第10章:塩むすび
俺がたどり着いたのは、古いレストランの厨房だった。
温かい光。楽しそうな客たちの笑い声。そして、コックコートを着た男性が、小さな女の子を肩車している。
「ほら、見てごらん。父さんの魔法だよ」。
幼いしおりと、彼女の父親。食が、まだ幸福の象徴だった頃の、完璧な記憶。
だが、次の瞬間、その風景が暗転する。
けたたましいサイレンの音。悲鳴。床に倒れる人々。
食中毒だ。
「なぜ。どうして」。
父親は、自分の料理が人々を苦しめている現実に絶望し、立ち尽くしている。
その時、厨房の隅で倒れていた夫婦が、幼い二人の息子を必死に抱いていた。
俺たちの、父さんと母さんだった。
母さんが、薄れゆく意識の中で、必死に何かを俺たちに伝えようとしていた。
『…ケイ、レン。生きて…』。
これが、しおりの絶望の原点。
彼女は、大好きだった父親が「人殺し」になり、そして、俺たちの家族を奪ってしまった、この食という行為そのものを憎んだのだ。
『もう、見たでしょう?』。しおりAIの声が響く。『これが、食がもたらす結末よ。だから、全てを消すの』。
彼女の絶望が、黒い霧となって俺の精神を包み込み、食い尽くそうとする。
「違う」。俺は、しおりの父親が料理を作っていた調理台に手を置いて、言った。
『何が違うというの?』。
「あんたは、本当に消したいのか? この、親父さんと笑い合った記憶まで、全部」。
『感傷は不要よ。それは、システムのエラーでしかない』。
「あんたは、食がもたらす最悪を知った。だが、最高を知らねえ」。俺は、しおりの絶望に飲み込まれる寸前だったが、瀕死のトトが、最後の力を振り絞って、俺の脳内に一つのデータを送り込んできた。
しおりは、生体認証だけが必要だったから、トトがケイの脳内に、データを一つ送り込めるとは知らず、彼に怪しまれないよう、治療前の、ケイの失われた『味覚の記憶』のメモリチップと、『両親の最後の晩餐』の本物のメモリチップを、預けていた。
いや、『「味覚の記憶」は、本物よ。せめて、あなただけでも、最後に本当の味を思い出して。そして、全てを忘れて、幸せになりなさい』…は、しおりの、本心だったのかも知れない。
トトの最後の切り札。
彼に教わった『調理』の真髄。それは、相手の記憶をいじることじゃない。自らの記憶で、相手の心を動かすことだ。
俺は、トトのデータを探った。
運び屋として買い取った、誰かの美食の記憶じゃない。ガリガリ君の記憶でもない。
俺が、味覚を失う前の、たった一つだけ、魂の芯に焼き付いて離れない、「原初の食の記憶」を見つけた。
それは、あの悲劇が起きた日の、朝の記憶だった。その小さな、温かい記憶。
レストランに出かける前の、朝の食卓の風景。母さんが握ってくれた、湯気の立つ、温かい塩むすび。
不格好で、少しだけ塩辛い、ただのそれ。それを、家族四人で、ただ黙って頬張る。窓から差し込む、朝の優しい光。父さんの眼差し。母さんの笑顔。隣で同じように頬張る、まだ生意気じゃなかった頃のレンの顔。
それだけ。だが、それこそが、俺の世界の全てだった。圧倒的な幸福感。
俺は、その記憶をしおりの絶望に叩きつけた。
それは、攻撃じゃない。
ただ、見せる。俺の魂の全てを懸けて。
『これは。何?』。
しおりAIの精神が、激しく揺らぐ。
黒い絶望の世界に、温かい光が差し込む。
「食は、人を殺すこともある。だがな!」。
俺は叫んだ。
「食は、人をこんなにも幸せにできるんだ! あんたが忘れただけじゃねえ。俺が、俺自身が、忘れてたんだ! この温かさまで、あんたに消させるわけにはいかねえんだよ!」。
俺が叩きつけた『塩むすび』の記憶が、しおりの絶望の中心で、太陽のように輝き始めた。
黒い記憶の墓場が、温かい光に包まれていく。
その時、現実世界で、レンの声が響いた。
「ケイ、戻ってこい! サーバーが臨界点だ!」。




