第4話 影に潜む声
夕暮れが城を染めるころ、廊下は長い影に包まれた。
窓から差し込む橙色の光は、石の床を赤く染め、静かな時間を引き伸ばす。
だが、その静けさの中で、少女の胸は乱れていた。
シエル=フレイアは、ひとりの部屋に座り、窓の外を見つめる。
今日、リィドが渡した花の名前リストを、何度も手に取り、何度も見返した。
文字は単なる情報なのに、心に触れる温もりがある。
触れてはいけない感情が、静かに揺れる。
「……私の心は、どうしてこんなに揺れるの」
誰も聞いてはいけない声。
誰にも言えない想い。
涙を流せば死が待つ国で、少女はその事実を忘れたくなるほど心を揺らしていた。
廊下の向こうから、足音が近づく。
小さく、確かなステップ。
少女は振り返る。
「シエル」
その声は、リィドの声ではなかった。
――知らない、低く響く声。
胸が凍る。
誰もいないはずの廊下で、少女の心拍が早まる。
「誰……?」
だが声は答えず、廊下の影に溶けるだけだった。
少女は立ち上がる。
足は自然と、影の方向に向かう。
それでも理性は囁く。
――近づくな。ここで振り向けば、私は守れない。
影の先には、城の下級使用人がひとり、こそこそと書類を持ち運んでいた。
ほっと息をつくシエル。
だが、胸の奥のざわめきは収まらない。
――何かが、この城に潜んでいる。
――誰かの思惑が、私たちを見守っている。
その夜、城の庭園。
星はひとつも見えず、空は濃紺に沈む。
少女は一人、ベンチに座り、手のひらで胸の奥を押さえた。
「……私は、誰のために泣かずにいるのだろう」
自問の声は、闇に吸い込まれる。
しかし答えは決まっていた。
――リィドのため。
――彼の幸せだけを守るため。
背後から、風がそっと吹く。
花びらが舞い、少女の肩を撫でる。
その瞬間、胸の奥の熱が、小さく震える。
触れてはいけない、触れられない熱。
少女は目を閉じ、深く息をついた。
――涙は流さない。
――でも、私の心は、少しずつ、彼に向かって開いていく。
遠く、城の尖塔に灯がともり、闇と光が交錯する。
雨は降らない。
けれど、少女の胸の奥に、小さな涙の影が静かに降り積もった。