第13章:マエストロの遺言
灰色の夜明けから、数日が過ぎた。
俺とレンは、ユウタたちが用意してくれた、地下鉄の廃線を再利用した新しいアジトに身を寄せていた。空気は埃っぽく、時折、上を走る列車の振動が天井から響いてくる。
それでも、ここには微かに、パンの焼ける匂いや、野菜の土の匂いが満ちていた。
トトさんが遺した、最後の匂い。
レンは、ベッドの上で、まだ痛む左腕をさすっている。歌舞伎町のモグリの医者が施した、乱暴な応急処置の跡が痛々しい。
俺の脳も、最後のブロードキャストの負荷で、時折、ひどい頭痛に襲われる。
俺たちは、傷ついた獣のように、静かに息を潜めていた。
神楽坂。ウロボロス。壮大すぎる真実を前に、俺たちは、次の一歩をどこへ踏み出せばいいのか、分からずにいた。
その日、ユウタが、一つのメモリチップを手に、神妙な顔で俺たちの前にやって来た。
「ケイ、レン」
彼は言った。
「トトさんが、あんたたちに遺したものだ」
俺たちは、そのデータを、自分たちのデッキで再生した。
画面に映し出されたのは、いつものキッチンに立つ、トトさんの姿だった。
少し疲れた顔をしているが、その目は、いつものように陽気に輝いていた。
『やあ、ボーイたち。お前さんたちがこれを見てるってことは、ワシは、どうやら最後のピッツァを焼き上げちまった後、らしいな。マンマミーア、ちっとも美味そうな死に方じゃねえな!』
トトさんは、画面の向こうで軽快に笑った。
『まあ、感傷に浸るのはナシだ。時間がねえ。お前さんたちに、話しとかないといけないことがある。ワシが、なぜ「リアル・キッチン」を始めたのか。その本当の理由だ』
トトさんは、語り始めた。
彼が、生まれつきの「共感覚」の持ち主であったこと。
若き日に、その才能を見出され、AS社にスカウトされたこと。
人々の幸福を信じて、テイスト・データをデザインしていた、希望に満ちた日々。
しかし、自らが創った芸術が、人間性を奪うための道具に変えられていく絶望。
そして、彼の一番弟子であったアッシュ(ソムリエ)が、治療の失敗で感情を失っていく姿を目の当たりにしながら、何もできなかった、深い後悔。
『ワシは、逃げたんだ』
トトさんの声が、初めて沈んだ。
『システムと戦う勇気もなく、ただ、自分の殻に閉じこもって、昔ながらの料理を作ることで、罪悪感から目を背けていただけの、ただの臆病なコックだ』
『そして、ワシは、AS社を抜けた後、ただ研究を続けた。共感覚を持つワシの脳と、ケイ、君たち兄弟のような特殊な脳。その共鳴現象についてな。そして、一つの結論に達した』
画面の中のトトさんが、どこか誇らしげに、しかし少し照れくさそうに笑った。
『君たちの脳は、単なる受信機じゃない。特定の周波数で同調すれば、外部から情報を送り込むことも可能な、双方向の送受信機なんだ。ワシは、そのためのインターフェースを、ワシが使っていた、この、油と小麦粉で汚れた古いタブレットに組み込んでいた』
『だから、ケイ。ワシが最後に君に送ったデータは、奇跡じゃない。ワシが、生涯をかけてたどり着いた、最後の『レシピ』だったんだよ。まあ、ワシの命をトリガーにした、一回限りの荒療治だがな』
映像の中のトトさんが、俺たちの目を、まっすぐに見つめた。
『だが、君たちと出会って、ワシは思い出した。料理ってヤツが、人を救う力があるってことを。ケイ、君の『調理』は、まだ荒削りだ。だが、そこには魂がある。レン、君の『ハッキング』は、冷徹すぎる。だが、その根っこには、誰かを守りたいっていう、不器用な優しさがある』
『だから、行け。ボーイたち。ワシの代わりに、本当の『あじわいレストラン』を、世界に開いてやってくれ』
映像の最後に、トトさんは、あの悪戯っぽい笑顔を見せた。
『大丈夫。世界は広い。キッチンは、ここだけじゃねえ。ワシの古いダチが、世界中で、今もこっそり、美味いモンを作ってるはずだ。そいつらを探しな。ああ、そうだ。合言葉を教えといてやるよ』
トトさんは、人差し指を立てて、ウィンクした。
『マンマの味は、最高か?』。
映像が、途切れた。
俺とレンは、黙って顔を見合わせた。
そして、父が遺した「キッチン・コネクト」の世界地図を、再び起動する。
フランス、パリ。メキシコ、オアハカ。タイ、バンコク。
点滅する、光の座標。
それは、もはや単なる目的地ではなかった。
俺たちが、トトさんの意志を継いで、訪れるべき「食卓」だった。
「行くぞ」
俺は言った。
最初の目的地は、パリ。
反撃の狼煙を、上げるために。




