欲深い吾輩
吾輩は、人間どもに思いを寄せている。
吾輩が生まれた時から、人間どもはすぐそばにいた。
食事を用意し、住む場所を整え、身体の手入れまでしてくれる。
あまりにも当たり前すぎて、深く考えたことはなかった。
だが、どうやら吾輩たちにも、人間どもに頼らず生きていた時代があったらしい。
広い草原を駆け回り、群れで暮らし、己の力だけで生きていた時代。
野生の馬。
そう呼ばれていた頃が、吾輩たちにもあったのだ。
今の暮らしが悪いわけではない。
むしろ、かなり快適である。
腹が減れば食事が出てくる。
喉が渇けば水が用意される。
雨風をしのげる場所があり、身体の手入れまでしてもらえる。
何より、常に世話をしてもらえるのだ。
実にありがたい。
実に安心できる。
ただ、少々窮屈でもある。
吾輩は今日も、柵の内側にいる。
柵の向こうには、こちらより広い場所が見える。
どこまでも続いているように見えるが、実際にはどこまで続いているのだろう。
あの向こうへ行けば、もっと広い景色が見られるのか。
さらにその先には、別の草原があるのか。
そんなことを考えながら、吾輩は柵の向こうを眺めている。
人間どもは、吾輩に水をかけてくれる。
ありがたいことではある。
暑い日には気持ちがよい。
身体についた汚れも落ちる。
だが、水浴びというものは、本来もっと豪快なものではないだろうか。
広い場所で泥に転がり、身体中に泥をつける。
首を振り、背中を地面にこすりつけ、鼻先から尻尾まで思う存分どろんこになる。
うむ。
実に自然らしい。
……まあ、そのあと身体を洗われることを考えると、水をかけてもらうほうが楽かもしれぬ。
吾輩は、楽をすることも嫌いではない。
食事もそうだ。
いつも用意されている。
決まった時間に、決まった場所へ行けばよい。
実に便利である。
だが、少々変化が足りない。
吾輩は草食である。
草を食べる。
それは間違いない。
しかし、草なら何でも同じというわけではない。
柔らかな草。
少し苦みのある草。
香りの強い草。
朝露に濡れた草。
季節によって変わる草。
場所によって違う草。
本来ならば、吾輩はそうした草を自分で探し、選び、味わうのではないか。
これは食べる。
これは後にする。
これは、少しだけ味見してみる。
そうやって、一日かけて食事を探す。
それもまた、野生の楽しみなのだろう。
今の食事は、すでに目の前にある。
栄養も考えられているらしい。
まずいわけではない。
むしろ、安心して食べられる。
だが、楽すぎる。
食べるものを探す楽しみまで、最初から片づけられているような気がするのだ。
人間どもを背に乗せることにも、不満はない。
吾輩の背に乗り、楽しそうにしている姿を見るのは悪くない。
吾輩を頼ってくれているようで、少し誇らしくもある。
ただ、何も乗せていない時のほうが、身体は軽い。
歩く時も。
走る時も。
首を振る時も。
実に楽である。
だからといって、人間どもを乗せたくないわけではない。
ただ、何もないというのも、なかなかよいものなのだ。
ふと、想像することがある。
広い草原。
どこまでも続く青い空。
風に揺れる草。
吾輩は、その中を自由に駆けている。
誰にも止められず、誰にも指示されず、ただ己の行きたい方向へ走る。
背中には何も乗っていない。
身体は軽い。
風がたてがみを揺らす。
蹄が大地を蹴る。
うむ。
悪くない。
実に悪くない。
むしろ、かなり良い。
……だが。
世の中、そんなに甘くはない。
野生で生きるということは、自由である代わりに、すべてを自分で考えなければならないということだ。
敵。
縄張り。
餌。
水場。
天候。
群れの争い。
考えることは、いくらでもある。
腹が減っても、誰も食事を運んではくれない。
喉が渇いても、水場が近くにあるとは限らない。
怪我をしても、誰も手当てをしてくれない。
眠る場所を間違えれば、夜の間に襲われるかもしれない。
自由とは、何をしてもよいということではない。
何が起きても、自分で引き受けるということなのだ。
そう考えると、今の暮らしも捨てたものではない。
走る場所は限られている。
行き先も、ある程度は決められている。
食事の内容も、毎日大きくは変わらない。
だが、少なくとも腹を空かせることはない。
雨に濡れ続けることもない。
夜ごと敵の気配に怯える必要もない。
人間どもは、吾輩を大切にしてくれている。
そのことを、吾輩は知っている。
知っているからこそ、複雑なのだ。
感謝している。
安心している。
この暮らしを嫌っているわけではない。
それでも、柵の向こうが気になる。
泥の中を転がる自分を想像する。
見たことのない草を選び、好きな場所へ歩いていく自分を想像する。
何も乗せず、ただ風の中を走る自分を想像する。
広い草原を、どこまでも。
……うむ。
やはり、悪くない。
だが、そのあとにはきっと腹が減る。
水も必要になる。
休む場所も探さねばならない。
もしかすると、どこかで敵に追われるかもしれない。
そう考えると――
今の暮らしも、まぁ悪くはない。
人間どもに世話をされる日々も、決して悪くない。
自由に憧れながら、安心を手放せない。
野生を想像しながら、今の暮らしを選んでいる。
吾輩は、そんな中途半端な馬なのだろう。
……しかし。
もしも、ほんの少しだけ。
誰にも止められず、誰にも追われず、腹も減らず、疲れもせず。
そんな都合のよい草原があるのなら。
吾輩は、一度くらい走ってみたい。
思いきり。
どこまでも。
何も背負わず。
何も乗せず。
ただ、己の足で。
……う~む。
やはり、想像の中だけで楽しむのが、いちばんよいのかもしれぬ。
そう思いながら、吾輩は今日も柵の向こうを眺めている。
人間どもが用意してくれた食事を食べる。
水を飲む。
身体を洗ってもらう。
そして、少しだけ走る。
その背に、人間どもを乗せながら。
もちろん、何も乗せていないほうが軽い。
だが――
これはこれで、悪くない。
何も乗せずに走りたい。
だが、人間どもも嫌いではない。
野生に憧れる。
だが、用意された食事もありがたい。
自由も欲しい。
安心も欲しい。
変化も欲しい。
それでいて、今の暮らしも捨てたくない。
これを欲深いというのだろう。
……うむ。
吾輩は、少々欲深い馬なのかもしれぬ。




