第6章:ミカドの番人
AS社の追跡を振り切り、俺たちはついにサーバー「ミカド」が設置された施設にたどり着いた。北海道の原生林の奥深く、雪を頂いた山脈に隠された、巨大なドーム状の要塞。近づくほどに、人工的な静寂が、自然の音を飲み込んでいくのが分かった。
「ここが、日本の胃袋の全てを支配する場所か」。トトが、感慨深げに呟いた。その横顔には、自らが設計に関わった過去への、複雑な想いが滲んでいた。
しおりが、施設のセキュリティマップを空中に投影する。青白い光が、俺たちの顔を照らした。
「セキュリティは三段階。第一、第二防衛網は、物理的な警備ドローンと、単純なAIトラップ。私とレンがハッキングすれば、問題なく突破できる。問題は、コアサーバーへと続く最後のゲートよ」。
「何があるんだ」。
「番人がいるわ」。しおりの声が、わずかに震えた。「AS社のCEO直属の、最高位デバッガー。あらゆる違法テイストを検知し、無力化するシステムの管理者。コードネームは、『ソムリエ』」。
レンの顔が、初めて恐怖に歪んだ。
「ソムリエだと。あいつは、俺やケイとは次元が違う。俺たちが記憶を『書き換える』ハッカーなら、あいつは、記憶を『味わい、分解し、無に帰す』鑑定家だ。俺のハッキングも、あいつの前ではただのノイズでしかない」。
俺たちは施設に侵入した。
しおりとレンのハッキングで、無数のレーザートラップや監視ドローンをかいくぐり、ついにコアサーバーへと続く最後の円形ホールにたどり着く。
その中央に、一人の男が立っていた。
色褪せたグレーのスーツに身を包み、まるで存在感そのものが希薄な男。その男が、俺たちに静かに告げた。
「俺の名は、アッシュ」。
その声には、何の抑揚もなかった。
喜びも、怒りも、悲しみも。全ての感情が抜け落ちた、ただの音の羅列。
トトが、その男を見て凍りついた。
「マルコ。なのか?」。
アッシュと名乗った男は、かつてトトの一番弟子だったマルコだった。しかし、その面影はどこにもない。太陽のように笑った青年の瞳は、全てが燃え尽きた後の、冷たい灰の色をしていた。
「マエストロ・トト」。アッシュは言った。「あなたは、まだそんなノイズの多い世界にいるのですか」。
「お前こそ、どうしちまったんだ、マルコ!」。トトが叫んだ。「お前の料理は、太陽のように情熱的だったじゃねえか!」。
「情熱は、苦しみを生むだけです」。アッシュは静かに答えた。「俺は、救われたんですよ。全ての味と、感情から」。
彼は、かつて俺やレンと同じく「偏食症」の患者だった。だが、彼の治療は失敗した。味覚だけでなく、全ての感情を失ってしまったのだ。しかし、彼はそれを絶望ではなく、「究極の平穏」と受け入れた。そして、AS社のCEOは、彼のその「無」の能力を、システムを守る最強の番人として利用したのだ。
「戯言はそこまでだ」。
俺とレンは、同時にアッシュに精神攻撃を仕掛けた。
俺は、トトから学んだ『完璧なマルゲリータ』の記憶を。
レンは、自らの切り札である『氷温熟成の牡蠣』の記憶を。
灼熱の情熱と、絶対零度の秩序。二つの相反する強力なテイストが、アッシュに襲いかかる。
だが、アッシュは動じなかった。
彼は、俺たちの攻撃を、まるでテイスティングするかのように、静かに受け止めた。
「熱い。冷たい。どちらも、うるさい」。
アッシュは、指先で宙に触れた。
彼が、その記憶を解放する。
それは、何の味もしなかった。
音も、匂いも、温度もない。
ただ、どこまでも続く、静寂。
『雪深い山寺で、一人すする白湯の記憶』
その絶対的な「無」の感覚が、俺たちの攻撃的な記憶を、一瞬で飲み込み、消し去った。情熱も秩序も、その静寂の前では意味をなさない。
「ぐっ…あ…!」。
俺とレンの脳が、情報過多とは真逆の、情報欠落によってショートする。精神が、真っ白な虚無に塗りつぶされていく。俺たちの武器である「味」が、その存在意義そのものを否定されたのだ。
俺たちが膝から崩れ落ちるのを見て、トトが前に進み出た。
「そこまでだ、アッシュ」。
トトは、懐から古びた一枚のメモリチップを取り出した。それは、彼が肌身離さず持っていた、自分自身の原点の記憶。
「小僧たちを下がらせろ。最後のコースは、ワシがお前にもてなしてやる」。
「無意味です、マエストロ」。アッシュは言った。「あなたの情熱も、俺の静寂の前では消え去るだけです」。
「どうかな」。トトは笑った。「お前が忘れたことを、思い出させてやるよ。料理ってヤツの、本当の味をな」。
伝説の師と、変わり果てた元一番弟子。
全てを懸けた、最後のレッスンが始まろうとしていた。




