第12章:灰色の夜明け
どれくらい、眠っていたのだろう。
俺が目を覚ましたのは、見慣れた新宿の屋上ではなかった。
鼻をつく、消毒液と、埃の匂い。
薄暗い部屋の中、俺は、古い医療用のベッドの上に寝かされていた。
「気がついたか、ボーイ」。
声のした方を見ると、そこにいたのは、生き残った「リアル・キッチン」の仲間だった。第2章で、トトの正体を教えてくれた、あの若いエンジニアだ。彼の顔には、新しい傷跡が刻まれている。
「ここは…」。
「俺たちの、新しいアジトだ」。彼は言った。「首都圏の地下に張り巡らされた、古い地下鉄の廃線を、再利用してる」。
身体を起こすと、隣のベッドで、レンがまだ眠っていた。
彼の左腕は、清潔とは言えない包帯で、痛々しく巻かれている。
「こいつの腕は…」。
「歌舞伎町の無免許の医者に、あり合わせの道具で応急処置させた」。エンジニアは言った。「専門の医者に診せたいところだが、地上の病院は、どこもAS社の監視下だ。…俺たちの仲間も、何人かやられた」。
俺は、全てを理解した。
俺たちが眠っていた三日間、彼らはずっと、AS社の追手から俺たちを守り、この地下の隠れ家まで運んでくれたのだ。
トトの魂は、確かに、ここに生き続けていた。
その日の午後、レンが目を覚ました。
俺たちは、生き残った数名の仲間と共に、小さなテーブルを囲んだ。食事は、水で戻した乾燥野菜と、堅いパンだけ。だが、それは、温かかった。
「世界は、どうなってる」。俺は聞いた。
「何も、変わらない」。レンが、苦々しく言った。「AS社は、『ミカド』の機能停止を、大規模なシステムメンテナンスと発表した。世間は、何も知らない」。
虚しさが、場を支配する。
トトは死に、しおりは消えた。俺たちの戦いは、一体何だったのか。
「変わったさ」。若いエンジニア(ユウタ)は言った。
彼は、地上に出て、この目で見た光景を話した。
歌舞伎町の片隅で、違法な焼き鳥の屋台に、人々が吸い寄せられるように集まっていた、光景を。
俺の最後のブロードキャストは、世界を書き換えることはできなかった。
だが、人々の心の奥底に、種を蒔いたのだ。
温かくて、しょっぱい、塩むすびの記憶の種を。
人々は、無意識のうちに、「本物の味」を、そして、誰かと何かを共に食べる「温かさ」を、求め始めていた。
それは、どんな法律も、どんなシステムも縛ることのできない、人間の本能だった。
「これだけじゃ、足りねえ」。俺は言った。「AS社を、完全に終わらせる」。
「ああ」。レンが頷く。「そのための手がかりは、ある」。
レンは、自らのデッキを操作し、一つのファイルを空中に投影した。
それは、崩壊する「ミカド」の瓦礫の中から、彼が命がけで回収した、メモリチップのデータだった。
『両親の最後の晩餐』。
「チップは、多重構造になっていた」。レンが言った。「表層には、母さんたちの最後の言葉が。だが、そのさらに深層に、親父が遺した、最後のメッセージが隠されていた」。
ファイルが開かれる。
そこに映し出されていたのは、一人の男の経歴だった。
若き日の、天才シェフとしての栄光。そして、ある一点を境に、美食の世界から完全に経歴が消え去っている。
神楽坂 鏡介
「こいつが、AS社のCEO」。
「ああ」。レンは続けた。「そして、しおりの父親、天城ひろしと、俺たちの父親、織部ケンジの、かつての同僚だ」。
ファイルには、衝撃の事実が記されていた。
神楽坂は、あの食中毒事件で、味覚と嗅覚の全てを失ってしまった、もう一人の被害者だったのだ。
「被害者?」。
「そうだ。だが、彼は、しおりのように絶望しなかった。そして、俺たちの父さんのようにもならなかった」。
レンが、ファイルの最後のページを開く。
そこには、神楽坂がAS社を設立した際の、彼の直筆とされる理念が記されていた。
『人間の不安定な感情や記憶こそが、不幸の源だ。ならば、AIによって完璧にデザインされた『幸福な味』だけを永遠に与え続けることで、人類を苦しみから解放できる。我々は、神に代わり、新しい食卓を創造する』
「こいつ…狂ってやがる」。
「いや、狂ってない」。レンは、静かに言った。「俺と、同じだ。俺が信じていた正義の、究極の姿が、こいつなんだ」。
俺は、言葉を失った。
しおりは、過去の悲劇に囚われ、全てを無に帰そうとした。
そして、神楽坂は、同じ悲劇から、歪んだ未来の楽園を創ろうとしている。
父が遺したメッセージには、続きがあった。
サーバー「ミカド」は、神楽坂の計画の、第一段階に過ぎなかった。彼はすでに、バックアップシステムを、世界中に分散させた次世代ネットワーク衛星「ウロボロス」に移行させている、と。
彼の計画は、もはや日本だけのものではなかった。
そして、メッセージの最後に、一つのプログラムが起動した。
世界地図の上に、いくつかの光点が、リアルタイムで明滅し始める。フランス、パリ。メキシコ、オアハカ。タイ、バンコク。
「なんだ、これは…?」。
「料理の匂いだ」。味覚のない俺が、直感的に呟いた。「世界中で、俺たちと同じように戦っている奴らがいる。親父が、そいつらを見つけ出すための『羅針盤』を、遺してくれたんだ」。
父が遺したプログラム「キッチン・コネクト」。
それは、AS社の監視網を逆用し、「本物の調理活動」から発せられる生体データを検知する、レジスタンス探知システムだった。
俺たちの戦いは、まだ、終わっていなかった。
いや、ここからが、本当の始まりだった。
俺は、ポケットの中の、ひび割れたクリスタルのチップを、強く握りしめた。
失われた味覚。手に入らなかった過去。
だが、もういい。
俺には、新しい「味」が見つかったから。
「行くぞ、レン」。
俺は、立ち上がった。
「世界中の、腹を空かせたダチが、待ってる」。
空が、白み始めていた。
それは、絶望の終わりを告げる、灰色の夜明けだった。




