第1章:運び屋は味を知らない
今夜の取引相手は、黒いコートを目深にかぶった男だった。新宿歌舞伎町のネオンの光も届かない裏路地。酸っぱい残飯の匂いが漂うゴミ集積場の陰で、男は震える指を差し出す。俺はその指からメモリチップを受け取り、自前のポータブル・デッキに差し込んだ。
「ブツは?」。男がかすれた声で訊く。
「ああ、とっておきだ」。俺は無感動に答えた。「2023年、ゴールデン街の煮干しラーメン。酔った店主が湯切りしたアルデンテの麺。あの狭いカウンターの熱気もセットだ。
「立派なA級テイスティング犯罪だな」。
喉がごくりと鳴った。
俺の名前はケイ。この国で最も重い罪の一つ「違法テイスト・データ」を売買する運び屋だ。
馬鹿げてると俺は思う。
俺たちが命がけで取引しているのは、たかだかラーメン一杯の記憶だ。だが、この国ではそれが何よりの価値を持つ。
東京の空は、もう何年も前から法律でできていた。
灰色の雲をスクリーンに「国民健康テイスト法」の条文と、厚生労働省の認証マークが交互に明滅している。今夜の全国統一テイスト・データは、『減塩・高タンパク鶏むね肉のグリル、温野菜添え』。完璧に統制され安全で、そして何の感動もない味覚情報が光の雨となって街に降り注いでいる。
それが、この国の『食事』だった。
厚生労働省の巨大サーバー「ミカド」に保存された認証済みの「法定テイスト」以外を摂取・体験することは、法律で固く禁じられている。
国民は自宅で味気ない栄養ペーストを啜りながら、脳に直接そのデータを流し込む。食中毒も生活習慣病もアレルギーも存在しない、クリーンで正しい食生活。それが政府の掲げる理想郷だ。
彼らが味わっているのは何重にも検閲され、平均化され骨抜きにされたただのデジタル信号だ。だからこそ、人々は渇望する。俺たちが扱う、違法で不健康で、どうしようもなく「本物」の味を。
俺はデッキを操作し、データの検品を始める。目を閉じると、意識が真っ白な空間「メンタル・ビュッフェ」にダイブした。
目の前に、煮干しラーメンの記憶が浮かんでいる。強烈な魚介の香り。麺を啜る音。スープ表面に浮かぶ脂の玉。完璧だ。
だが、その記憶の奥に黒いシミのようなトラウマ「マズイ」が見える。記憶の持ち主が、このラーメンを食べた夜に、恋人にでもフラれたのだろう。この感傷的な後味を消さなければ、商品にならない。
俺は自らの記憶ライブラリから『高校の帰り道、仲間と半分こしたガリガリ君ソーダ味』のデータを引きずり出し、ノスタルジーの波で失恋の記憶を洗い流していく。
「極上だ」。俺が目を開けると、男が涎を垂らしそうな顔でこちらを見ていた。
「これが、最後の思い出なんだ」。
俺は男の震える手に、汚れた紙幣の束を押し付けた。男はそれに気づかないかのように、虚ろな目で宙を見つめている。
俺は雑踏に紛れた。感傷は不要だ。それがこの街の、この世界のルール。誰もが、人生のひとかけらを切り売りして、今日を生き延びる。
俺は、もう何年も何かを「美味しい」と感じたことがない。
他人の記憶を味わうことはできる。煮干しの風味も、ガリガリ君の爽やかさも、完璧にデータとして理解できる。
だが、俺自身の舌は、心は、何も感じない。まるで、分厚いガラス越しに食事を眺めているようだ。
俺は運び屋を続ける。いつか、出会えるかもしれないからだ。この空っぽの俺の心を、震わせるほどの、たった一つの「味」に。
その夜、雑居ビルの屋上にある俺のねぐらに一件の暗号化された通信が入った。
差出人は不明。提示された報酬額は、俺がこれまで扱ったことのない桁だった。そして、取引場所は、かつてホテルオークラに存在した、伝説の高級フレンチレストラン『ラ・ベル・エポック』の跡地。
仕事の匂い。それも、とびきりヤバい匂いがした。
深夜の虎ノ門は、墓場のように静かだった。
指定された個室の扉を開けると、そこに一人の女が座っていた。上質なシルクのブラウス。隙のないメイク。その女は、まるで古い書物の頁をめくるように、静かに名乗った。
「天城しおりと申します」。
「ケイだ」。俺は答えた。
「それで、運ぶブツは?」。
「これは、料理の記憶ではないわ」。しおりは言った。『味』そのものを創り出す、プログラムの設計図。サーバー『ミカド』を暴走させる、味覚のウイルスよ」。
俺は息を呑んだ。こいつは、ただの運び屋の仕事じゃない。国家への反逆だ。
しおりは続けた。システムがAS社に乗っ取られ、国民の嗜好がコントロールされていること。そして、俺の過去。世界最初の「偏食症」患者であったこと。味覚を失う代償に、この能力を得たこと。その治療を指揮していたのが、彼女自身であること。
「報酬は何だ」。俺は絞り出すように言った。
しおりは、もう一つ琥珀色のメモリチップを取り出した。
「これは、治療前のあなたの失われた『味覚の記憶』のバックアップデータ。報酬はこれよ。この仕事をやり遂げれば、あなたは再び『美味しい』と感じることができるようになる」。
俺は震える手でそのチップに触れた。
脳裏に遠い昔の陽だまりのような温かい記憶がフラッシュバックする。
母が握ってくれた塩の効いた温かいおにぎりの味。
「分かった」。俺は答えた。「その依頼、引き受ける」。
その時だった。
レストランの分厚いオーク材の扉が凄まじい轟音と共に、蝶番から吹き飛んだ。
硝煙と木の破片が舞う中、入り口に一人の男が立っていた。
俺と寸分違わぬ顔。
だが、その目は何も映さない氷のように冷え切っていた。
「見つけたぞ、被験体ゼロ。そして裏切り者の天城しおり」。
レンは、楽しそうに口の端を吊り上げた。
「そのおもちゃは、兄さんが回収してやるよ。そのデータの名前は、『最後の晩餐』だ」。




