第2章:地下の食卓
レンの登場と同時、レストランの窓ガラスが外から一斉に砕け散った。黒いコンバットスーツに身を包んだAS社の鎮圧部隊が突入してくる。閃光弾が炸裂し、鼓膜を引き裂く轟音が個室を満たした。
「ケイ、これを!」。
しおりが叫び、クリスタル製のメモリチップ『最後の晩餐』を俺の手に無理やり握らせた。
「行きなさい! あなたの『味覚』は、私が必ず守る!」。
だが、レンは俺しか見ていなかった。
「逃がすかよ、出来損ない」。
レンが指を鳴らす。
その瞬間、俺の脳内に鋭利な氷のイメージが突き刺さった。
レンが叩きつけてきたのは『ミシュラン三つ星レストランで味わう、キャビアを乗せた氷温熟成の生牡蠣』の記憶。絶対零度に近い冷たさと凝縮された磯の香りが、俺の思考を麻痺させようとする。
だが、俺が感じたのは、美食の記憶ではなかった。
それは、まるで設計図だった。
牡蠣の産地、水温、塩分濃度。キャビアの熟成期間、一粒ごとの脂質の含有率。皿の温度、室内の湿度、照明の角度。その一皿を構成する、ありとあらゆる要素が、無慈悲なほどの精度で数値化・データ化されていた。
そこには、シェフの哲学も、生産者の汗も、客の笑顔も存在しない。
美食という名の総合芸術から、人間的な「曖昧さ(ノイズ)」を全て削ぎ落とし、完璧な「数値の羅列」へと変換したもの。
その、あまりにも膨大で、あまりにも無機質な情報奔流が、俺の脳を洗い流していく。人間的な感情や思考が、完璧なデータの前では処理能力を超えた「エラー」となり、シャットダウンしていく。
思考が、麻痺する。
現実世界で、俺の身体がガクガクと震え始めた。
「ぐっ!」。
寒い。指先から急速に体温が奪われていく。レンの精神攻撃が俺の自律神経をハッキングし、疑似的な低体温症を引き起こしていた。鎮圧部隊の隊員が俺に銃口を向けるのが、スローモーションで見えた。
動けない。
その時、背後から伸びてきたしおりの腕が俺の首筋に何かを突き立てた。微かな電流が走り、俺の脳内に強制的に一つのデータが流れ込んでくる。
『灼熱の砂漠で飲んだ、ぬるい水』。
渇ききった喉を潤す、生温かい液体。泥臭さ。だが、死の淵から引き戻されるほどの圧倒的な生命の味。その猛烈な「渇きと潤い」の記憶が、氷の記憶を内側から蒸発させていく。
身体の自由を取り戻した俺は、床を転がり隊員の銃弾を紙一重でかわした。
「天城しおり、貴様!」。
レンの怒声が響く。
しおりは俺に叫んだ。
「裏口へ! そこで待つ者に、これを!」。
彼女は俺が握るチップを指差し、自らは鎮圧部隊の前に立ちはだかった。
迷っている暇はなかった。俺はレストランの厨房を駆け抜け、裏口の扉を蹴破る。
路地裏の暗闇の中、一台の古いワゴン車がアイドリングの音を立てていた。運転席のドアが開き、陽気な口髭を蓄えた、人の良さそうなラテン系の男が顔を覗かせる。
「乗れ、ボーイ! 遅刻だぞ!」。
俺が車に飛び乗ると同時、ワゴン車は轟音を立てて急発進した。
車内で荒い息をつく俺に、男はバックミラー越しにウィンクして見せた。
「AS社のパーティーは、いつも過激でいけねえな。俺の名前はトトだが、いいかな?」。
「ケイだ。あんた、何者だ」。
「マンマミーア、つれないね! しおりに頼まれた、ただのピザの配達人さ」。
トトは軽快に笑った。
ワゴン車が向かったのは、首都高の地下、今は使われていない古い共同溝の入り口だった。偽装された壁の向こうに俺たちの隠れ家はあった。
そこは、温かい湯気と、焼きたてのパンの香りに満ちていた。
「リアル・キッチン」。政府の監視を逃れ、本物の食材で調理し食べるという「犯罪行為」に人生を捧げた者たちのアジト。
トトは、俺を年季の入った木のテーブルに座らせると一杯のミネストローネを差し出した。
トマトと、様々な野菜の香り。俺の味覚は何も感じない。だが、その温かい湯気は冷え切った身体にじんわりと染みた。
「しおりが使ったのは荒療治だ」。トトは言った。「記憶には記憶をぶつける。そんな馬力だけの勝負じゃ、いずれエンジンが焼き付いちまう。君の兄貴も、そうだろ?」。
「じゃあ、どうしろって言うんだ」。
「君の力は、ただのハッキングじゃない」。トトは、人差し指を立てた。「君は、他人の記憶を『味わう』ことができる。それはね、ボーイ。データを削除するのとはワケが違う。君の力は、『Cucina』料理だ」。
「料理?」。
「そうさ。相手が出してきた不味い料理を、悲しい顔して食うんじゃない。君の記憶で陽気に味付けし、マンマの味に作り変えちまうのさ。マズイ記憶を消すんじゃない。『ボーノ!』な記憶に、作り変えるんだよ」。
トトの言葉は俺の能力の核心を突いていた。
俺は、トトに差し出されたミネストローネをもう一度見つめた。味はしない。だが、その奥に、このスープを作った人間の陽気で温かい記憶が揺めいているのが、確かに見えた。
その時、厨房の奥から、もう一人、若い男が出てきた。俺と同じように、AS社から逃れてきたエンジニアらしい。彼は、俺とテーブルの上のスープを見て、畏敬の念のこもった声で呟いた。
「すごいな、君…。いきなり、伝説のテイスト・デザイナー、アントニオ・“トト”・サバティーニ本人から、直々に手料理を習えるなんて…」。
その夜から、俺の本当の「味覚」を取り戻すための奇妙な修行が始まった。
それは、運び屋の俺が初めて「料理人」になるための、長い長い道のりの始まりだった。




