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第4章:偽りのユートピア

鉄パイプの一撃を受け、レンの特殊警棒が手から滑り落ちる。俺は追撃しなかった。できなかった。目の前で膝をつく男は、俺と寸分違わぬ顔をした、たった一人の兄だったからだ。


「なぜだ」。レンが、雨に打たれながら絞り出すように言った。「なぜ俺の記憶をハッキングしなかった。なぜ物理的に殴った」。


「お前の記憶を『調理』しちまったら、お前がお前でなくなる気がした」。俺は答えた。「お前が信じる正義は、俺には理解できねえ。だが、それを汚す権利も、俺にはない」。


レンは黙っていた。

その時、複数のサイレンの音が、急速にこちらへ近づいてくるのが聞こえた。AS社の増援部隊だ。

「行け、ケイ」。レンは顔を上げずに言った。「次はない」。


俺はレンに背を向け、闇の中へと走り出した。

唇から流れる血の味がした。

「リアル・キッチン」に戻ることはできない。アジトはもうないだろう。俺は、『最後の晩餐』のチップを握りしめ、しおりとトトが事前に示していた、次の合流ポイントへと向かった。


目指すは、北海道。サーバー「ミカド」の本体が設置されている場所だ。

数日後。俺は貨物列車に紛れ込み、北の大地にたどり着いた。


合流ポイントに指定されたのは、かつて観光地だったというゴーストタウン。そこで俺を待っていたのは、しおり、そして奇跡的に脱出していたトトだった。


「よく来たな、ボーイ!」。トトは俺の肩を力強く叩いた。「無事で何よりだ」。

「リアル・キッチンの仲間たちは」。

「心配するな。みんな散り散りになったが、生きてるさ」。トトは陽気に笑った。だが、その目の奥には深い疲労の色が浮かんでいた。


しおりは、俺が無事だったことに安堵のため息をつき、すぐに厳しい表情に戻った。

「時間がないわ。AS社は、あなたと私が接触することを見越して、北海道全域に厳戒態勢を敷いている。特に『ミカド』へのルートは完全に封鎖された」。


「じゃあ、どうする」。

「一つだけ、ルートがある」。しおりは一枚の地図を広げた。「AS社が直轄する、実験都市『エデン』を抜けるのよ」。

『エデン』。


政府の広報で、その名前は知っていた。「国民健康テイスト法」が最も理想的な形で運用され、犯罪発生率ゼロ、平均寿命100歳を達成したという、地上の楽園。

俺たちは身分を偽り、その完璧なユートピアに潜入した。


街は、塵一つなく清潔で、人々は皆、穏やかな笑みを浮かべていた。公園では子供たちが笑い声をあげ、広場では老人たちが健康的に体を動かしている。空には、常にAS社のロゴが浮かび、定時になると、全住民が携帯端末を取り出し、一斉に栄養ペーストを摂取し始める。その光景は、統率が取れていて、どこか不気味だった。


「おかしい」。トトが囁いた。「レストランが一軒もない。市場も、スーパーも。ここは、食べ物の匂いが一切しない」。

その夜、俺たちは潜入した宿舎で、この街の秘密の一端に触れた。


隣の部屋から、赤ん坊の泣き声が聞こえる。しかし、数分もすると、ピタリと止んだ。不審に思った俺が壁に耳を当てると、母親が赤ちゃんをあやす声が聞こえた。

「ほら、いい子ね。AS社の『スマイル・テイスト』よ。もう悲しくないでしょ?」。


ぞっとした。

この街の住民たちは、AS社のデータによって、味覚だけでなく、感情さえもコントロールされていたのだ。悲しみや怒りといったネガティブな感情が芽生えると、即座に幸福感を与えるテイスト・データが脳に送り込まれる。

彼らは笑っているのではない。笑わされているのだ。


ここは楽園じゃない。人間から、人間らしさを奪う、巨大な牧場だ。

俺は、運び屋として扱ってきた「本物の記憶」の意味を、初めて本当の意味で理解した。

失恋の痛みも、焦げたザリガニの泥臭さも、それら全てが、人間が生きている証だったのだ。


俺は、ポケットの中のクリスタル製のメモリチップ『最後の晩餐』を強く握りしめた。

成功報酬は、琥珀色のチップ――俺自身の「味覚の記憶」――それを取り戻すことは、単に「美味しい」と感じるためだけじゃない。

俺が、人間として生きるための、最後の戦いなんだと。


その決意を固めた俺の背後で、部屋のドアが静かに開いた。

そこに立っていたのは、レンだった。

だが、その目は、新宿で別れた時とはまるで違っていた。彼の瞳には、深い絶望と、そして、かすかな助けを求めるような色が浮かんでいた。


「ケイ」。レンが、絞り出すように言った。

「助けてくれ」。

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