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婚約破棄?ええ、どうぞ。私もあなたとの結婚はお断りです

作者: 黒色鮎
掲載日:2026/10/13


「アリシア・ベルモント。君との婚約を破棄する」


 王都の大広間に、婚約者であるエドガー伯爵令息の声が響いた。

 華やかな音楽が止まり、集まっていた人々の視線が一斉に私へ向けられる。


 彼の隣には、淡い桃色のドレスを着た令嬢が寄り添っていた。子爵家の三女、マリアンヌだ。

 彼女は困ったように眉を下げ、私を見つめている。


「ごめんなさい、アリシア様。私、エドガー様をお慕いしてしまって……」


 そう言いながら、彼女はエドガーの腕にそっと手を添えた。


 やはり。

 そろそろだと思っていた。

 私は二人を眺め、それから小さく息を吐いた。


「承知しました」

「……は?」


 エドガーが間の抜けた声を上げる。


「婚約を破棄なさるのでしょう? 委細承知いたしました」

「な、なんだその態度は!」


 彼は顔を赤くした。


「君は僕の婚約者だぞ! 少しは取り乱したらどうなんだ!」

「取り乱す理由がありませんもの」

「僕が別の女性を選んだんだぞ!」

「それは先ほど伺いました」


 私はにっこりと微笑んだ。


 正直に言えば、全く悲しくないわけではない。


 十歳の頃から婚約者だった相手だ。いつか夫婦になるのだろうと、漠然と思っていた時期もある。

 けれど、ここ一年ほどの彼を思い返せば、今さら涙を流す気にもなれなかった。


 約束したお茶会には平気で遅刻する。

 贈った品には文句をつける。

 私が楽しみにしていた観劇の日には、マリアンヌとの約束を優先した。


 そのたびに彼は言った。

 婚約者なのだから、少しくらい我慢してくれ、と。


 私は十分に我慢したと思う。

 だから、もういい。


 それに最近は、何やら2人でこそこそ話し合っていたので、そろそろ私から乗り換えるのだろうと察していた。


「それでは、私は失礼いたします」

「待て!」


 踵を返そうとした私を、エドガーが呼び止めた。


「君は自分の立場が分かっているのか? 婚約を破棄された令嬢など、まともな縁談が来なくなるんだぞ!」

「そうかもしれませんね」

「だったら、もっと僕にすがるべきだろう!」


 ……どうやら、彼は私が泣きつく展開を期待していたらしい。

 そして、その姿を見て、優越感に浸ろうとしていたのだろう。


 私は思わず笑ってしまった。


「エドガー様。ご安心ください。あなたにすがるくらいなら、独身のままで結構です」

「なっ……!」

「それに、私もあなたとの結婚はお断りです。婚約破棄していただけて、むしろ助かりましたわ」


 大広間がざわめいた。

 マリアンヌの笑顔がわずかに引きつる。


「アリシア様、それはあまりにも強がりでは……?」

「いいえ。心から申し上げています」


 私は二人に一礼し、今度こそ大広間を後にした。

 背後からエドガーの怒鳴り声が聞こえたが、振り返らなかった。


 その夜、私は久しぶりにぐっすり眠った。








 ◇


 翌朝、父は朝食の席で私に尋ねた。


「本当にいいのか?」

「ええ、お父様」

「ベルモント家としては、婚約破棄そのものより、あちらが公の場でお前に恥をかかせたことが問題だ。……もしかしたらまだその事で、相手方から何か言われるかもしれん。例えば何かをでっち上げてお前の評判を落としたり、とかな」

「……何を言われても構いません。私はもう、あの方と結婚するつもりはありませんから。

 それに、名誉毀損などの方は、もうお父様動いているでしょう?」

「当然だ。然るべきところに既に報告済みだ」

「なら安心です。何も不安に思わずに堂々と出来ます」


 父はしばらく私を見つめていたが、やがて頷いた。


「分かった。お前が決めたことなら、私は反対しない。

 ……他のことは私に任せなさい。地獄を見せてくれる」


 父の言葉に思わず笑ってしまう。

 その言葉だけで十分だった。

 私はようやく、自分の人生を自分で決められるのだ。

 そう思った。



 ところが、婚約破棄から三日後。

 我が家にエドガーが訪ねてきた。


「アリシアに会わせてくれ!」


 その一点張りだ。


 断ろうか、と父が目配せをしてくれたが、私は大丈夫。応接室に通してください、と家令にお願いした。

 そして、一緒に着いてこようとする父を制止して、自分一人で応接室に向かった。



 応接室に通された彼は、私を見るなり不機嫌そうに言った。


「君、いつまで意地を張るつもりだ?」

「何のことでしょう?」

「婚約破棄の件だよ。あれは少し頭を冷やしてもらうためだったんだ」


 私は瞬きをした。


「……婚約破棄を、取り消すということですか?」

「そうだ。君も反省しただろう?」


 何をどう解釈すれば、その結論になるのだろう。

 それに、マリアンヌはどうなるのだろうか。

 私は首を傾げた。


「お断りします」

「なぜだ!」

「なぜ、と申されましても。私は婚約破棄を受け入れました。もう終わったお話です」

「君は僕の婚約者だったんだぞ!」

「過去形ですね」

「揚げ足を取るな!」


 エドガーは苛立たしげに髪をかき上げた。


 暫くは、このような無意味な問答が続く。

 すると、彼は痺れを切らしたのか、私に向かって更に声を張り上げた。


「分かった。僕はマリアンヌと結婚することにする」


 一拍置いて、彼は更に畳み掛けてくる。


「だが、彼女は伯爵夫人になる自信がないと言っている。君が彼女に作法を教えてやってくれないか?」


 私はしばらく黙って彼を見つめた。


 婚約者を乗り換えたうえに、その相手の教育を元婚約者に頼む。

 いったい、どこからそんな発想が出てくるのだろう。

 その神経を疑っていたからだ。


「お断りします」

「君ならできるだろう?」

「できるかどうかではなく、やりたくありません」

「なんて心が狭いんだ!」

「そうですね。私は心が狭いので、婚約者を奪った方に親切にする余裕はございません」


 エドガーは口を開けたまま固まった。

 私は穏やかに微笑む。

 これ以上彼の戯言を聞くのは時間の無駄だと思った。


「どうぞお帰りください。私、これから友人と出かける予定がありますので」

「後悔するぞ!」

「しないと思います」


 彼は顔を真っ赤にして帰っていった。

 その背中を見送りながら、私は少しだけ気分が晴れた。


 しかし、本当の騒動はそれからだった。










 ◇


 婚約破棄から一か月。

 エドガーとマリアンヌの婚約は、正式に発表された。


 ところが、二人の関係は思うように進まなかったらしい。


 マリアンヌは華やかな夜会が好きで、流行のドレスや宝石にも目がない。

 一方のエドガーは、自分の趣味にお金を使うのが大好きな男だった。

 婚約者への贈り物には金を惜しむくせに、自分の馬や衣装には平気で散財する。

 以前、私がそれとなく注意したときには、「男の趣味に口を出すな」と怒鳴ったものだ。


 そんな二人が、互いの浪費を許せるはずもなかった。


 夜会で着るドレスの値段を巡って喧嘩をした。

 贈られた宝石が気に入らないと、マリアンヌが泣いた。

 エドガーは彼女に、贅沢をするなと怒鳴った。

 するとマリアンヌは、貴方も贅沢ばっかりじゃないと言い返したそうだ。



 私はその話を友人から聞き、紅茶を飲みながら首を傾げた。


「それなら、どうして私から彼を奪ったのかしら?」

「さあね。隣の芝生は青く見えたんじゃない?」


 友人は肩をすくめた。


「それに、エドガー様、あなたのことを悪く言いふらしているそうよ。冷たい女だったとか、婚約者を立てることもできなかったとか」

「そう」

「腹が立たないの?」

「少しはね。でも悪口を言いふらされるのは予想してたし、思ったより悪口が幼稚で、呆れたって感覚の方が大きいかしら」


 私は窓の外を眺めた。

 以前なら、彼に悪く言われることが怖かった。

 誰かに嫌われることも、誤解されることも怖かった。


 けれど今は違う。

 私をよく知る友人たちは、私がどんな人間なのか分かってくれている。

 それだけで十分だった。







 ◇


 数日後、私は父の知人から一人の青年を紹介された。


 名前はルシアン・グレイ。

 子爵家の次男で、王都の商会に勤めているという。

 初めて会った彼は、少し緊張した様子で頭を下げた。


「こういう席は慣れていないもので。失礼があったら申し訳ありません」

「私も、あまり得意ではありませんわ」


 そう答えると、彼はほっとしたように笑った。

 話してみると、彼は私の意見をきちんと聞いてくれる人だった。

 好きなものを尋ね、私が答えれば自分の好みも話してくれる。

 意見が違っても、否定するのではなく、そういう考え方もあるのですね、と頷いてくれた。


 当たり前のことかもしれない。

 けれど、私はそんな時間がとても心地よかった。

 帰り際、彼は少し迷ったあとで口を開いた。


「もしよろしければ、またお会いしていただけませんか?」

「ええ。ぜひ」


 自然と笑みがこぼれた。

 恋が始まったかどうかは、まだ分からない。


 けれど、少なくとも私は、誰かの機嫌を損ねないようにと怯えながら過ごす必要はなかった。

 それが何より嬉しかった。



 それから半年後。


 私は街の菓子店で、偶然エドガーと顔を合わせた。

 彼は以前よりも疲れた顔をしていた。


「アリシア……」


 気まずそうに私の名を呼ぶ。


「お久しぶりですわ、エドガー様」

「君は……その、元気そうだな」

「ええ。おかげさまで」


 彼の視線が、私の隣に立つルシアンへ向けられた。


 ルシアンは私の新しい婚約者になった。

 私たちは来春、結婚する予定になっている。


「その男と、結婚するのか?」

「はい」

「……そうか」


 エドガーは何かを言いかけ、口を閉じた。

 かつての彼なら、私に向かって嫌味の一つでも言っただろう。

 けれど今の彼には、その元気さえないようだった。


 マリアンヌとの婚約は、すでに解消されているらしい。

 互いの価値観が合わず、喧嘩が絶えなかったよくだ。

 彼女は別の裕福な男性との縁談を望み、エドガーはそれを止められなかったという。


 その後、エドガーの家では次々と縁談が持ち込まれたものの、以前の騒動を知る家々からは敬遠されているそうだ。

 つまり、彼に婚約を求めるのは行き遅れの方々や、悪い噂が絶えないご令嬢のみとなった。


 もちろん、私が何かをしたわけではない。

 私はただ、彼の言葉を受け入れ、彼のいない人生を歩み始めただけだ。


「アリシア。あのときは……悪かった」


 彼が小さな声で言った。


「君があんなに簡単に受け入れるとは思わなかったんだ」


 私は少し考えてから答えた。


「そうですか」

「本当は、君に引き止めてほしかったのかもしれない」

「でも、私は引き止めませんでした」

「ああ……」

「……エドガー様。私は、あなたと結婚しなくてよかったと思っています」


 彼の顔が歪んだ。

 けれど、私はもう彼の表情に心を乱されることはなかった。


「あなたにも、いつかご自分に合う方が見つかるとよいですね」


 それだけ告げて、私はルシアンと店を出た。

 外には、柔らかな春の日差しが降り注いでいた。


「よかったのですか?」


 ルシアンが尋ねる。


「何がですか?」

「最後に、あんなことを言って」


 私は少し考えて、笑った。


「ええ。もう、何も残っていませんもの」


 憎しみも、未練も、仕返しをしたいという気持ちも。

 すべて、あの夜会に置いてきた。


 婚約破棄されたとき、私は自分の未来が閉ざされたように感じていた。

 けれど実際には、閉じたのはたった一つの扉だけだった。

 その向こうには、私がまだ知らない景色がいくつも広がっていたのだ。


「ルシアン様」

「はい?」

「帰りに、あのお店へ寄ってもいいですか? 以前お話しした、好きな焼き菓子のお店です」

「もちろん。ぜひ案内してください」


 彼は笑って、私に手を差し出した。

 私はその手を取った。


 誰かに選ばれるためではなく、自分が一緒にいたいと思える人と歩いていく。

 それが、私の望んでいた幸せだった。

 そして私は今、心から思うのだ。

 あの夜、婚約破棄を告げられて本当によかった、と。

 だって、あの人と結婚していたら、こんなにも穏やかな幸せを知らずにいたのだから。

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