバラバラに切られていたので、ブラジャーとジーンズだけはそれと判別できましたが、それ以外のものが何なのかは分からなかったからです。引き千切られたような箇所もあったような気がしますので、きっと無理矢理に脱がされたのでしょう」
「他には何か?」
「リュックが緑色のもので、右の奥の方・・・ロッジの正面玄関を入って右側・・・に置かれていたのは記憶しています。あとは、居間のテーブルの上にデジタルカメラが置いてあったかと思います。申し訳ないですが、思い出せるのはそれくらいですね」
「あのテラスの下には、何人かの足跡が残されていましたが、その中にあなたの足跡も含まれていますかね?」
「テラスに到達するまでの足跡は残されていると思います。ただ、あのロッジから出て行くときには、あの高さから飛び降りる気にもなれず、室内に一旦入って玄関ドアから出て行ったので、足跡は残っていないのではないでしょうか」
「そのとき、玄関には鍵が掛かっていなかったということですかな?」
「掛かっていたのでノブの金具を捻って開けたのか、それとも掛かっていなかったのか・・・、誠に申し訳ないのですが、その点はよく覚えていません」
「ところで、昨夜の7時から9時にかけての間、どうされていました?」
「アリバイですか? それならはっきりしています。その頃はこちらに向かって高速道路を走っておりました。こちらへ到着したときには10時を少し廻っていたと記憶しています。これは管理人さんにお確かめいただければ直ぐに分かることでしょう」
「そうですか。本日は御協力ありがとうございました。またお尋ねすることがあるかも知れませんが、これも亡くなられた被害者のためですから、どうか悪しからず」
松浦はそう言うと各務を手招きして、鐘見を送り出させた。