婚約破棄?ええ、どうぞ。私もあなたとの結婚はお断りです
「アリシア・ベルモント。君との婚約を破棄する」
王都の大広間に、婚約者であるエドガー伯爵令息の声が響いた。
華やかな音楽が止まり、集まっていた人々の視線が一斉に私へ向けられる。
彼の隣には、淡い桃色のドレスを着た令嬢が寄り添っていた。子爵家の三女、マリアンヌだ。
彼女は困ったように眉を下げ、私を見つめている。
「ごめんなさい、アリシア様。私、エドガー様をお慕いしてしまって……」
そう言いながら、彼女はエドガーの腕にそっと手を添えた。
やはり。
そろそろだと思っていた。
私は二人を眺め、それから小さく息を吐いた。
「承知しました」
「……は?」
エドガーが間の抜けた声を上げる。
「婚約を破棄なさるのでしょう? 委細承知いたしました」
「な、なんだその態度は!」
彼は顔を赤くした。
「君は僕の婚約者だぞ! 少しは取り乱したらどうなんだ!」
「取り乱す理由がありませんもの」
「僕が別の女性を選んだんだぞ!」
「それは先ほど伺いました」
私はにっこりと微笑んだ。
正直に言えば、全く悲しくないわけではない。
十歳の頃から婚約者だった相手だ。いつか夫婦になるのだろうと、漠然と思っていた時期もある。
けれど、ここ一年ほどの彼を思い返せば、今さら涙を流す気にもなれなかった。
約束したお茶会には平気で遅刻する。
贈った品には文句をつける。
私が楽しみにしていた観劇の日には、マリアンヌとの約束を優先した。
そのたびに彼は言った。
婚約者なのだから、少しくらい我慢してくれ、と。
私は十分に我慢したと思う。
だから、もういい。
それに最近は、何やら2人でこそこそ話し合っていたので、そろそろ私から乗り換えるのだろうと察していた。
「それでは、私は失礼いたします」
「待て!」
踵を返そうとした私を、エドガーが呼び止めた。
「君は自分の立場が分かっているのか? 婚約を破棄された令嬢など、まともな縁談が来なくなるんだぞ!」
「そうかもしれませんね」
「だったら、もっと僕にすがるべきだろう!」
……どうやら、彼は私が泣きつく展開を期待していたらしい。
そして、その姿を見て、優越感に浸ろうとしていたのだろう。
私は思わず笑ってしまった。
「エドガー様。ご安心ください。あなたにすがるくらいなら、独身のままで結構です」
「なっ……!」
「それに、私もあなたとの結婚はお断りです。婚約破棄していただけて、むしろ助かりましたわ」
大広間がざわめいた。
マリアンヌの笑顔がわずかに引きつる。
「アリシア様、それはあまりにも強がりでは……?」
「いいえ。心から申し上げています」
私は二人に一礼し、今度こそ大広間を後にした。
背後からエドガーの怒鳴り声が聞こえたが、振り返らなかった。
その夜、私は久しぶりにぐっすり眠った。
◇
翌朝、父は朝食の席で私に尋ねた。
「本当にいいのか?」
「ええ、お父様」
「ベルモント家としては、婚約破棄そのものより、あちらが公の場でお前に恥をかかせたことが問題だ。……もしかしたらまだその事で、相手方から何か言われるかもしれん。例えば何かをでっち上げてお前の評判を落としたり、とかな」
「……何を言われても構いません。私はもう、あの方と結婚するつもりはありませんから。
それに、名誉毀損などの方は、もうお父様動いているでしょう?」
「当然だ。然るべきところに既に報告済みだ」
「なら安心です。何も不安に思わずに堂々と出来ます」
父はしばらく私を見つめていたが、やがて頷いた。
「分かった。お前が決めたことなら、私は反対しない。
……他のことは私に任せなさい。地獄を見せてくれる」
父の言葉に思わず笑ってしまう。
その言葉だけで十分だった。
私はようやく、自分の人生を自分で決められるのだ。
そう思った。
ところが、婚約破棄から三日後。
我が家にエドガーが訪ねてきた。
「アリシアに会わせてくれ!」
その一点張りだ。
断ろうか、と父が目配せをしてくれたが、私は大丈夫。応接室に通してください、と家令にお願いした。
そして、一緒に着いてこようとする父を制止して、自分一人で応接室に向かった。
応接室に通された彼は、私を見るなり不機嫌そうに言った。
「君、いつまで意地を張るつもりだ?」
「何のことでしょう?」
「婚約破棄の件だよ。あれは少し頭を冷やしてもらうためだったんだ」
私は瞬きをした。
「……婚約破棄を、取り消すということですか?」
「そうだ。君も反省しただろう?」
何をどう解釈すれば、その結論になるのだろう。
それに、マリアンヌはどうなるのだろうか。
私は首を傾げた。
「お断りします」
「なぜだ!」
「なぜ、と申されましても。私は婚約破棄を受け入れました。もう終わったお話です」
「君は僕の婚約者だったんだぞ!」
「過去形ですね」
「揚げ足を取るな!」
エドガーは苛立たしげに髪をかき上げた。
暫くは、このような無意味な問答が続く。
すると、彼は痺れを切らしたのか、私に向かって更に声を張り上げた。
「分かった。僕はマリアンヌと結婚することにする」
一拍置いて、彼は更に畳み掛けてくる。
「だが、彼女は伯爵夫人になる自信がないと言っている。君が彼女に作法を教えてやってくれないか?」
私はしばらく黙って彼を見つめた。
婚約者を乗り換えたうえに、その相手の教育を元婚約者に頼む。
いったい、どこからそんな発想が出てくるのだろう。
その神経を疑っていたからだ。
「お断りします」
「君ならできるだろう?」
「できるかどうかではなく、やりたくありません」
「なんて心が狭いんだ!」
「そうですね。私は心が狭いので、婚約者を奪った方に親切にする余裕はございません」
エドガーは口を開けたまま固まった。
私は穏やかに微笑む。
これ以上彼の戯言を聞くのは時間の無駄だと思った。
「どうぞお帰りください。私、これから友人と出かける予定がありますので」
「後悔するぞ!」
「しないと思います」
彼は顔を真っ赤にして帰っていった。
その背中を見送りながら、私は少しだけ気分が晴れた。
しかし、本当の騒動はそれからだった。
◇
婚約破棄から一か月。
エドガーとマリアンヌの婚約は、正式に発表された。
ところが、二人の関係は思うように進まなかったらしい。
マリアンヌは華やかな夜会が好きで、流行のドレスや宝石にも目がない。
一方のエドガーは、自分の趣味にお金を使うのが大好きな男だった。
婚約者への贈り物には金を惜しむくせに、自分の馬や衣装には平気で散財する。
以前、私がそれとなく注意したときには、「男の趣味に口を出すな」と怒鳴ったものだ。
そんな二人が、互いの浪費を許せるはずもなかった。
夜会で着るドレスの値段を巡って喧嘩をした。
贈られた宝石が気に入らないと、マリアンヌが泣いた。
エドガーは彼女に、贅沢をするなと怒鳴った。
するとマリアンヌは、貴方も贅沢ばっかりじゃないと言い返したそうだ。
私はその話を友人から聞き、紅茶を飲みながら首を傾げた。
「それなら、どうして私から彼を奪ったのかしら?」
「さあね。隣の芝生は青く見えたんじゃない?」
友人は肩をすくめた。
「それに、エドガー様、あなたのことを悪く言いふらしているそうよ。冷たい女だったとか、婚約者を立てることもできなかったとか」
「そう」
「腹が立たないの?」
「少しはね。でも悪口を言いふらされるのは予想してたし、思ったより悪口が幼稚で、呆れたって感覚の方が大きいかしら」
私は窓の外を眺めた。
以前なら、彼に悪く言われることが怖かった。
誰かに嫌われることも、誤解されることも怖かった。
けれど今は違う。
私をよく知る友人たちは、私がどんな人間なのか分かってくれている。
それだけで十分だった。
◇
数日後、私は父の知人から一人の青年を紹介された。
名前はルシアン・グレイ。
子爵家の次男で、王都の商会に勤めているという。
初めて会った彼は、少し緊張した様子で頭を下げた。
「こういう席は慣れていないもので。失礼があったら申し訳ありません」
「私も、あまり得意ではありませんわ」
そう答えると、彼はほっとしたように笑った。
話してみると、彼は私の意見をきちんと聞いてくれる人だった。
好きなものを尋ね、私が答えれば自分の好みも話してくれる。
意見が違っても、否定するのではなく、そういう考え方もあるのですね、と頷いてくれた。
当たり前のことかもしれない。
けれど、私はそんな時間がとても心地よかった。
帰り際、彼は少し迷ったあとで口を開いた。
「もしよろしければ、またお会いしていただけませんか?」
「ええ。ぜひ」
自然と笑みがこぼれた。
恋が始まったかどうかは、まだ分からない。
けれど、少なくとも私は、誰かの機嫌を損ねないようにと怯えながら過ごす必要はなかった。
それが何より嬉しかった。
それから半年後。
私は街の菓子店で、偶然エドガーと顔を合わせた。
彼は以前よりも疲れた顔をしていた。
「アリシア……」
気まずそうに私の名を呼ぶ。
「お久しぶりですわ、エドガー様」
「君は……その、元気そうだな」
「ええ。おかげさまで」
彼の視線が、私の隣に立つルシアンへ向けられた。
ルシアンは私の新しい婚約者になった。
私たちは来春、結婚する予定になっている。
「その男と、結婚するのか?」
「はい」
「……そうか」
エドガーは何かを言いかけ、口を閉じた。
かつての彼なら、私に向かって嫌味の一つでも言っただろう。
けれど今の彼には、その元気さえないようだった。
マリアンヌとの婚約は、すでに解消されているらしい。
互いの価値観が合わず、喧嘩が絶えなかったよくだ。
彼女は別の裕福な男性との縁談を望み、エドガーはそれを止められなかったという。
その後、エドガーの家では次々と縁談が持ち込まれたものの、以前の騒動を知る家々からは敬遠されているそうだ。
つまり、彼に婚約を求めるのは行き遅れの方々や、悪い噂が絶えないご令嬢のみとなった。
もちろん、私が何かをしたわけではない。
私はただ、彼の言葉を受け入れ、彼のいない人生を歩み始めただけだ。
「アリシア。あのときは……悪かった」
彼が小さな声で言った。
「君があんなに簡単に受け入れるとは思わなかったんだ」
私は少し考えてから答えた。
「そうですか」
「本当は、君に引き止めてほしかったのかもしれない」
「でも、私は引き止めませんでした」
「ああ……」
「……エドガー様。私は、あなたと結婚しなくてよかったと思っています」
彼の顔が歪んだ。
けれど、私はもう彼の表情に心を乱されることはなかった。
「あなたにも、いつかご自分に合う方が見つかるとよいですね」
それだけ告げて、私はルシアンと店を出た。
外には、柔らかな春の日差しが降り注いでいた。
「よかったのですか?」
ルシアンが尋ねる。
「何がですか?」
「最後に、あんなことを言って」
私は少し考えて、笑った。
「ええ。もう、何も残っていませんもの」
憎しみも、未練も、仕返しをしたいという気持ちも。
すべて、あの夜会に置いてきた。
婚約破棄されたとき、私は自分の未来が閉ざされたように感じていた。
けれど実際には、閉じたのはたった一つの扉だけだった。
その向こうには、私がまだ知らない景色がいくつも広がっていたのだ。
「ルシアン様」
「はい?」
「帰りに、あのお店へ寄ってもいいですか? 以前お話しした、好きな焼き菓子のお店です」
「もちろん。ぜひ案内してください」
彼は笑って、私に手を差し出した。
私はその手を取った。
誰かに選ばれるためではなく、自分が一緒にいたいと思える人と歩いていく。
それが、私の望んでいた幸せだった。
そして私は今、心から思うのだ。
あの夜、婚約破棄を告げられて本当によかった、と。
だって、あの人と結婚していたら、こんなにも穏やかな幸せを知らずにいたのだから。




