第3話 隠された微笑
城の朝は、静けさに満ちていた。
風は窓辺のカーテンをわずかに揺らすだけ。
だが、少女の胸には、昨日よりも強いざわめきがあった。
シエル=フレイアは、今日も鏡の前に立つ。
指先が髪を整え、制服の襟を直す。
鏡の中の自分は、いつも冷静で、感情のない少女に見える。
――しかし、鏡の裏側で、心は小さく震えている。
「……リィドは、今日も微笑うのだろうか」
その問いに答えはない。
幼馴染の王子、リィドは、常に穏やかに微笑む。
だが、彼の微笑みには――何か、少女には触れられない秘密がある気がした。
庭園に足を運ぶと、リィドはすでに歩いていた。
花々の間をゆっくりと歩くその姿に、少女は声をかけることさえ躊躇した。
「おはよう、シエル」
その声は昨日と変わらず優しく、穏やかで、少女の胸を押すように響く。
「おはようございます」
短く答え、視線を床に落とす。
だが、足元の影は微かに震えていた。
少女は気づいていた――自分の心は、抑えきれずに反応している、と。
リィドはベンチに座ると、手に持った小さな箱を差し出した。
「これ……昨日、君に見せたかったんだ」
少女は手を伸ばすことをためらった。
しかし、慎重にその箱を受け取る。
小さな蓋を開けると、中には薄く透けた紙切れが一枚。
「……これは?」
リィドは静かに微笑む。
「君にしか読めない、庭園の花の名前のリストだ。昨日、君がよく見ていたから」
その紙切れは、ただの文字の羅列であり、花の名前が並んでいるだけだった。
だが、少女にはわかった。
――彼は、私を見ていた。
――私だけを、見ていたのだ。
胸の奥が熱くなる。
触れてはいけない、触れられない熱。
小さく震える指先。
抑えられない感情が、ほんの一瞬、手の中で踊る。
「……ありがとう」
少女は口に出す。
声に抑制をかけ、震えを隠しながらも、心の奥底で何かが解き放たれる。
リィドは頷き、花々の間をゆっくり歩き出す。
少女はその後ろ姿を見つめながら、小さな誓いを胸に刻む。
――どんなに心が揺れても、
――私はあなたのために涙を流さない。
――それでも、私の心は、少しずつあなたを覚えていく。
午後の光が庭園を黄金色に染めるころ、二人は静かに歩き続けた。
無言の時間が、少女の胸の中に小さな温もりを残す。
雨は降らない。
けれど、少女の胸の奥に、微かな涙の影が降り積もった。