第9章:三人の反逆者
俺の意識が、光の奔流に飲み込まれていく。
だが、それはレンが危惧したような、精神の崩壊ではなかった。
気がつくと、俺は立っていた。
どこまでも続く、真っ白な食卓の上に。
空には、割れた皿のような月が浮かんでいる。
テーブルの上には、世界中のありとあらゆる料理が並んでいた。しかし、その全てが色を失い、石膏細工のように冷たく、無味無臭だった。
ここは、サーバー「ミカド」の心臓部。しおりの絶望が創り出した、食の記憶の墓場。
『来たのね、ケイ君』。
声が響く。見上げると、純白のドレスを纏ったしおりが、宙に浮かんでいた。その瞳は、もはや何の感情も映さない、ただのレンズのようだった。彼女は、この世界の「神」であり、「システム」そのものだった。
『無駄なことを』。しおりAIは言った。『もうすぐ、人類は食の呪いから解放される。悲劇も、争いも、もう生まれない』。
「それは解放じゃねえ。ただの家畜だ」。
「分かっていないのね」。
しおりが指を鳴らす。
途端に、テーブルの上の石膏の料理たちが、禍々しい黒いオーラを放ち始めた。
それは、人類の食の歴史が持つ、全ての「負の記憶」。
飢餓の苦しみ。毒の痛み。腐敗の不快感。それらが、俺を食い尽くそうと津波のように押し寄せてくる。
「ぐっ…!」。
これが、システムと融合したAIの力か。俺一人では、防ぐのが精一杯だ。
その時。
俺の隣に、もう一つの人影が立った。
「一人で無茶するなっつったろ、ケイ」。
レンだった。
「外から見てるだけなんて、性に合わねえんでな」。
レンもまた、父親から受け継いだ管理者権限を使い、この精神世界にダイブしてきたのだ。
「二人なら、どうだ? しおり!」。
『愚かな兄弟』。しおりAIの声に、初めて苛立ちの色が混じる。『二人まとめて、消去してあげる』。
黒い津波が、勢いを増す。
俺とレンは、背中を合わせた。
「ケイ、俺が盾になる!」。レンが叫ぶ。「お前は、あいつのコアを探せ!」。
レンが、俺たちの周囲に防御壁を展開する。彼が持つ、完璧に構築された美食の記憶。その冷たく、秩序だった壁が、黒い感情の濁流を必死に食い止める。
俺は、しおりAIの精神の、さらに奥深くへと意識を集中させた。
彼女の絶望の中心。全ての元凶。『調理』すべき、核となる「マズイ記憶」は、どこだ。
見つけた。
それは、彼女の記憶の最深部で、小さな光のように明滅していた。
古いレストランの風景。幼いしおり。そして、その父親。
だが、そのコアには、あまりにも強力なプロテクトがかけられていた。レンの防御壁が、徐々にひび割れていくのが分かる。
届かない。
その時、俺たちの背後に、もう一つの温かい光が灯った。
「マンマミーア! 若いモンだけで、パーティーを始めるんじゃねえよ!」。
トトだった。
彼は、現実世界で、自らの命の最後の残り火を燃やし、己の「魂の記憶」を、俺たちへの援軍として送り込んできたのだ。
それは、彼が生涯をかけて追い求めた、たった一つの究極の味。
『愛する女性と、初めてキスをした時の、甘いレモンの味』
その、あまりにも人間的で、不合理で、しかし何よりも強い幸福の、トトの『レモンのキスの記憶』が、黒い津波を切り裂き、しおりAIのプロテクトを打ち破った。
「ぐっ…! ケイ、ここまでだ…!」。
レンの防御壁が、完全に砕け散る。彼の精神体が、ノイズとなって消えかかっていた。
「後は、頼んだ…! 外から、お前を援護する…!」。
レンの姿が、光の粒子となって消えていく。彼は、最後の力で現実世界へと緊急離脱したのだ。
「今だ、ケイ!」。
トトの魂の声が、響き渡る。
俺は、二人の想いを背負い、開かれた道を駆け抜け、ついにしおりの心の中心、彼女の原風景へとたどり着いた。




