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第29章:国民健康テイスト法、廃止

 俺が叩きつけた、たった一つの、しょっぱい味。

 それは、神楽坂の完璧な世界に、小さな、しかし、決して消えることのない「染み」のように広がっていった。

『なんだ、これは』

 神楽坂の声が、震えている。

『この、不合理な温かさは。解析できない最適化できない!』

「当たり前だ」

 俺は言った。

「それは、情報じゃねえ。魂だからだ」

 仲間たちが送り込んできた、無数の「不完全な味」。

 失敗の味。涙の味。汗の味。惨めな味。

 それらが、神楽坂の白亜の神殿を、温かい、人間臭い色彩で、塗り替えていく。

 完璧だったはずの世界が、崩壊していく。

 だが、それは、絶望的な崩壊ではなかった。

 冷たい石の神殿が、温かいレンガの家へと、変わっていくような、穏やかな崩壊だった。

『やめろ』

 玉座から崩れ落ちた神楽坂は、子供のように、頭を抱えていた。

『私の世界が私の、完璧な静寂が!』

 俺は、彼の前に、そっと膝をついた。

 そして、俺が、最後に『調理』した、一つの記憶を、彼に差し出した。

 それは、彼自身の記憶だった。

 俺が、彼の「負のフルコース」の中から、ただ一つだけ、抜き出しておいたもの。

 若き日の神楽坂が、人体実験に失敗し、全てを失った、あの「絶対的な喪失感」の記憶。

 だが、俺は、それを、少しだけ『調理』しておいた。

 その絶望の記憶の隣に、そっと、一つの記憶を添えて。

 あの日、俺が味わった、『涙の塩味』の記憶を。

「あんたは、一人じゃなかったんだ」

 俺は言った。

「俺も、レンも、しおりも、アッシュも、そして、トトさんも。みんな、何かを失って、それでも、不格好に生きてきた」

「完璧な人間なんて、いやしねえんだよ」

 俺の言葉が、俺の「料理」が、神楽坂の、凍りついた心の、最も深い場所へと、届いていく。

 彼の、灰色の瞳から、一筋、涙がこぼれ落ちた。

 彼が、何十年も前に、失ったはずの、人間的な感情。

『しょっぱいな』

 彼は、赤ん坊のように、呟いた。

 その瞬間、彼の精神世界が、そして、宇宙ステーション全体が、温かい光に包まれた。

「ウロボロス」のシステムが、その活動を、完全に停止した。

 俺たちの、長い戦いが、終わった。


 数週間後。

 世界は、大きな混乱と、そして、静かな喜びに包まれていた。

 AS社の支配は終わり、「国民健康テイスト法」は、廃止された。

 人々は、おそるおそる、自らの舌で「味わう」という、忘れていた行為を、取り戻し始めていた。

 俺とレンは、政府の特別諮問委員会に出頭していた。

 俺たちの行為は、結果的に世界を救ったが、同時に、国家のシステムを破壊したテロ行為でもあったからだ。

 厳しい尋問が続く中、委員の一人が、俺に問いかけた。

「君は、これから、どうするつもりかね? 君のその力は、使い方を間違えれば、神楽坂と同じ、危険なものになりうる」

 俺は、答えた。

「俺は、ただの、料理人です」

「味は、分かりませんが」

 俺は、ポケットの中から、ひび割れたクリスタルのチップを取り出した。

 しおりの、哀しいお守り。

 俺は、それを、テーブルの上に、そっと置いた。

「俺は、もう、運び屋じゃない。誰かの記憶を、奪うこともしない。ただ、腹を空かせたヤツがいたら、温かい飯を、食わせてやりたい。それだけです」

 俺のその答えに、委員会は、これ以上、何も言わなかった。


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