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第5章:兄との共闘

「助けてくれ」。

レンのその一言は、俺たちが知る兄の、完璧に構築された世界の終わりを告げていた。


宿舎の簡素な部屋に招き入れたレンは、まるで迷子の子供のように震えていた。その手には、栄養ペーストではなく、彼がどこかから手に入れてきたらしい、旧時代の缶コーヒーが握られている。彼はそれを飲むでもなく、ただ温もりを確かめるように、両手で包み込んでいた。


俺の隣で、しおりが警戒を解いていないのが分かる。彼女の手は、いつでも懐の小型スタンガンを抜けるように、ブラウスの上に置かれていた。トトだけが、何も言わずにキッチンに立ち、古いエスプレッソマシンを動かす準備を始めている。


レンが語ったのは、絶望だった。

彼は、新宿での俺との戦いの後、自らの信じる正義の完璧さを証明するため、この実験都市「エデン」に戻った。AS社のシステムこそが人類の救いだと、己に言い聞かせるために。


だが、彼が見たのは、理想郷の現実だった。

「公園で、子供が転んだんだ」。レンは、虚ろな目で言った。「膝から血が出ていた。普通の子供なら、泣き叫ぶだろ。だが、その子は何もしなかった。ただ、無表情で自分の膝を見ていただけだ。母親が駆け寄り、その子の腕の端末に触れると、子供の顔に、貼り付けたような笑顔が浮かんだ。『ママ、もう痛くないよ』ってな」。


レンは、缶コーヒーを握りつぶさんばかりに力を込めた。

「痛みも、悲しみも、全てがシステムによって『エラー』として処理される。エラーは、幸福感のデータで上書きされる。俺は、父さんと母さんを殺した、あの不完全な世界を終わらせたかった。ただ、それだけだったんだ。だが、あいつらは人間じゃなかった。ただ生きているだけの、人形だ。俺は、ユートピアを作ったつもりが、巨大な墓場を建てていただけだった」。


完璧な健康と引き換えに、人間らしさの全てを奪われた家畜の瞳。彼は、自らが信じた正義の果てにあるのが、そんな空っぽの世界だという現実に耐えられなかった。


システムを内部から破壊しようとした彼は、即座に「不良品」として検知された。彼の脳内に埋め込まれたAS社の認証チップが、彼を裏切り者だと告発したのだ。AS社は、自らが作り出した最強のデバッガーを、今や最大の脅威として排除しようとしている。


「どうする、ケイ」。しおりが俺に問う。その声は、冷徹な分析官のものだった。「彼を信じるの? これは、我々を油断させるための罠かもしれないわ」。

彼女の疑念は当然だ。昨日まで俺たちを殺そうとしていた男だ。


俺は、震える手で缶コーヒーを握りしめるレンを見た。

その姿が、幼い頃、熱を出した俺の手を握ってくれていた兄の姿と、不意に重なった。

「信じるしかねえだろ」。俺は答えた。「こいつは、俺の兄貴だ」。


その言葉を聞いたレンの肩が、わずかに震えた。

しおりは、小さくため息をつくと、ブラウスから手を下ろした。

「あなたの判断に賭けるわ。ただし、彼が少しでもおかしな動きを見せたら、私が処理する」。


その時、トトが淹れたてのエスプレッソを二つ、俺とレンの前に置いた。強烈に焙煎された、豆の香り。

「まあ、敵の敵は味方って言うしな」。トトは言った。「それに、兄弟喧嘩は、まず同じ食卓についてからやるもんだぜ」。


レンは、おそるおそるカップを口に運び、そして、その強烈な苦みに目を見開いた。彼が完璧なデータの世界で忘れていた、本物の「味」だった。


目的の違う四人の、奇妙な共闘が始まった。

俺は、自分の味覚を取り戻すために。

レンは、自らが築いたシステムを、自らの手で破壊するために。


しおりは、『最後の晩餐』を完遂するために。

そしてトトは、俺たち若造の危なっかしい旅路を見届けるために。


エデンからの脱出ルートを探る夜。俺とレンは、二人きりで廃工場の屋上にいた。

冷たい風が、二人の間を吹き抜ける。


「父さんと母さんのことだ」。レンが、唐突に切り出した。「公式の記録じゃ、旧時代に起きた集団食中毒事件の犠牲者、ってことになってる」。

「ああ、そうだろ」。


「だが、俺はAS社の内部アーカイブで、その事件のオリジナルデータを見た」。

レンの声が、低く沈んだ。


「報告書の大部分が、黒塗りで隠されていた。ただ一つだけ分かったことがある。食中毒の原因になったのは、市場に出回る前の、新型の遺伝子組み換え穀物だった。開発元は、AS社だ」。


俺は息を呑んだ。

「事故じゃ、なかったのか」。


「おそらくは」。レンは続けた。「非公式な臨床実験。そして、しおりの父親のレストランは、その実験に協力していたんだろう。俺たちは、その中で生き残った、稀有なサンプルだったのかもしれない。

お前と俺が、テイスト・データに異常な適性を示したのも、その影響かもな」。


脳裏に、母さんが握ってくれた塩むすびの記憶が蘇る。

あの温かさは、全て、計算された実験の一部だったというのか。

怒りが、腹の底から湧き上がってくる。


その時、けたたましい警報が鳴り響いた。AS社の追っ手だ。

俺たちが潜む廃工場を、武装した部隊が完全に包囲している。


「来たか」。レンの目が、かつての冷徹さを取り戻した。「ケイ、やるぞ」。

「ああ!」。

俺たちは、工場の通路で背中を合わせた。初めて感じる、兄の背中の感触。それは、記憶の中よりも、少しだけ小さく感じられた。


「俺がこじ開ける」。

俺は、突入してくる隊員たちの脳内に、新宿の雑踏の記憶を叩きつけた。けたたましいクラクション、怒号、客引きの声。情報過多のノイズが、完璧に訓練された彼らの思考を飽和させ、動きを鈍らせる。


「そこだ!」。

レンの声が響く。

俺が作った混乱の隙間を、レンの鋭利な精神攻撃が、まるで外科医のメスのように、正確に撃ち抜いていく。


彼が送り込んだのは、たった一行のロジック。

『お前の銃の安全装置は、外れていない』。

『隣の仲間は、裏切り者だ』。

『この作戦は、陽動だ。本隊はすでに撤退した』。


隊員たちの脳が、単純だが効果的な偽情報にロックされる。彼らは自分の銃を疑い、仲間を疑い、作戦そのものを疑い、完全に動きを止めた。


俺の『調理』が面を制圧し、レンの『ハッキング』が点を撃ち抜く。

初めて噛み合った双子の能力は、完璧なコンビネーションを生み出していた。

俺たちは、血路を開き、夜の闇へと再び溶けていった。


走りながら、俺は確かに感じていた。一人では決して届かなかった、新しい力の萌芽を。

そして、兄の背中が、昔よりも少しだけ、頼もしく見えたのを。

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