第3章:兄の正義
「リアル・キッチン」での日々は、俺が失っていたはずの時間を取り戻すかのようだった。
トトの指導のもと、俺は生まれて初めて包丁を握り、火の使い方を学んだ。味はしない。だが、玉ねぎを炒めれば目に染みるし、ニンニクの香りは腹を空かせた。五感に直接訴えかける「本物の料理」は、俺の中で眠っていた何かを少しずつ揺り起こしていく。
修行は、料理だけではなかった。
「ボーイ、俺をハッキングしてみな!」。トトは言った。
俺は彼の記憶にダイブする。トトがぶつけてきたのは、彼が若き日にナポリの窯で焼いたという、完璧なマルゲ-リータ・ピッツァの記憶だった。焦げた生地の香り、トマトの酸味、モッツァレラのコク。その完成された調和の前に、俺の安っぽい記憶など、太刀打ちできない。
「違うぜ、ケイ!」。トトの現実世界からの声が、俺の脳内に響く。「混ぜるな、汚すな! 味わうんだ! このピッツァの『骨格』を読み解け。何の粉が、どんな酵母が、どういう温度で、この味の頂に辿り着いたのかを!」。
『調理』とは、ただ混ぜ合わせることではなかった。
相手の記憶を、一つの完成された料理として「分解」し、その構造を理解し、「再構築」する力。俺は来る日も来る日も、トトの太陽のような美食の記憶にダイブし、その構造を読み解く訓練を続けた。
そんな日々が、唐突に終わりを告げた。
アジトの分厚い防爆扉が、外から凄まじい熱量で溶解していく。AS社の襲撃。それも、前回の鎮圧部隊とは規模が違う。
「来たか」。トトは、ピザ生地を叩いていた手を止め、静かに言った。
「ケイ、行け。君がここで捕まるわけにはいかない」。
「あんたたちはどうするんだ」。
「俺たちはコックだ。客のいない店に長居は無用さ」。
トトは不敵に笑うと、アジトのメンバーたちと共に、AS社を迎え撃つ準備を始めた。俺は、彼らの覚悟に背を向け、『最後の晩餐』のチップを握りしめ、裏口から脱出する。唇を噛み締めると、鉄の味がした。味覚がないはずの俺の口の中に、確かに。
地下通路を抜ける。
地上への出口は、西新宿の古い地下鉄駅跡だった。
そいつは、そこにいた。
雨が降っていた。
地上へと続く階段の上。降り注ぐ酸性雨のカーテンの向こうに、レンが静かに佇んでいた。
「ずいぶん腕を上げたようだな、ケイ」。レンの声は、雨音の中でもクリアに聞こえた。「お前の精神的なノイズが、ここまで漏れ伝わってきてる」。
「お前こそ、ドブネズミの匂いを追うのがうまくなったじゃないか」。
「そのドブネズミが、俺たちの両親を殺したんだ」。
レンの言葉が、冷たい刃物のように俺の胸を刺した。
「忘れたのか、ケイ。旧時代、管理されていない食材で起きた集団食中毒。あの事件さえなければ父さんも母さんも死ななかった。俺たちが作ろうとしているのは、二度とあんな悲劇が起きない、完璧な世界だ。お前が守ろうとしているガラクタみたいな記憶は、その世界を汚す病原菌でしかない!」。
「その完璧な世界とやらで、人は笑うのかよ!」。
「笑うさ。AS社が提供する、安全で幸福な記憶でな」。
問答は、無意味だった。
俺とレン、どちらかがここで終わる。
レンが指を鳴らすより早く、俺はヤツの脳内にダイブした。
叩きつけたのは、このアジトで学んだばかりの、トトの記憶。
『完璧なマルゲ-リータ・ピッツァ』
太陽の味が、レンの精神世界に展開される。
「なるほどな。あの裏切り者から良いものを盗んだ」。レンは、その完璧な味の世界の中でも冷静だった。「だが、所詮は借り物の味だ!」。
レンの脳内で、ピッツァの世界が黒く染まっていく。
彼がぶつけてきたのは、純粋な「悪意」。
『腐敗した肉の記憶』『カビの生えたパンの記憶』
完璧なマルゲ-リータが、一瞬で吐き気を催す残飯へと変わる。
「ぐっ…!」。
精神的なダメージが、現実世界の俺の身体を襲う。膝から崩れ落ちそうになる。
「終わりだ、ケイ」。
レンが、特殊警棒を構え、ゆっくりと距離を詰めてくる。
俺は、腐敗したピッツァの記憶の中で、必死に思考を巡らせた。
トトの教え。『調理』しろ。この不味い料理を、作り変えろ。
どうやって。こんな純粋な悪意を。
その時、脳裏にトトの声が響いた。
――その記憶の『骨格』を読み解け。
そうだ、分解するんだ。
俺は、腐敗した肉の記憶の、さらに奥へと意識を沈めていく。
なぜ、この肉は腐ったのか。そこには、時間の経過、バクテリアの繁殖、温度と湿度、あらゆる「情報」が詰まっている。
俺は、その中から一つの情報だけを抜き出した。
「発酵」という概念。
腐敗と発酵は、紙一重だ。
俺は、レンが叩きつけた腐敗の記憶の中から、「腐敗」の要素だけを抽出し、それを「熟成」と「発酵」の記憶で上書きした。
俺自身の記憶ライブラリじゃない。この腐敗の記憶そのものを『調理』したんだ!
レンの脳内で、吐き気を催す腐敗臭が、芳醇な香りに変わった。
腐った肉は、完璧に熟成されたドライエイジドビーフへ。
カビの生えたパンは、高貴な香りを放つブルーチーズへ。
「な、に!?」。
レンの精神世界が、初めて激しく揺らぐ。
「俺の記憶を、書き換えただと…!?」。
現実世界で、レンの足がもつれた。
その隙は、一瞬。
俺は階段を駆け上がり、拾い上げた鉄パイプを、レンの構える警棒めがけて、全力で叩きつけた。
激しい金属音が、雨の新宿に虚しく響き渡った。




